1937 女中部屋で

文字数 3,078文字

初めて来たときは一風変わった作りのお屋敷だなと思ったけれど、この家にすっかり馴染んだ今は、よくできた建物だと虹順(ホンシュン)は思う。

冬の寒さが厳しいこの街では煉瓦造りの建物は珍しくない。暖炉と煙突はどの家にもあるものだが、この屋敷はここらではあまり見かけない、小さな中庭のついたロの字型をしている。ここよりももっと西、北京辺りによくある、いわゆる四合院(ピンイン)と呼ばれる伝統的な中国風の家を小さく模したかのようで、今までに仕えたどの家よりも自分にしっくり馴染む気がする。

小さいながらも中庭があるから、暖房の効率こそあまり良くないが、太陽光を屋敷の奥まで入れることができるのが気に入ったのだと、ご主人様が説明してくれた。これを建てたのは日本から来た建築家で、中国風の様式を取り入れた設計の自宅兼事務所として住んでいたその後に、大連で大きな洋装店を営む日本人がここを買って一家で移り住んできた。虹順が使用人として住み込んで働く、三つめの家族だ。

虹順が初めて奉公した家はロシア人の商人の屋敷で、ここよりももっと広く使用人もたくさんいた。女中頭に奉公人としての一切合切を教えられ、わずかばかりのロシア語を教えてもらい、全部で24も部屋がある屋敷の間取りを覚えた頃には、主人がイルクーツクへと転居するとかで、何人もいた使用人はまとめて解雇されてしまった。

次に奉公したのは日本人の役人の家で、とにかく狭い小さな家にたくさん庭木を植えたがるから、家事の他にも一日中草木の手入れに時間を取られた。体の小さい虹順には大きな木の枝を払ったり、その枝をまとめて束ねたりすることが一苦労で、ある時庭木にかけた梯子からうっかり転げ落ちて足を痛めた。1週間ばかり仕事を休むことになり、それ以降屋敷の主人は男性の庭師を雇うことにしたと言って、虹順はあっけなく仕事を失った。

人伝に紹介されてこの屋敷に奉公するようになって初めて、虹順は自分の部屋というものを用意してもらえた。それまでの家には使用人がたくさんいて、数名が一つの部屋で寝起きしていたから、虹順ひとりしかいないこの屋敷で女中部屋、ということはつまり、そこが自分の部屋ということになる。奥様の部屋にあるものほどではないが、小さな窓が空いて、中庭からの光が差し込む部屋は、今までのどの女中部屋よりも明るく、居心地がいい。もっとも、夜になってからでないと自分の部屋に戻ることなどないくらいに、やるべきことはたくさんある家だ。

二人の坊やは愛らしく、虹順によく懐いてくれる。幼い頃は家の小さな中庭で、一緒になって3人で遊んだ。仔犬がじゃれあうようにしていつも一緒にいた兄弟だが、近頃は兄の伊織が12歳になったのを機に、旦那様が仕事場に連れて歩き、店の職人たちの下働きを言いつけて、早速後継ぎとしての準備を始めているらしい。弟の辰留はまだやんちゃ盛りで、遊び相手の兄を旦那様に奪われてしまったからか、この頃は少しばかり寂しそうだ。

「虹順、街へ行くの?」

買い物籠を用意して身支度をしていると、どこからか様子を伺っていたのか、辰留が声をかけてきた。きっとそうくるだろうと思って、虹順も辰留が着る外套(コート)を手にして待っていた。

「市場、お夕食の、買いもの。 辰留さまも行きますか?」

返事をするより先に虹順の腕から外套を受け取って、ボタンをかけながら辰留が外へ駆け出してゆく。虹順は辰留の喜びそうな道を選んで、市場へと歩く。

兄の伊織は幼い頃は病気がちで、季節の変わり目ごとに体調を崩していた。あまり丈夫な感じではない奥様が、自分に似てしまったのかと気に病んでいるのを聞いたことがあったが、虹順には思い当たる節があった。内地から来たばかりの日本人たちは、身に覚えた習慣で日本にいた時と同じようなものを好んで食べようとする。淡白な白身の魚や、漬物と白米といった和風の食習慣を捨てきれず、こちらの厳しい環境に合わせた栄養価の高いものを摂ろうとしない。以前に仕えた家でも、そうしたことが理由で病に伏した家族がいたことを虹順は覚えていた。

