1944 小崗子の寄場で

文字数 3,180文字

我想要一个海马(タツノオトシゴが欲しい)

そう書かれたメモを、乾物屋の店番をしている若者に見せる。この間尋ねた時は虹順の姉という人がいて、片言ながら日本語で対応してくれた。日本人の屋敷で使用人をしていたことがあるとかで、伊織にしてみればありがたいことだったが、不在らしい今日はそう簡単にはいかない。辰留から「自分に用事がある時は、あの乾物屋でこれを店番に見せろ」と言われて受けっとったメモを、ポケットから出して手のひらの上に広げて見せる。

店番は伊織の手のひらと顔を交互に数回見返してから、店の奥に向かって誰かを呼んだ。ほどなくして出てきたのは10歳くらいの少年だ。
伊織の着た服の袖をつかんで、店の外へと引っ張る。引かれるままに後をついてゆくと、細く薄暗い路地へと入り込んでゆく。漢字だらけの看板が掲げられた市場を通りぬけ、次々に角を曲がった。

                    ⚫︎

湯気を吹く鍋からなのか、食材のそれなのか。それとも人そのものから発してくるものなのか。いろんな匂いの混じる路地が続く。通路に向けて開け放たれた扉の中で、土間にしゃがんで料理を作る女たちや、何かを飲み食いする男たちが見える。奥では車座になった男たちが賭事に興じているようで、小さな虫籠を片手に卓を囲んでいる。どうやら闘()の真っ最中らしい。虫の鳴く音を掻き消すように、時折歓声が上がる。

ようやく少年の足が止まって、幅の広いちょっとした広場にたどり着いた。そこはどうやら寄場らしく、ひと仕事終えたところなのか、仕事にあぶれて一日中そうしていたのか、周囲は苦力たちばかりだ。薄汚れた作業着姿である者は飯を食い、ある者は安酒を飲んでいる。そんなところに茫然と立っている、仕立てのいいテーラードジャケットに身を包んだ伊織の姿は、どう見てもよそ者が道に迷って紛れ込んだ体だ。

見るともない視線が絡みついてくるのを感じて、伊織の背筋は凍りつき、脚がすくむ。気がつけば少年はどこかへ姿を消して、伊織一人が茫然と広場で立ち尽くしている。
戻らなければと思うが、どこからどうやってここへ来たか、それすらわからなくなるほど、何回も路地を曲がり、軒下を通りぬけた。太陽の位置から方角を読んで、その方向へひたすら向かっていくしかないのかと思い巡らすうちに、広場の奥からこちらを伺う気配を感じる。

奥の方にある少しだけ高く作られた台の上から、前後に一人ずつ、ボディガードらしい男たちを従えて、中国服を着た男がこっちへ向かってきた。中国服の仕立てについては何も知らないが、服地を見定めるのは伊織の職業柄身についた癖のようなものだ。広場に群がっている苦力たちより明らかに身なりがいいのは、おそらくこの寄場を取り仕切る客頭(ブローカー)だということなのだろう。

誰か探してるのか(你在找人吗)

そう声をかけられたが、意味もわからず、返事もできない。

固まっていると路地の奥から走り出てきた男が、その男たちに話しかけて、二言三言中国語でやり取りすると、強引に伊織の腕をとって歩き出した。
男は苦力たちと同じような、枯れ草色の粗末な作業着に身を包んでいる。目深に帽子を被り、ほんのわずか伊織よりも高い背をちぢこめるように、速足で今来た道を戻るように歩いてゆく。何度か角を曲がり、細い路地に入って他者の気配がなくなると、男が日本語で話しかけてきた。

「ここでその格好は目立ちすぎるよ、兄貴」
「…辰留?」

そこからすぐのところにある、緑色の扉がついた小さな木賃宿らしい建物の前まで来てから、ようやく辰留は伊織の腕を離した。

                   ⚫︎

「こっちに来て」

辰留に招き入れられた宿の、いくつも小さな扉の並んだ廊下。その奥にある一室に二人で入ってゆく。寝台が置かれただけであとはほとんど床が見えないような部屋は、小さな窓から入る光だけで十分明るくなるくらいの狭さだ。伊織を寝台に座らせて、辰留は腰にぶら下げていた手鉤を壁の小さな釘に引っ掛けると、汚れた服を脱いで汗を拭う。硬く筋肉の波打った体に貼りついたおが屑がパラパラと床にこぼれて落ちるのが、伊織には不思議でならない。

