1944 小崗子の木賃宿で

文字数 2,699文字

「…あ、もしかしてオレと虹順(ホンシュン)の子かと思った?」

出しぬけにそう言われてぎくりとして見返すと、辰留はニヤッと笑って伊織を牽制する。

「へえ、そんな女好きだと思われてるんだ」
「実際そうだろ? 女連れのところ見たことあるし」

あっさりとした顔をしている伊織からすれば、目鼻立ちがはっきりとしていて、見るからに快活な印象の辰留は誰からも好かれるだろうと思う。中学生になる頃には早くも色気付いて、女の子と連れ立って中央公園を歩く姿を見かけたこともある。異性のことに関しては、晩生(おくて)の伊織には到底太刀打ちできない華を持ち合わせているのがこの弟だ。

「そうねぇ。そっちに関しては兄貴に比べたら、確かにオレの方がほんの少し先かもね」

伊織の隣に腰掛けた辰留がそのまま仰向けに体を倒し、引きずり込むように伊織の上半身をも倒して、胸に掻き抱く。伊織は抵抗せずに身を任せて辰留の腕を枕にするように頰を寄せた。うっすらと汗の匂いがして、久しぶりに触れる辰留の体温に、この異界へ迷い込んでからの緊張が一気にほぐれてゆく気がする。

「……違うんだ。兄貴は他の誰とも違う」

違うんだよ。他の誰としたって同じだけど、最初の時からずっと、兄貴だけは別だ。…オレだけじゃないよね? そう言いながら辰留は伊織の腰を抱き、服の上から弓なりの熱を探り当てて撫でた。びくりと腰が震えるけれど、その指先を拒否する理由はどこにもない。見透かされたことの恥ずかしさだけが伊織の体をこわばらせるが、あとの全ては吸い寄せられるように辰留の掌に委ねられる。

                    ⚫︎

伊織の成長が遅いのか、それとも辰留が早すぎるのか。
先に雄としての異変を迎えたのは伊織だが、つられるように辰留の体も、人並みよりはだいぶ早くに大人になった。12歳になるよりも少し前、夢精という形で訪れた異変の意味を知らず、真夜中に一人で辰留が怯えているのに気づいたのも、伊織だ。

「大丈夫、病気でも何でもない。ちゃんと大人になってるってことだよ」

そう言って辰留の服を脱がせて、ベッドの縁に座らせる。その足元にひざまづいて、青草の匂いのするまだ薄く柔い弟のしげみに顔を埋めた。

「じっとしてて。きれいにしてあげるから」

誰にも言わない。両親にも、虹順にも秘密だ。そう言って伊織は辰留が夢うつつのうちに噴き出した白濁を舐めとっていく。言われた通りに大人しくしているのに、そうされているうちにまた両足の付け根に熱が溜まって、辰留の腰が震えて果てる。そんなことを幾度となく繰り返した。
辰留には伊織の、伊織には辰留の身体がわかるのだ。まるで自分の体みたいに。
ある夜は伊織が辰留を、また別の夜には辰留が伊織の寝台に潜り込み、互いの身体に溜まった熱を鎮めるように慰撫しあう。だが伊織の初等中学卒業を期に部屋が別々になり、辰留が家を空けるようになってからは尚更秘密の夜は減り、寝台に二人で身を寄せ合うのはいつ以来のことだったか、伊織にも辰留にも思い出せないくらいだった。

あの頃よりも厚くなった辰留の胸に抱かれながら、伊織は欲情するというよりは、ただ居心地よく安堵している。辰留の心音も体温も、どういうわけか自分の体に染み込むように馴染むのだ。

「親父に嫉妬してる?」

伊織がそう尋ねると、そんなんじゃないよ、と辰留は否定する。

「オレはさ、自分に弟か妹ができるような気分でいたんだ。それなのに…つまんねぇな」
「なあ、辰留。家へ戻れよ。母さんが心配してる」
「やめてよ。また双葉商会の話? オレはここが気に入ってるし、親父だってその方がいいだろ」
「あの会社は畳んで、事業は精算した」

辰留は驚いたが、すぐに納得がいった。そうなるのも無理はない。戦局は日を追うごとに悪化している。この大連でも手に入りにくい物資が出始めているのだ。服やコートの仕立てを頼むような客も減っているだろうと辰留は想像する。

「そうか…。兄貴も親父もここまでよく頑張ったよ」

落ち着いた声でそう言った辰留だったが、伊織の話すその続きは、さすがに軽くあしらえない。

「親父は死んだよ。先月だ。もう葬儀も済んでる」

                    ⚫︎

「そんな…どうして」
「スパイ容疑で逮捕された。散々拷問受けたらしくてね。…戻って三日と経たずに事切れたよ」

洋一郎は突然屋敷を訪れたモリヤマという男をはじめ、数名の刑事に連行された。警察から詳しいことは何の知らせもなく、ようやく帰宅を許されたのは逮捕されてから半月あまり過ぎてからのことで、釈放された夫の姿に伊織もハナも言葉を失った。全身に打撲の痣が残り、満足に口も効けないような有様で、膝頭の骨を叩き割られ、洋一郎は自分で歩くことはもちろん、自力で立ちあがることすらできない。

消え入りそうな小さな声で洋一郎が説明する、その単語をつなぎ合わせてようやく理解できたのは、どうやら神戸から訪れた親類にカメラを貸した、ということが「間諜行為」とみなされたらしい、ということだ。
スパイの容疑がかかった洋一郎に対して、特高の尋問は苛烈を極めた。だが知るはずもない仲間の名前や、居所を吐けといわれても、ただ仕立職人として生きてきた洋一郎としては「知らない」「何のことだかわからない」を繰り返すだけだ。

体に聞く、という尋問を半月あまり繰り返し、こいつからは何も引き出せない、そう判断した特高は洋一郎を解放したが、もはや店に再び立つことはおろか、職人としてメジャーを持つことも、マチ針ひとつ摘み上げることすらできなくなったまま帰宅して数日後、力尽きたように洋一郎は亡くなった。
残された伊織とハナは洋一郎を荼毘に付し、店は廃業、従業員たちに当座を凌ぐ金を渡して全てを整理した。店舗は人手に渡り、最後まで残ってくれた番頭と共に資金をやり繰りして、何とか屋敷だけは手放さずに済んだ。だが、そうまでして残した自宅にも、今やハナと伊織の二人が寝起きするだけだ。

                    ⚫︎

「だから、もういいんだ。志願なんてしなくていいし、店のことも考えなくていい。とにかく一度家へ戻れよ」

伊織には答えずに、辰留は兄の体を抱いて、匂いを確かめるようにうなじに顔を埋めた。

「…お袋はどうしてる?」
「今はまだ忙しそうだ。相続だとか、親戚たちとのやりとりがたくさんあるからね」
「…お袋に詫びなきゃ…」

誰に向けたものでもない小さい囁きだけれど、自分のすぐ耳元にある辰留の声だ。聞き違えることはない。この弟の、生命の躍動を詰め込んだような体から出てくるものだとは信じられないほどに、震えるようなか細い声だった。



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