1944 双葉洋装商会で

文字数 3,558文字

「どうして辰留には見習いをさせないんですか」

なるべく不満の色を出さないように気を遣いながら、伊織(いおり)は親方に訊ねる。

街を縦横に走る路面電車の停留所のほど近くに、3階建ての洋館として店を構える双葉洋装商店は、もとは職人ひとりが紳士服を作る小さな商いから始まった。そのうちに仕立だけでなく服地やボタンの輸入も手掛け、今や婦人向けの洋装小物も揃えるような大店だ。仕立職人はもちろんだが、これほどの規模にもなればとにかく人手が必要になる。

伊織は父の言いつけに従って、12歳になったらすぐ店に出入りするようになった。学校に行っている時間のほかは、店の3階にある職人たちの作業部屋で過ごし、掃除はもちろん職人たちの使う道具の手入れや、資材の整頓、在庫管理など、とにかく親方に言われるままなんでも手伝った。だから作業部屋のどこに何があるか、どんな小さな物でも在庫がどこに仕舞われているか、他の誰よりも正確に把握しているのは一番年少の伊織だ。15歳で中学校を卒業してからは毎日を仕立職人としての修行に費やし、おかげで18になる頃には自分で紳士服の三揃いを仕立ることができるようになっていた。

先月は初めて一人で1着分の仕立てを任されて、それもきちんと納期を守り、晴れがましい気分に浸りながらも、どうしても納得できずにいる辰留の処遇について、この仕事が済んだら親方にきちんと訊ねてみようと思っていたところだった。

親方、つまり洋一郎からは、仕事場にいる時は他の職人たちと同じように『親方』と呼ぶように言われていた。だから伊織としても家族として、というよりはあくまでもこの店で働く従業員として、できるだけ淡々と訊ねたつもりでいた。

とはいえ本当のところ、弟の辰留のこととなれば心中穏やかでいられないのが伊織の本心だ。

                     ⚫︎

幼い頃はいつも一緒で、何をするにも辰留が後をついて来て、そうしているのが当たり前のことだと思っていた。

怖い夢を見て真夜中に起きてしまっても、隣で枕を並べている辰留がいれば寝息を聞いて安心できたし、本当は逃げ出したいと思っている予防注射も、辰留の前では大人しく我慢することができた。互いに成長して部屋が別れても、壁の向こうにいるはずの辰留の様子がどういうわけか伊織には感じ取ることができた。

それは辰留も同じことのようで、季節がわりに伊織が熱を出したりすれば、いつでも親より先に気づくのが辰留だった。場合によっては本人よりも先に、辰留の方が伊織の変調に気がついて虹順(ホンシュン)を呼びに行ったりする。18の秋に肺炎になった時も、伊織が変な咳をしているから医者を呼んで欲しいと辰留に頼まれたと言って、夜中でも往診してくれる医師を虹順が探して連れてきてくれた。だから「ひどくなる前に手当ができたのが良かったんでしょう」と医者が驚くくらいに、早く回復することができたのだ。

小さい頃から食べ物の好き嫌いが多くて、母や虹順が手を焼いていた伊織だったが、隣で辰留がなんでも美味しそうに食べるのを見ているうちに、自分も真似するようになってからは、苦手な物も減って、それまで伏しがちだったのがみるみるうちに健康になった。

色も白くて線の細い伊織に比べて、辰留は体格もよく、背丈もいつの間にか伊織よりも大きくなっている。中学校の軍事教練では学校に配属された将校たちの覚えもめでたく、士官候補として目をつけられるほどだ。それなのにこの春に中学の高等部を卒業しても、高等学校へ行くでもなく、もちろん士官学校へ行くでもない、宙ぶらりんの遊び人のような毎日を送っている。そのことが伊織には不満でならない。

伊織は自分と同じように、12歳になったら辰留もこの店の手伝いをして、一緒にこの店の従業員として勤めを果たすつもりでいた。だが親方はそんなつもりはない様子で、辰留の身の振り方には何一つ口を出さず、それどころか疎んじて身の回りから遠ざける様な素振りさえ見せる。

あの頃からだろうか。少しずつ辰留との間に溝ができ、顔を見なくても機嫌がわかるほど通じ合っていたはずの弟のことが、伊織には理解できなくなってきていた。辰留の素行は日に日に悪くなり、それも近頃は度を越して、家に戻らないことも珍しくない。そのうちに姿を見かける日の方が少なくなり、一体毎日どこで何をしているのか、家族の誰もわからないし、知ろうともしない。たまに帰ってきたかと思えば、母に金を無心するためで、その時だけ浮かべる笑みはどこか荒んでいて、17歳の若者とは思えないほど世に飽きているように見える。

