文字数 2,881文字

 叔父の日記はここで終わっています。私は大粒の涙を零していました。叔父と美雪さんは星となって結ばれた。そう信じたくてなりませんでした。
 この夜も私はまったく眠れませんでした。じっと居間のソファーに座りつづけていました。叔父と美雪さん、それに少年を想いながら。
 翌朝、私は役場に山本さんを訪ねました。叔父のことをすこしでも多く知りたくなっていたからです。
 「昨日はどうもありがとうございました。お忙しいところ、度々すみません」
 「いやいや、とんでもないです。昨夜はよく眠れましたか」
 「それが一睡もできませんで…。実は叔父のことがもっと知りたくなりまして」
 「そうですか。遠慮なく何でも聞いてください。込み入った話しもあるでしょうし、ここでは何ですので、どうぞこちらへ」
 山本さんはすこしも嫌な顔をすることなく、私を奥の小さな応接室に案内してくれました。そして扉を閉めると、私を椅子へいざないました。山本さんは私の斜横に座りました。
 「いやあ、実は私も腑に落ちないところがあるんですよ」
 そう言うと、山本さんは怪訝な表情を浮かべながら小声で話しはじめたのです。
 九月二十二日の朝、付近でペンションを営んでいる人が、自宅から出てゆこうとする叔父の姿を偶然見かけたというのです。その人の話しによれば、木漏れ日が降りそそぐなか叔父はうれしそうに横を向きながら、誰かと言葉を交わしているようだったというのです。車であっという間に通り過ぎたため、横にいた人の姿をはっきり見たわけではないようですが、確かに気配は感じられたのだそうです。
 「その日、ほかに叔父を見かけた人はいなかったのでしょうか」
 私は山本さんの方へ身を乗りだしていました。山本さんは一呼吸おいた後、残念そうに答えてくれました。
 警察が随分と聞いてまわったといいます。ですがその日、叔父を目撃した人はほかにいなかったのだそうです。同じ日に白馬岳に登った人もいたはずです。山小屋の人も登山者を目にすることはあったでしょう。しかし、誰ひとりとして見ていないのだといいます。叔父は誰もいない夜に登ったのでしょうか。あるいは、登山ルートでないところを掻き分けて行ったのでしょうか。それとも…。山本さんも不思議がっていました。
 叔父が遺体で発見されたのは、九月二十三日の朝だったそうです。白馬岳の山頂付近の崖の下で。顔には損傷がほとんどなかったといいます。わずかに笑みを浮かべていたのだとも…。私はそれを聞き、涙が溢れてきました。
 白馬山荘の人の話しでは、その日の未明、すごい突風が吹いたのに驚き、慌てて外に出てみると、満天の星のもとほんの一瞬間、雪がほのかに舞ったのだそうです。その時、叔父は逝ったのでしょうか。あの星空の向こうへ…。
 山本さんは話しを終えると、また車で私を叔父の自宅まで送ってくれました。
 「あまりお役に立てず、心苦しいです」
 「いえ、そんなことまったくないです」
 「またなにかありましたら、遠慮なく連絡してください」
 「ありがとうございます。本当にいろいろと…」
 「いやいや、いいんですよ。どうか気にしないでください」
 山本さんは私を降ろすと、そのまま役場へ引き返しました。私は車が見えなくなるまで山本さんを見送っていました。
 ひとりになった私は、少年のことが気になりだしていました。少年は近くのペンションに滞在していたはずです。それならば…。私は付近にあるペンションを一軒ずつ訪ね歩くことにしました。
 まずはいちばん近くのペンションです。玄関の扉を開けると、廊下の向こうから顎鬚を生やした朴訥そうな中年の男性が現れました。私は期待に胸を膨らませていました。
 「いらっしゃい。ご予約の方ですか」
 「いえ、あの。このペンションのご主人でしょうか」
 「はい」
 「お尋ねしたいことがありまして、お伺いしました」
 「はあ」
 主人はきょとんとした顔をしていました。
 「この夏、十六歳くらいの小柄な少年がこちらにひとりで長期滞在していなかったでしょうか」
 私は表情を強張らせていたと思います。それほど必死だったのです。
 「ん~。そうした少年はいなかったなあ」
 「そうですか…」
 私は肩を落としていました。しかしまだ望みは残っています。私は気を取りなおしました。そしてお礼を述べると、次のペンションへと向かいました。
 そのペンションは通りから奥まったところにありました。敷地に入ってゆくと、庭掃除をしていた初老の女性が近寄ってきて、笑顔で挨拶をしてくれました。
 「こんにちは。ご予約の方ですか」
 「いえ、あの。このペンションの方でしょうか」
 「はい、私はここの従業員です」
 「お聞きしたいことがあるのですが」
 「はい、なにか」
 その女性は優しく私を促してくれました。私は心を落ち着かせ、丁寧な口調で尋ねました。
 「この夏、十六歳くらいのかわいらしい少年がこちらにひとりで長期滞在していなかったでしょうか」
 「はい、おりましたよ」
 「本当ですか」
 私は飛びあがらんばかりでした。うれしさのあまり泣きだしそうにもなっていました。
 「詳しいことはお教えできませんが」
 そう前置きしてから、その女性は小声で話してくれました。
 「なにやら療養をされるとかで。一時は随分と元気になられた様子でしたがねえ。夜、散歩に出かけられることもありましたよ。星を見るんだって、うれしそうに。ところが肌寒くなるにつれ、また体調がすぐれなくなられまして。それで東京へ戻ると、間もなくして容体が急変し、今月の上旬に亡くなってしまわれたそうです。あんなにいい子がねえ。本当にかわいそうでなりませんよ。ひとり残されたお母さんも、どんなに嘆き悲しんでおられることか…」
 その女性は声をつまらせていました。
 私はショックのあまり、ただ涙を流していました。
 「お母さんを守るって、叔父さんと約束したのに。お母さんにも誓ったのに…」
 私は心のなかでそう叫んでいました。それからのことはよく覚えていません。放心状態のまま彷徨していたのだと思います。
 疲れ果てて叔父の自宅に戻った頃には、もう日が暮れていました。玄関の前には大きな紙袋が置いてありました。暗くてよく見えなかったのですが、目を凝らしてなかを覗いてみると、小さな紙きれがあり、「山本より」と書かれていました。そしてその下には、食べ物、飲み物、それにお菓子がぎっしりつまっていました。私の目はまた涙でいっぱいになりました。
 居間に入ると、私は窓際の床に腰をおろしました。星空が見たかったからです。食事は後でとることにしました。胸がいっぱいで喉を通りそうにありませんでした。
 窓から夜空を見上げると、星々が光り輝いていました。空気が澄んでいたのでしょうか。昨夜より輝きをましているように感じました。私は幼い頃に見た叔父の優しい笑顔を想い浮かべていました。叔父も星になったのだろうか。美雪さん、そして少年も…。静寂が私を包み込んでいました。
 いつの間にか夜が更けていました。私はある決心をしていました。
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