文字数 7,460文字

 八月二十日

 『カサブランカ』の話しに感化されたのだろうか。この日少年は、唐突に愛について教えてほしいと私に迫った。私は星空を見上げ、しばらく黙っていた。愛について語る資格など、私にはないからだ。
 「愛は教えるとか教わるとか、そういった類いのものではないと思うよ」
 少年は残念そうな表情を浮かべながらも、話しのつづきを待ち望んでいるようであった。私は気が進まなかったが、少年の期待を裏切りたくはなかった。愛について…。私は仕方なく、思いつくままに話しをつづけることにした。
 「愛といってもいろいろある。さまざまな形がある。いや、形なんかないのかもしれない…。愛する人と結婚し、子供をもうけ、添い遂げることだけが愛ではないんだ。どんなに愛し合っていても、結ばれないこともある。しかしそれでも、その人を想いつづける。それもひとつの愛の形だと思うんだ。その人にはもう二度と会えないとしてもね」
 「それはその人に再会し、結ばれたいということなんですか」
 「いや、そうではない。結ばれることなど、微塵も考えていない。もう会えない、もう会わないと心に決めていても、その人を想いつづける。そういう愛さ」
 「それで幸せなんですか」
 少年は腑に落ちない感じで聞いてきた。沈黙の後、私は重い口を開いた。
 「愛と幸せは別物だと思うんだ。もう会えない。それでも、その人を想う。想わないではいられない。そうしてその人を想っていると、言いようもなく淋しくなる。悲しくなる。胸が締めつけられ、苦しくなる。しかし、それだけではない。とても軽やかな気持ちになる。胸が温かくなる。だけどまたすぐ、切なくなる。狂おしくなる。それでも、その人を想わずにはいられない。愛は理性でどうにかなるものではないんだ」
 そう言い終えると、遠くで雷鳴が轟き、雨が滴り落ちてきた。少年と私は居間へ移ることにした。少年をソファーに座らせ、私はピアノの椅子に横向きに腰をおろした。
 「今まで誰かを愛したことはありますか」
 私は話題を変えたかったが、少年はそうではなかった。ますます私のなかに入り込んできた。
 「長く生きていれば、それはあるさ。どれもうまくいかなかったけれどね。私が悪いんだ…」
 「その人はどんな人でしたか」
 少年は身を乗りだしていた。
 「その人といっても、何人かいるけど…。ただ、心から愛した人はたったひとりだった。佐倉美雪といってね。素敵な名前だろう。名前だけじゃない。すべてが愛おしかった…。美雪とは山で偶然出会ってね。私が一目惚れしたんだ…」
 美雪は当時、東京の大学病院で看護師をしていた。花と山が好きで、その日は雪倉岳を登っていた。私は白馬岳から三国境へ下って、そこから雪倉岳へと向かっていた。夏の強い陽射しが眩しかった。しばらく登ってゆくと、脇の方にしゃがみこんで小さな花を見つめている若い女性が目に入った。その可憐な横顔に、私の目は釘づけになった。帽子の下に見える艶やかな黒髪、透きとおるような白い肌、淡い桜色の頬、澄んだつぶらな瞳、愛らしい口もと、きゃしゃな体つき。私には山に咲く一輪の花のように思えた。どの花よりも美しい。私は一瞬で虜になってしまった。
 しかし、私はなす術を知らなかった。こうしたことには奥手だったのである。見ず知らずの女性に自分から声をかけるなんて…。私は諦めて通り過ぎようとしていた。その姿が視界から消えていった。私は無性に悲しくなった。胸が締めつけられ、苦しくなった。引き返さずにはいられなくなった。立ち止まり、振り向くと偶然、美雪と目が合った。私は目を見開き、身動きができなかった。その姿が滑稽であったのか、美雪は微笑みながら私に近づいてきた。私たちは言葉を交わした。そして一緒に山頂へと向かった。
 美雪と私は恋に落ちた。とても幸福だった。夢見るような気分だった。愛の素晴らしさをはじめて知った。二人の出会いは運命だと信じた。美雪は私を白馬の王子様だと、はにかんだ笑顔で言った。白馬岳の方から来たのだからと。それなら君は白雪姫さと、私も照れながら返した。本当にそうなりたい。そうなってみせる。どんなことがあっても、美雪を守る。幸せにする。そう心に誓った。
 私は話しをここで終えた。そしてピアノに向かって座りなおすと、映画『白雪姫』のなかで流れていた「いつか王子様が」を弾きはじめた。この先を話したくなかったからでもある。
 少年は聴き終えると、帰途についた。いつの間にか雨はやみ、雲の切れ間から星々が顔をのぞかせていた。私は美雪を想いながら、何度も同じ曲を奏でていた。