母は辰留にこの店の手伝いをしてほしいようなことを口にはするが、それが父に伝わっている様子もない。虹順はしばらく前から体調がすぐれず伏せりがちになり、療養したいとの理由で暇乞いされるまま、先月里に帰された。

この店が大きくなるにつれて、あの中庭のある伊織の家は少しずつ寂れ、虹順の不在でとどめを刺したかのように陰りを持つようになった。
まるであの屋敷に満ちていたものを、この店が吸い取ってしまったみたいで、大通りに面した双葉洋装商会の、日当たりの良い作業部屋もいつの間にか居心地の悪いものに感じられて、すっかり憂鬱な場所になってしまった。

                     ⚫︎

「辰留には仕立屋は務まらん。だから、無理してこの店に出入りする必要はない」
「でも、職人ではないにせよ、人手は必要ですよ。これだけの店になったんですから」
「だから雇い入れておるだろう。皆よくやってくれてるから、手は足りている」
「なぜ辰留にはここの仕事が務まらないとおっしゃるのです?」
「お前と違って辰留はあの通りの偉丈夫だからな。仕立屋なんぞに納まるようなタマでもあるまい」
「だからってあのように放っておくのは…」

伊織の声が少し大きくなったのを気にするように、洋一郎が室内を見回す。丁度昼食時で、職人たちはみな食事をとりにぞろぞろと出かけて行った。最後の一人が廊下に出たのを見届けるように、洋一郎は小声で伊織に話しかける。

「お前も分かってるだろう。戦時なんだぞ」

この大連には空襲はなかったが、内地は手酷くやられているらしい。
ラジオや新聞は華々しく戦果を報じてくるけれど、内地では物資も食料も乏しい上に、生産力の多くを担ってきた者たちが次々に召集されるために、年若い学生たちが労働力として駆り出されている。そればかりかついにこの秋には、徴兵の年齢が19歳に引き下げられた。
今年20になった伊織に未だ召集令状が届かないのはなんの手違いでもない。徴兵検査で以前に患った肺病を理由に不適格とされたのだ。だがそれだけが理由ではなかった。

「お前はこの店の後継者だ。万が一にも兵に取られるようなことがあってはいかんからな。…樫塚様に願い出てくれぐれも不合格にしてほしいと伝えた。その代わり、弟の辰留が志願すると言ってある」

17歳以上になれば召集の対象年齢でなくとも、志願という形で兵役につくことができる。
樫塚様は関東軍の軍医部長で、この店の上得意だ。

「…そんな。辰留は承知したのですか」
「お前の代わりだと言ったら承諾したよ。その代わり徴兵検査までは自由にさせてくれと言うから、好きにさせてる」
「父さんもわかってるでしょう? 召集されたら無事では済みませんよ?!」
「…いい若者が二人もいる家から、どちらも出征しないではいられんだろう」

徴兵検査を受けたものの、不適格としてはじかれたことは一族にとって不名誉以外の何ものでもないことは、伊織自身がよく知っていた。ましてやこの界隈で目立つ存在になっている大店の令息のこととなれば、陰に陽に噂が立つ。父の気持ちもわからないではないが、だからと言ってこれではまるで自分の身代わりに辰留を差し出すようなものではないか。

「親方、どうか少し待ってもらえませんか。兵士でなくとも国に尽くすことはできる。職人でなくとも、辰留にできることがこの店にあるはずです」

食い下がる伊織から鬱陶しそうに目を背け、洋一郎は億劫そうに話を切り上げようとする。

「来月、内地から親類たちが来る。その際に辰留が志願することを皆に伝えることになってる。私は待てるが、世間は、…戦争は止まらんよ」

親方は伊織の方を向くこともなく、窓の外にある電停にとまった路面電車を見ながらそう言った。

一度乗ってしまえば自分の意思とは関係なく進んでゆく。そうして運ばれた先で起きることを、乗った時点で選んだと言えば選んだことになる。そう思えば、もはや乗ってしまった電車なのだ。今更中途半端なところで降りるわけにもいくまい。

洋一郎は思いを声に出すこともせず、客を乗せて軌道を滑り出してゆく電車の動きを窓ガラス越しに眺めていた。


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