「農場で働いてるのか?」
「こんなとこから農場なんて通うわけないだろ。さっきの広場、毎朝あそこで仕事をもらうんだよ。船着場を割り当てられたら、そこで苦力に紛れて船の荷揚げと積み込みを手伝うんだ。ほら、こいつを麻袋とか木箱に引っ掛けて担ぐんだよ」

そう言ってさっき壁に掛けた手鉤を指差す。木の握り手の先端に鉤状の金属がついた小さな鳶口のようなそれを、港で働く男たちは自分の腕代わりみたいに携行している。

積荷の木箱におが屑が詰めてあるんだ。緩衝材だよ。だから一仕事終わるとおが屑まみれってわけ。辰留はそう言って生成り色のスタンドカラーシャツに着替えると、寝台に座る伊織の隣に腰をおろした。

「兄貴、暫くだね。変わりない?」

伊織には辰留がどこにいるかわからなくても、とりあえずは無事に過ごしているであろうことは何となくわかっていた。変わりないかと尋ねる辰留も、実はそうなのかもしれない。互いに異変があれば、そうと知る前にわかる。知るのではない、感じるのだ。

今だって見知らぬ街中の、入ったこともない小さな部屋の中でも、久しぶりに辰留のそばにいられて、子供の頃のように気分よくしていられる。ということは辰留も同じような心持ちでいてくれてるのだろうと伊織は思う。

「それにしても、よくここまで入り込んだね」
「お前に話があって…。あのメモを渡したらお店の子がここに連れてきてくれたんだ」
「…あの店、オレもしばらく顔出してないんだ…。変わりなかった?」

さっきまで険しかった辰留の表情はほぐれているが、伊織は相変わらず硬い表情のままだ。

「…そのうちまたお袋に金せびりに来るだろうと思ってたのに、お前、来ないから」
「もう必要なくなったよ」
「仕事があるからか?」
「…あの金はオレのじゃない。全部虹順に渡してもらってた」
「どうして。虹順には暇をやるときに、治療費の分もちゃんと色をつけて払ってるはずだろ」

辰留は伊織の顔を見るのが辛いみたいに、俯いて足元を見る。

「虹順は病気で辞めたんじゃないよ。妊娠してた」

「…誰の子?」
「親父だよ。虹順も認めた」
「お前、どうして知ってるんだ」
「この間教えただろ? 中庭の、白いペンキのついたレンガのこと」

辰留に教えられたそのレンガは漆喰が剥がれ、指をかけて少しずつ動かせば、コトリと抜けて長方形の暗闇が見える。その穴から部屋の中の音はよく聞き取れた。中庭でひとり遊びをするうちに偶然見つけた、あの屋敷の小さな瑕疵だった。

「あそこから聞こえちゃったんだよ。虹順と親父の声がさ」

覗き込んでもどこまでも暗いだけの闇だが、耳をすませば部屋の中の声が聞き取れた。
行為の意味すら理解できない幼い辰留の耳に、かすれるような虹順の声が聞こえる。母が出かけてゆく日は大抵父が仕事場から屋敷に戻って、そして虹順の部屋にいた。

……旦那さま、お許しください。辰留さまがいらっしゃるのに……

繰り返すうちに、虹順の体に新しい命が宿る。ハナにも洋一郎にも知らせずに、問い詰めた辰留にだけ虹順は本当のことを話したのだ。

「俺はずっと『脚気をこじらせた』って聞いてたよ」
「虹順が奥様に知られたくないって言うから、病気ってことにして暇乞いするようにオレが入れ知恵したんだ。……頼むよ、兄貴。お袋には言わないで」
「だからお前、お袋から金せびって虹順に渡してたのか」
「産まれたらいくらだって金が要るだろ? …でももう必要なくなっちゃったけど」

流産したってさ。だからもう、お袋に金出してもらうのもやめたんだ。
伊織の顔を見ないまま、辰留がポツリと言った。




※闘蟋[とうしつ]……コオロギを闘わせる伝統博打。中国宮廷発祥とされる。

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