 八月二十五日

 少年は美雪と私のその後を知りたがった。私はためらった。星空を見上げると、美雪の優しい表情が浮かんできた。美雪はゆっくり頷いた。話してあげてと、私に言っているような気がした。私はおもむろに語りはじめた。
 「すべて私が悪かったんだ。かけがえのない人を…」
 美雪と私は付き合うようになってからも、何度か一緒に登山をした。しかし、雪倉岳へは二度と二人で行くことはなかった。
 互いに仕事がだんだんと忙しくなっていった。私は毎晩、遅くまで残業をし、土日も会社の付き合いで出かけることが多くなった。上司に誘われ、ゴルフをするようにもなった。美雪は大学病院の入院病棟で働いていた。年齢を重ねるごとに仕事の負担がまし、土日が休めないことも多くなった。こうして私たちは、あまり会えなくなっていった。泊りがけの遠出はほとんどできなくなっていた。
 三年の月日が流れ、私は三十二歳に、美雪は三十歳になっていた。私は出会った頃と変わらず、いや、それ以上に美雪を愛していた。しかし当時、私は会社から重要な仕事を任され、激務がつづいていた。仕事以外のことには目をくれたくなかった。成果を出せば、課長への昇進が確実であった。まったく身勝手であるが、私は仕事が一段落したらきっと、美雪にプロポーズしようと心に決めていた。もうすぐ出世と結婚という二つの大きな夢が同時に叶う。私はそう信じて、日夜仕事に奮闘していたのである。
 しかしその時すでに、美雪は心身ともに疲弊し、限界にきていた。私はそれに気づかなかった。気づこうともしなかった。話しを聞いてあげようとさえしなかった。たまに会っても、私は美雪に身体を求めるだけになっていた。
 私が仕事での活躍を話すと、美雪はとてもうれしそうに聞いてくれていた。多忙な私の身体を随分と気遣ってもくれていた。
 美雪は自分のことはほとんど話さなくなっていた。美雪も多忙で疲れきっていたというのに…。仕事上の悩みもさぞ抱えていたことだろう。いろいろと私に話したいことがあったに違いない。それなのに私は、美雪を気遣うことができなかった。
 ホテルでベッドをともにしていた時、美雪がこんなことをぽつりと言ったことがある。
 「永遠の愛ってよく聞くけど、どういうことなのかしら」
 私は答えに窮し黙っていた。
 「永遠なんて本当にあるのかしら。愛は儚い。もしかしたら幻なのかも…。でもだからこそ、美しいのかもしれないわね…」
 美雪はどこか淋しげであった。ベッドサイドランプの淡い光がその横顔をぼんやりと照らしていた。おそらくその言葉は、美雪からのシグナルだったのだろう。しかし私は、さして気にとめなかった。なにも言わず美雪を抱き寄せ、そのまま眠ってしまったのだ。
 あの時、美雪と向き合ってあげていれば…。悔やんでも悔やみきれない。私はなんと愚かであったのか。
 山ではもう秋が深まっていた頃、美雪は私に一言も告げず、ひとりで雪倉岳へと登山に出かけた。そして夕暮れ時、山頂付近で滑落してしまったのである。
 遠くで目撃した人がすぐさま通報したが、救助隊が駆けつけた時には、すでに辺りは暗く、雪が降りだしていた。それでも懸命に捜索したが、発見できなかった。山頂付近には美雪のものと思われる帽子が残されていた。滑落した際、風で飛ばされたのだろうか。帽子の裏には名前と連絡先が記されていた。
 その日の夜、美雪の母から連絡が来た。私は仕事中であったが、取るものも取り敢えず、美雪のもとへ向かおうとした。高速バスが出る翌朝まで待つことができなかった私は、とりあえずタクシーに飛び乗った。行き先を告げると、いったんは断られたが、事情を話しチップをはずむと、運転手は任せておけとばかりに急行してくれた。
 車中で私は震えが止まらなかった。美雪を失ったらどうしよう。いや、そんなことがあるはずがない。なにを考えているんだ。美雪は生きているにきまっている。早く美雪のもとへ行きたい。無事な姿をこの目で確認したい。冷えきった身体を力いっぱい抱きしめてあげたい。私は胸が張り裂けそうであった。
 翌日、私は早朝から救助隊とともに美雪を捜しまわった。昨夜の雪で辺りは真っ白になっていた。お願いだから、生きていてくれ。自分のすべてを捧げてもいい。自分の命と引き換えでもかまわない。だから、どうか美雪を助けてください。私はそう祈りながら、必死で雪を掻き分けていた。急な斜面で滑落しかけたが、まったく怖くはなかった。私が恐れていたのは、美雪を失うことだけだった。
