1944 小崗子の茶舗で
文字数 1,896文字
辰留が選んだのは幾種類もある中国茶を出す店だった。
傍らの客はそれなりに良い身なりの夫人たちで、盆の上にこまごまとした茶器を並べて、盃のように小さな器に注いだ茶を啜っては、茶海に湯を注ぐことを繰り返している。
そうした面倒を一切省いて、直接茶葉を浮かべた大振りの器が辰留と伊織の前に並べられた。辰留は慣れた手つきで茶器の蓋をずらし、こうやって浮かんでる茶葉を押さえながら飲むんだよ、と伊織に説明しながら茶を啜ってみせた。
「母さんから受け取った金で何をしてるのかと思えば…結構なご身分だな」
整った調度品が並べられた店内は広くゆったりとして、壁に作られた棚には一面に茶葉を入れた缶が並べられている。午後の陽光が窓から差し込んで、缶に反射した光が磨かれた床に模様を作った。兄が落ち着いて話せるように店を選んだつもりだったが、藪蛇だったかもしれない。
「あの金はオレのものじゃないよ。全部虹順に渡してる」
「あそこで虹順に会ってるのか」
「違うよ。虹順の姉さんが店にいてね。様子を聞いて、金だけ渡してもらってるんだ」
「うちを辞める時に『病気の治療費のこともあるから』って、お袋はずいぶん色をつけて金を渡してるはずだろ」
…兄貴は何も知らない。お袋の説明を丸呑みにしているのだろう。何の疑問も感じていない顔で責める口調を突きつけてくる伊織の声色は険しいが、辰留にとってはまんざら嫌でもない。この街に紛れ込んで寝起きして、たまにしか家に戻らない毎日の中で、ずっと飢えて渇いていたのだ。多少の塩気が混じっていようが、今の辰留に兄の声は甘露だ。
「足りないみたいだから、オレが渡してるんだ」
「じゃあお前の遊ぶ金はどこから出てるんだよ」
「もらった小遣いを博打で増やしてるんだ」
「博打なんて、増やした金の倍は溶かしてるんだろう」
「よく知ってるね、兄貴。それが博打の基本だって、オレも最近知ったよ」
笑い話にして強引に話を打ち切るけれど、矛の向く先がほんの少し変わるだけで、伊織が黙って引き下がるわけもなかった。
「辰留、店を手伝わないか」
時局が時局だから、客足も減ってるし、資材も手に入りにくい。勤労奉仕だとかで、近頃はもっぱら軍服などの兵士が身に着けるものばかり作っている。仕事も減ったうえに、働き盛りの職人たちはみんな徴兵されてしまったから、人手が足りていないんだ。そう訴える伊織の言葉を聴きながら、辰留は頭をゆっくり左右に揺らす。
「…親父はオレをあの店に近づけたくないんだよ。兄貴にもわかるだろ?」
身に覚えのある伊織は口籠った。
辰留が12歳になったばかりの頃、母の言いつけで店に届け物をしに行った時には、洋一郎は辰留を店の裏口からしか入れさせなかった。わずかな駄賃を与えられて早々に追い返され、まるでここに来ることさえ迷惑だと言わんばかりのあしらいをされたのを、伊織も見ていたはずだ。来た道を戻る自分を伊織が追いかけてきて慰め、ねぎらってくれたことを辰留は忘れていない。
『辰留、父さんに頼んでみるから、お前も店に来いよ』
仕事の手を止めて追いかけて来てくれた。そう言ってくれた。
あの時と同じことがいまだに繰り返されていることに辰留は苛立ちを通り越して、もはや諦めしか感じない。自分の口から出る淡々と冷めた調子の言葉に、我ながら嫌気が差してくる。
「親父には俺が話をつける。だから…店を手伝ってくれ。志願のことも、考え直せよ」
「無理だよ、兄貴。あの人はオレのことを自分の息子だと思ってない」
「どうして」
「…どうしてもだよ。認められないんだから、仕方ないだろ」
ハナがそう言っていた。洋一郎は返事すらしなかった。否定しなかったということは認めたと同じことだと辰留は思う。
⚫︎
「兄貴、中庭の北側の壁、一個だけ白いペンキの付いたレンガがあるの、知ってる?」
「…さあ。見たことないけど」
「あのレンガがね、オレにいろいろ教えてくれたよ。あの家のこと」
そう言いながら辰留は店員を呼び止めて、紙と筆記具を貸して欲しいと頼む。手渡されたメモ用紙にさらさらと漢字を連ねてゆく。
「オレに用事がある時は、あの乾物屋に来てよ。それでさ、これを店番に見せたらいいよ」
我想要一个海马(タツノオトシゴが欲しい)
そう書いたメモを伊織に渡すと、辰留は席を立つ。
本当は立ち去り難いのだと兄は気づいてくれるだろうか。気づかれたくない気持ちもある、その斑な感情を持て余す。この店は乾物屋からそう遠くは離れていないから、ここで別れても兄貴一人で帰れるだろう。
伊織のことを振り切るように店を出ると、辰留は小崗子の路地を奥へと潜っていった。
