1944 小崗子の乾物商で

文字数 2,375文字

「人の後をつけるなんて、…あんまりいい趣味じゃないね。兄貴」

上手く不機嫌そうな声を出すことはできたが、内心は喜んでいるということがこの人には見えてしまっているのではないかと、辰留は少しだけ恐れている。

                    ⚫︎

赤いランタンが揺れる飲食店の軒が並び、傍らを行く棒手振りの行商人が声を張り上げる。売り口上も、それに応えて値段の交渉をする客の声も中国語だ。虹順と一緒に通った小崗子(しょうこうし)(中国人居留区)は、今や辰留にとってどこよりも馴染みの深い街になっていた。

初めて虹順に連れられてここへ来た時は、何もかもが珍しく、全てに興味をひかれた。肉の塊や魚介の鮮やかな色、近郊から運び込まれる荷車いっぱいに積まれた野菜。軒に吊るされて干物になっているそれが、もとはどういうものだったのか、想像するのも難しいものが食材として売りに出されている。

空の樽を利用して作った棚が店先に並び、載せられたザルにはあふれんばかりの香辛料。それが入ったものらしい鍋が、隣の店先でクツクツと泡を吹いて焚き上げられている。店主らしき人が竹串に刺さった芋のようなものを虹順と辰留に差し出して、口にすればねっとりと甘い。

そのすぐそばを鶏が歩き、飼い主らしき子供が後を追うのに紛れ込み、いつの間にか一緒になって遊んでいるうちに虹順の姿を見失う。キョロキョロとあたりを見回す辰留に、傍らで小さな椅子に腰掛けて一服している老人が、何か言いながら長い煙管の先で人波を指す。言葉はわからない。だが煙管の先には虹順がこちらへ小走りに駆けてくるのが見えた。

あの頃だったら路地の奥に入り込んでしまえば、右も左もわからないまま迷ってしまっただろうこの界隈も、今だったらどこに何があるか全てが辰留の頭に刻み込まれている。今日訪れたこの乾物屋だって、何度も来るうちにすっかり足が覚えてしまった。店の人たちとも馴染みになって、今日もひとしきりの世間話をして、店を出たところで思いがけず呼び止められた。

「辰留!」

この界隈の人は皆、自分のことを「ダーリュウ」と呼ぶ。
こんなところで日本人に呼び止められることを不思議に思いながら、聞き覚えのある声に震える。見れば軒先に立っているのは久しぶりに顔を合わせた兄の伊織だ。

「こんなとこで何してる」
「兄貴こそ」
「虹順に用事か?」
「へえ、兄貴も来たことあるんだね」

この店は虹順の姉の嫁ぎ先が営む乾物商だ。床に伏している虹順の見舞いに行きたいのは山々だけれど、ゆっくり休ませてあげたい気もするから、ここに通って虹順の様子を聞くのが近頃の辰留の日課だ。

「神戸の叔父さんたちに挨拶もしないで、こんなところに通い詰めか」

先週末、かねて予告されていた親類たちが内地から訪れていて、ハナからもその時は挨拶をするようにと言われていたが、辰留はその間一度たりとも家に近寄らなかった。家にいて挨拶をしろとわざわざ言われるということは、放っておけばそうしないだろうと思ってのことだろう。来客中に家に一歩も足を踏み入れなかったのは、そういうハナの期待どおりにしてやろうという気持ちと、自分がいなくても全ては進んでいくのだという諦めにも似た感情からだ。

「オレがいなくても何も問題ないでしょう?親父と兄貴があの家の全てだ」
「お前の事を話してたんだぞ」
「話し合いじゃなくて、報告でしょう。『この度辰留が志願する事とあいなりました』って」

                    ⚫︎

なるべく軽く、あっけらかんとした声を作って出せば、兄の表情は裏腹に曇って険しさを帯びてくる。

「…お前、それで本当にそうするつもりじゃないだろうな」

自分がどうしたいとか、辰留はそんな事を考える余裕すらなかった。
洋一郎に逆らうつもりはなかったが、何より志願を打診された時に伊織の事を引き合いに出されたことが、辰留にとっての動機であり、その他の理由はどれほどのものでもない。

『伊織は将来この商店を背負っていく立場であるし、あれの身体はお前ほど強くはできていない。この先食べていく事を考えた時に、もはや仕立屋の他は勤まらんだろう。…この店で全うさせてやりたいと思っているのだ』

その事なら辰留もよくわかっている。子供の頃から辰留には、兄の伊織のことが自分のことと同じように感じられた。自分の中に違和感を感じれば、大抵の場合伊織にも異変のある時で、逆に気分良くしている時は伊織の調子も良さそうだった。

兄のそばにいることさえできれば、辰留はいつでも気分が良かった。
幼い頃は兄の白くて柔らかい肌に寄りかかって、折り重なるように昼寝をして、兄より先に目覚めればまだ眠っているふりをしていたし、伊織が先に目覚めてどこかへ行ってしまうと、取り残された気分になって、ぐずぐずと泣いては虹順の手を煩わせた。

兄が12になったときから、辰留は一人で家に残されているような気分で、いつでも中庭で一人遊んで時間を潰していた。夕暮れ時に兄が戻ってくるのを待ちわびているのを、見かねた虹順が慰めるように辰留を可愛がり、時にはこうして市場へ連れて出てくれた。兄のいない無聊を、辰留はこの街で慰めるうちに成長したのだ。

「心配しないで。ちゃんと親父の言うようにするよ」
「そうじゃない、お前の意思を聞いてる。言われてする志願なんて、令状と何が違うんだ」

兄をなだめるつもりで従順な返事をしたのに、伊織は苛々と荒れた口調で辰留を詰問する。道端でするような話じゃないだろうと思いながら、この界隈の地図を思い浮かべて、辰留は兄に提案した。

「…ここで立ち話するのも何だから。ちょっと付き合ってよ」

勝手知ったる街の路地に、兄を伴って潜ってゆく。想定外の事態だけれど、悪い気分じゃない。
自分がそう感じているのだから、伊織もまた同じに違いないのだと辰留は思った。

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