 その次の日も早朝から、救助隊と私は捜索をはじめた。しかし、吹雪で視界がきかなかった。二次災害を恐れた救助隊は、やむなく途中で捜索を打ち切った。私は救助隊が止めるのも聞かず、ひとりで美雪を捜しつづけた。
 明くる日も吹雪はやむことがなかった。その時期にしては異例のことであった。救助隊は捜索の再開を断念した。
 私は諦めなかった。美雪はきっと生きている。助けを待っている。そう信じて、私はひとりで雪倉岳へと向かった。しかし途中で、向かい風が激しさをまし、どうしても進むことができなくなってしまった。渾身の力を振り絞ったが、立っているのがやっとであった。凍てつく風雪のなか、私は立ち尽くしていた。凍えている美雪のことを想うと、とても引き返す気にはなれなかった。意識がしだいに朦朧としていった。
 気がつくと私は、救助隊のひとりに背負われていた。私のことを心配して、後を追って来てくれたのだ。私は申し訳ない気持ちでいっぱいであった。
 一週間が過ぎたが、美雪を見つけることができないでいた。その間に積雪はなおましていた。
 私の心は深い闇に包まれていた。どうしてこうなったのか。時系列に美雪との日々を辿ろうとしたが、私は考える術を失っていた。涙が出なくなっていた。胸の痛みは強まるばかりなのに…。息がつまり、声を発するのが難儀になっていた。
 目撃者の話しでは、美雪は誤って滑落したというより、自ら身を投げたように見えたとのことである。私はそれを耳にするや、背後から鋭利な刃物で、心臓を一突きされる思いがした。
 「私が美雪を死なせたようなものだ。いや、私が殺したんだ。最愛の人を自ら…。あんなに愛していたのに。今だって愛している」
 私は声を荒らげてしまった。沈黙の後、少年は泣きながら言った。
 「美雪さんも愛しつづけていると思います。だって、愛は永遠なんでしょ。一瞬のことだったとしても、それは永遠なんでしょ。たとえその人が亡くなったとしても…」
 私は天を仰がずにはいられなかった。星々が滲んで見えた。私はふたたび語りだしていた。すべて話してしまいたかったのだ。
 勢いをます吹雪とかさむ積雪に阻まれ、とても捜索ができる状況ではなくなっていた。私はやむなく東京へ戻ることにした。気のせいだろうか。私は度々美雪の声を耳にした。美雪が帰ってくるような気がしてならなかった。
 私は諦めきれなかった。どうしても美雪を見つけだしたかった。山に遅い春が訪れ、雪が消えはじめたと知ると、私は一目散に雪倉岳へと向かった。方々を捜しまわったが、どうしても見つからなかった。
 美雪を失った私には、仕事しか残されていなかった。私は課長に昇進していた。すこしもうれしくなかった。美雪のいない世界に何の意味があろうか。出世などもうどうでもいい。なぜ失う前に気づかなかったのか…。
 あの日から、私のなかでは時が止まっていた。カレンダーを捲ることもできなかった。そうして時の流れに逆らっていたのかもしれない。そんなことをしても、美雪がいたあの頃には戻れないのに…。
 私は美雪を想いつづけていた。片時も忘れることはなかった。失う前よりもずっと多く美雪と向き合っていた。数々の想い出が浮かんでは消えていった。今になってなにを…。私は自分の愚かしさを憎んだ。
 最後に美雪と言葉を交わしたのは電話でだった。美雪が山へ向かう一週間ほど前である。めずらしく美雪からかけてきたのだ。深夜十二時半を回っていた。私は残業を終え、ちょうど帰宅したところであった。激しい雨音が部屋のなかまで響いていた。
 「ごめんね。こんな夜遅くに」
 私はどうしたのかと尋ねたが、美雪は別になにもないと言って黙ってしまった。
 「私のことなんか気にしないで、仕事、がんばってね」
 「気にしないでいられるもんか」
 私はすこし向きになっていた。
 「うれしい。ありがとう。身体には気をつけてね」
 「うん。ありがとう。美雪もあまり無理しないで」
 「うん。ありがとう」
 「じゃあ、また連絡するから」
 美雪の様子がいつもとすこし違うように感じられた。声も力なげであった。しかしその時は、疲れているのだろうくらいにしか思わなかった。
 美雪はどんな気持ちで電話をかけてきたのだろうか。さぞつらかったに違いない。電話の向こうで泣いていたのかもしれない…。それなのに私は…。
 ほんのわずかでもおかしいと感じたなら、なぜもっと気遣ってあげなかったのか。なぜすぐに駆けつけてあげなかったのか。せめて電話くらいならまたかけられたはずなのに…。最後にそう言ったではないか…。