傍らの客はそれなりに良い身なりの夫人たちで、盆の上にこまごまとした茶器を並べて、盃のように小さな器に注いだ茶を啜っては、茶海に湯を注ぐことを繰り返している。
そうした面倒を一切省いて、直接茶葉を浮かべた大振りの器が辰留と伊織の前に並べられた。辰留は慣れた手つきで茶器の蓋をずらし、こうやって浮かんでる茶葉を押さえながら飲むんだよ、と伊織に説明しながら茶を啜ってみせた。
「母さんから受け取った金で何をしてるのかと思えば…結構なご身分だな」
整った調度品が並べられた店内は広くゆったりとして、壁に作られた棚には一面に茶葉を入れた缶が並べられている。午後の陽光が窓から差し込んで、缶に反射した光が磨かれた床に模様を作った。兄が落ち着いて話せるように店を選んだつもりだったが、藪蛇だったかもしれない。
「あの金はオレのものじゃないよ。全部虹順に渡してる」
「あそこで虹順に会ってるのか」
「違うよ。虹順の姉さんが店にいてね。様子を聞いて、金だけ渡してもらってるんだ」
「うちを辞める時に『病気の治療費のこともあるから』って、お袋はずいぶん色をつけて金を渡してるはずだろ」
…兄貴は何も知らない。お袋の説明を丸呑みにしているのだろう。何の疑問も感じていない顔で責める口調を突きつけてくる伊織の声色は険しいが、辰留にとってはまんざら嫌でもない。この街に紛れ込んで寝起きして、たまにしか家に戻らない毎日の中で、ずっと飢えて渇いていたのだ。多少の塩気が混じっていようが、今の辰留に兄の声は甘露だ。
「足りないみたいだから、オレが渡してるんだ」
「じゃあお前の遊ぶ金はどこから出てるんだよ」
「もらった小遣いを博打で増やしてるんだ」
「博打なんて、増やした金の倍は溶かしてるんだろう」
「よく知ってるね、兄貴。それが博打の基本だって、オレも最近知ったよ」
笑い話にして強引に話を打ち切るけれど、矛の向く先がほんの少し変わるだけで、伊織が黙って引き下がるわけもなかった。
「辰留、店を手伝わないか」
時局が時局だから、客足も減ってるし、資材も手に入りにくい。勤労奉仕だとかで、近頃はもっぱら軍服などの兵士が身に着けるものばかり作っている。仕事も減ったうえに、働き盛りの職人たちはみんな徴兵されてしまったから、人手が足りていないんだ。そう訴える伊織の言葉を聴きながら、辰留は頭をゆっくり左右に揺らす。
「…親父はオレをあの店に近づけたくないんだよ。兄貴にもわかるだろ?」
身に覚えのある伊織は口籠った。
辰留が12歳になったばかりの頃、母の言いつけで店に届け物をしに行った時には、洋一郎は辰留を店の裏口からしか入れさせなかった。わずかな駄賃を与えられて早々に追い返され、まるでここに来ることさえ迷惑だと言わんばかりのあしらいをされたのを、伊織も見ていたはずだ。来た道を戻る自分を伊織が追いかけてきて慰め、ねぎらってくれたことを辰留は忘れていない。
『辰留、父さんに頼んでみるから、お前も店に来いよ』
仕事の手を止めて追いかけて来てくれた。そう言ってくれた。
あの時と同じことがいまだに繰り返されていることに辰留は苛立ちを通り越して、もはや諦めしか感じない。自分の口から出る淡々と冷めた調子の言葉に、我ながら嫌気が差してくる。
「親父には俺が話をつける。だから…店を手伝ってくれ。志願のことも、考え直せよ」
「無理だよ、兄貴。あの人はオレのことを自分の息子だと思ってない」
「どうして」
「…どうしてもだよ。認められないんだから、仕方ないだろ」
ハナがそう言っていた。洋一郎は返事すらしなかった。否定しなかったということは認めたと同じことだと辰留は思う。
⚫︎
「兄貴、中庭の北側の壁、一個だけ白いペンキの付いたレンガがあるの、知ってる?」
「…さあ。見たことないけど」
「あのレンガがね、オレにいろいろ教えてくれたよ。あの家のこと」
そう言いながら辰留は店員を呼び止めて、紙と筆記具を貸して欲しいと頼む。手渡されたメモ用紙にさらさらと漢字を連ねてゆく。
「オレに用事がある時は、あの乾物屋に来てよ。それでさ、これを店番に見せたらいいよ」
我想要一个海马(タツノオトシゴが欲しい)
そう書いたメモを伊織に渡すと、辰留は席を立つ。
本当は立ち去り難いのだと兄は気づいてくれるだろうか。気づかれたくない気持ちもある、その斑な感情を持て余す。この店は乾物屋からそう遠くは離れていないから、ここで別れても兄貴一人で帰れるだろう。
伊織のことを振り切るように店を出ると、辰留は小崗子の路地を奥へと潜っていった。
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