豚や牛、鶏肉などを使った中国風の料理を虹順が勧めたのがよかったのか、成長するごとに伊織が体を壊すことも減ってきた。弟の辰留は兄とは違って、好き嫌いもなく何でも食べ、小さいながらもがっしりとした健康そのものの体つきをしている。活発でよく笑い、いつも兄と一緒になって遊んだりしているうちに、つられるようにして伊織も健康に育っていった。

そのうちに辰留も12歳になれば、兄と同じように旦那様のお仕事を手伝って、いずれお兄様と一緒に洋装店を切り盛りしていくのだろう。自分はそれまでの間、辰留の寂しさを埋めてあげられたらいいと虹順は思っていた。

せめてもの退屈しのぎにと、市場へ買い物に行くときに奥様の許しを得て辰留を連れて小崗子と呼ばれる中国人街へ行く。辰留は珍しそうに商店の軒を覗き込み、虹順が買い物をする間に店の子と遊んだりして楽しそうにしている。姉の嫁ぎ先である乾物商に立ち寄り、姉と義兄に顔を見せて買い物をすれば、辰留は虹順の甥や姪たちと一緒になって遊び、菓子を分け合って食べる。辰留にとっても虹順と街へ出かけることは、伊織のいない無聊を慰めて余りある娯楽になっている様子だ。おまけに帰り道には籠いっぱいの荷物から、辰留がいくつかを分けて持ち運んで、虹順の手伝いをしてくれる。

辰留が12になるまでだ。そうすれば、辰留も伊織と一緒に仕立屋として修行の身になるのだろう。…その頃になっても、自分はこの屋敷に勤めていられるのだろうか。

                     ⚫︎

近頃は奥様の留守中に、旦那様が虹順の部屋を訪れることが多い。今日は得意客のお屋敷で奥方のドレスを誂えるための採寸で出かけているから、すぐには戻るまいよ、旦那様はそう言って虹順の服を脱がせる。

「…辰留さまが」
「窓からご覧、中庭で遊んでいるだろう」
「伊織さまは」
「店で職人たちと一緒にいるよ」

カーテンの隙間から、中庭で一人遊びをしている辰留の姿が見える。

「…虹順、お前は本当にいい娘だ。店の職人の中から誰か選んで、所帯を持たせてやろう」

旦那様は気まぐれにそんなことを口にするけれど、虹順は本気にしていない。それよりも今、この屋敷を整えてゆくということにしか興味がわかないのだ。

最初はベッドを使っていたけれど、今では長椅子に旦那様が腰掛ける、その上に虹順が跨がる。ときには立ったまま窓の桟につかまって、腰を突き出すだけで済ませることすらある。急に辰留に呼ばれても、服が乱れて身繕いに時間をかけるようではいけない。だからその方がいいのだと虹順は納得している。

虹順の二人の姉はそれぞれが裕福な家の使用人として働き、自分の身をたてて故郷の両親を支えている。

『多少のことなら我慢するのよ。貧しい暮らしに戻りたくないでしょう?』

姉たちの言う通りだ。やさしい奥さま、愛らしい二人の兄弟、陽の差し込む自分の部屋。
…それを設えてくださった旦那さまの、お望みを叶えてさしあげるのは奉公人の勤めそのものだろう。自分がほんのひとときを堪えれば、全てが調和して整ったこの屋敷が、美しいままに保たれるのだ。

旦那さまの吐き出したものを素早く拭う手つきも、今では慣れたものだ。奥様が部屋に用意してくださった大きな姿見の前で服の乱れを直して、旦那さまに小さく頭を下げてから部屋を出る。庭で辰留が呼ぶ声がする。

「辰留さま。虹順はここです」

中庭は午後の光が満ちて、辰留の動く姿が水槽の底を泳ぐ魚のようだと虹順は思った。


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