十一

文字数 934文字

 その週末の午後、私は母を訪ねました。十二月九日、ちょうど叔父の誕生日です。季節外れの小春日和。老人ホームの入り口には小さな花壇があり、まだ秋桜が綺麗に咲いていました。
 母は私が部屋に入ってくるのを見るなり、いつもと変わらずうれしそうにベッドから手を振りました。
 「お母さん、こんにちは。具合はどう」
 「大丈夫だよ。いつもありがとうね」
 私は母のその言葉を聞くと安心し、持参した赤いバラと白いカスミソウの切り花を、窓のそばにある花瓶に生けました。
 「綺麗ねえ」
 母はそう言うと、微笑みながらずっと花を眺めていました。赤いバラは母がいちばん好きな花です。父からプロポーズされた時に手渡されたのだそうです。
 私は母のその様子を見ると意を決し、彼と婚約したことを告げました。母は驚いたようでしたが、すぐに表情が和らぎました。そして涙を零し、頷きながら、「よかった。よかった」と何度も言ってくれました。
 やがて母は、私が幼かった頃の話しをしはじめました。窓から差し込む西日が、部屋をほんのりとセピア色に染めていました。
 私はおとなしく、泣き虫な女の子でした。学校では男の子によくからかわれていました。母は仕事から帰ってくると、暗い部屋でひとり泣いている私を、優しく抱きしめてくれました。その温もりが今も忘れられません。
 「いつの間にか、こんなに大きくなって」
 私は涙がとまりませんでした。
 「お母さん。ありがとう」
 私は母の手を両手で握りしめました。母も私の手を優しく握りかえしてくれました。
 「お母さんの手、温かい」
 母の温もりはあの頃のままでした。
 「香里の手も温かいねえ。柔らかくてすべすべしている」
 「お母さん…」
 それから間もなくして、母は眠ってしまいました。とても安らかな寝顔でした。私は若かった頃の母を想い出していました。
 「お母さん。これからもずっと一緒だからね」
 私は目を潤ませながら老人ホームを後にしました。外はもう暗くなっていました。風が頬に冷たく感じられました。
 帰り道、私は叔父の優しい笑顔を想い浮かべました。彼と結ばれるに至ったのは、叔父のお陰だと改めて思いました。
 「ありがとう。叔父さん」
 そう呟き、夜空を見上げると、星々がきらめいていました。
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