 ただ、私はあまりしつこく心配するのも、かえって美雪に悪いような気がしたんだ。言い訳ではない。本当にそう思ったんだ。必ず近いうちに時間をつくって会うようにしよう。そして元気がでるよう、とびきり美味しいものをご馳走しよう。これも本当なんだ。本当にそう考えていたんだ…。
 すべては過ぎ去ってしまったことだ。美雪はもう帰ってこない。あれほど心から美雪を守ると誓っていたのに…。私は己を呪いさえした。
 「ありがとう」。それが美雪の最後の言葉になってしまうとは…。でもそれは、本心からであったのだろうか…。
 身勝手な私に美雪は愛想を尽かしていたかもしれない。私を憎んでさえいたかもしれない。そう思われて仕方ないことを私はしてきてしまったのだ。仕事がいったい何だというのか。出世がいったい何になるというのか…。
 私は心のなかで幾度となく美雪に詫びた。謝ってどうなることでもない。赦してほしかったのでもない…。私は人でなした。ただ、美雪を愛する気持ちに嘘偽りはなかった。本当なんだ。だったらなぜ…。
 美雪を失ってからというもの、私は毎晩のように彼女の夢を見た。美雪はいつも優しく微笑んでいた。私は言いようのない幸福感に包まれていた。しかし目が覚めるとまた、どうしようもなく淋しく悲しくなってしまうのだ。
 美雪が帰ってくる夢もよく見た。私は夢とは知らず、歓喜して美雪を迎えた。そして、今までのことは夢だったのだと胸をなでおろした。本当にそうであったのなら…。
 夢は夢でしかない。夢のなかの美雪は私がつくりあげた幻影にすぎないのか…。それでも、美雪の夢を見ることだけが私の救いになっていた。
 その夢も月日が経つにつれ、しだいに見なくなっていった。美雪を忘れたわけでは毛頭ない。一日だって、いや、一時だって想わなかったことはない。以前と変わることなく愛していた。それなのになぜ…。自分の心を疑わずにはいられなかった。私はつらくてたまらなかった。
 私の胸は鉛のように重たくなっていた。声が小さくしか出なくなっていた。息をするのさえ苦しかった。いっそこのまま呼吸が止まってしまえばいい…。
 自ら命を絶って、美雪のもとへゆこう。何度もそう考えたが、死にきれなかった。この世に未練などないはずなのに…。私が死んだら、美雪はどんな態度で迎えてくれるだろうか。私を赦してくれるだろうか…。それを思うと、不安でならなかった。結果として私は、死んでではなく、生きながら地獄を味わう道を選んだのである。
 ところが私は卑怯にも、この苦しみから逃れたくなっていた。美雪を忘れたかったのではない。ただ、耐えきれなかったのである。遠くへ行きたい。遠くへさえ行けば…。私は会社に海外勤務の希望を伝えた。
 翌年、私はニューヨーク支社に赴任した。遠い日の想い出。時折そう感じるようにもなっていた。美雪を失ってからまだそんなに経っていないというのに…。私は薄情な人間だろうか。自分を責めずにはいられなかった。
 私はがむしゃらに働いた。母の死に目にも会わずに。しかし胸の痛みはおさまるどころか、ますばかりであった。私は美雪を愛しつづけていた。
 私が東京本社に戻ったのは四十二歳の時であった。日本の地を踏むと、美雪への想いがなおのこと募ってきた。美雪を想うと、胸が温かくなる。そして苦しくなる。息もできぬほどに…。依然として狡猾な私は、そのつらさから逃れようと、またがむしゃらに働いた。なのに、美雪への想いは募るばかりであった。
 確かに時として私は、美雪のことを忘れていた。仕事で達成感を味わうこともあった。優しくしてくれる女性にふと心を奪われそうになることさえあった。それがたまらなく嫌に思えた。たとえ一時でも、私だけが幸せを感じていることに、まして美雪以外の女性を想うなんて、我慢がならなかったのだ。
 私は四十八歳で会社を辞め、ここに移り住んだ。自分の気持ちにもっと素直になろうと思った。逃げるのではなく、向き合おうと。できるだけ近くで。なにもかも投げ捨てて。以来、私はときどき白馬岳へ登り、雪倉岳を見つめながら、美雪と語らっている。雪倉岳を巡り、美雪とふれあっている。毎晩のようにここで星空を眺め、美雪を想っている。私は美雪に支えられて生きている。
 「ここに来てからもう十二年が過ぎた。私も歳をとった…」
 語り終えると、少年は泣きながら帰っていった。話すべきだったのか。そう思いながら、私は夜空を見上げた。星々が揺れながらきらめいていた。
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