1932 屋敷の中庭で

文字数 2,385文字

庭からの陽が差し込む窓辺で、ハナは布に型紙を並べてまち針で仮止めしている。
洋裁は東京にいた頃から得意だったけれど、まさか夜会服を一人で仕立てられるようにまでなるとは思ってもみなかった。大きくはないが明かりを取るには十分な大きさの窓がある部屋に、自分用の机があって、洋裁のための道具の一揃いを入れたバスケットを置く棚があって、少々型の古いものではあるが、ミシンも用意されている。

庭ではハナの子供たちと、使用人の虹順(ホンシュン)が遊んでいる声がする。ついこの間やってきた布袋戯(ほていぎ)の一座の人形芝居を見てから、二人の兄弟は斉天大聖(孫悟空)に夢中だ。粘土をこねて作った頭に、せがまれるまま子供の手のひらがすっぽりと覆いかぶさるくらいの布をつけてやって指人形をこしらえた。花壇の下に潜ってきゃあきゃあとはしゃぎながら、二人は人形劇の真似をして遊んでいる。

二人の子供と、屋敷と、使用人、それから自分の仕事部屋。
夫の洋一郎が与えてくれたすべてのものにハナは感謝し、満足していた。

洋一郎はハナの父親が銀座で営むテーラーに、仕立職人としてやってきた。
幼い頃から仕立屋で奉公をして育ち、紳士服の縫製を学んで腕がついてきたところで、父に見込まれて一人娘のハナと結婚し、京橋に支店を開業した。だが洋一郎よりも遥かに顔が広く腕の立つ仕立屋が軒を連ねているこの街では、このまま看板をぶら下げていても、成功は望むべくもない。

もっと別の街へ赴いて、そこで開業した方がいいのだろうか。そう思い悩むうちに大きな地震に見舞われた東京は一瞬で瓦礫の山となり、運よく焼け出されて命を留めた者たちも、生きていくのが精一杯になった。
そこへとどめを刺すように、いよいよ底無しの不景気がやってきた。東京だけではない。先祖伝来の田地田畑を持つような大地主ならいざ知らず、己の田畑を持たぬ者、漁師とはいえ自分の船を持たない者には、飢える毎日が続くばかりの世の中だ。
このまま東京で仕立屋を続けていくことは、そうした者たちと何ら変わりがない。
そうして多くの者が新天地を求め、大連を目指した。
日露戦争の戦利品としてロシアから租借権を奪った遼東半島先端の都市、旅順と大連を、日本政府は大陸への入り口になる港町として発展させようと多くの移民を募った。洋一郎とハナも本店の職人たちに見送られ、大連へと渡ることになったのだ。

パリを模して作られたとの噂通り、ヨーロッパと見まごうような街並みには洋装がよく似合う。洋一郎が自宅の軒に看板を掲げて始めた小さなテーラーは、初めのうちこそ夫婦二人で細々と続けていたが、『銀座から来た仕立て屋』という評判が評判を呼んだらしい。いつの間にか商いは軌道に乗ってあっという間に客を増やし、職人を増やして、今やこの界隈では随一の洋装店となった。人を雇って店舗を構え、商いを大きくすることができるようになったのだ。洋一郎はたくさんの職人を抱えた店主となり、暮らし向きは大いに上向いた。

手狭になった自宅を手放して、この煉瓦造りの屋敷に移り住んだのが3年前だ。
初めは広すぎると思ったけれど、使用人を雇って住みはじめてしまえば、自然に体の方がこの広さに馴染んでいく心地がする。

慣れない土地で二人の子供を育てるハナの負担を減らそうと、洋一郎が雇ってくれた使用人は、数えで14になったばかりで、それでも人に雇われて家事を手伝うのはもう3軒目だという。兄と姉がそれぞれ二人ずついる農家の末っ子で、二人の姉も同じように大連や旅順に出て家事手伝いとして屋敷勤めをして家計を支えているらしい。

万事が内地とは違うここでの暮らしを熟知し、手助けしてくれる虹順のことを、ハナは年の離れた妹のように思えて愛おしかった。屋敷には自分たち家族4人が暮らすのに十分な数の部屋があったから、そのうちの広い一部屋をまず虹順に与えて、ハナはその隣の、小さな中庭に面した窓のある一部屋を、夫に頼んで自分の作業部屋にしてもらった。洋一郎はハナが洋裁をするための部屋として、窓の下に洋裁のための作業台をしつらえ、小振りながらもよく動くミシンを用意し、思い立ったらいつでも使えるように整えてくれた。

幼い頃から慣れ親しんだ洋裁ではあったが、洋一郎がハナに夜会服の縫製を教えてくれて、いつの間にかハナも一人でドレスを仕立てることができるようになっていた。ごくまれにお客様の奥様から頼まれれば、ハナが出向いて採寸をして仕立て、納品する。ハナは店に行かなくても、ここで子供たちの面倒を見ながら、自分の好きな洋服の仕立仕事に精を出せるのだ。

大連に渡ってきた最初の年に生まれた伊織はもう7歳になって、弟の辰留(たつる)も来年は小学生だ。長男は少しばかり小さい身体で産まれて病気がちだったが、弟ができてからは少しずつ元気になり、体調を崩すことも減ってきた。弟は2つ歳下だが、兄の伊織が小さかった頃に比べて体も大きくて丈夫だった。なんでも伊織の真似をして、言葉を覚えるのも早かった辰留がいるおかげで、伊織もまた兄として成長しているのだろう。

中庭で二人が手を叩きながらはしゃぐ声がする。
布袋戯の次は目隠し鬼で、二人の大のお気に入りの遊びだ。手拭いで目を覆った虹順に追い詰められそうになるのをするりとかわした辰留が、伊織の胸に飛び込んで転げ、二人が笑う。伸びてきた鬼の腕に捕まったのは伊織の方で、鬼は交代になった。

二人の子供たちが遊びに夢中になっているうちに済ませようと、ハナは裁ちばさみを取り出して、服地を裁断してゆく。シャクシャクという音を響かせて、手入れの行き届いたはさみがビロードの波を切り進む。その向こう側では伊織に捕まった辰留がきゃあきゃあと笑う声がした。

幸せに音があるなら、きっとこういう音だろうとハナは思う。
最後のひと断ちが「しゃくり」と音をたてて、裁ち鋏の刃が互いを抱き合いひとつに収まった。


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