文字数 10,937文字

 七月二十一日

 日が沈み、まだほんのり明るかった空もしだいに暗くなってゆく。それとともに星々が輝きだす。朝からどんよりした天気であったが、夕方には西の空に薄明光線が現れ、みるみるうちに雲が消えていった。今夜は満天の星になりそうだ。私は久しぶりに天体望遠鏡で星々を眺めてみたくなった。いつものように夕食を簡単に済ませると、天体望遠鏡を居間から庭へ運びだし、ベンチの前に設置した。
 白馬村から眺める星空は、息をのむほど美しい。肉眼でも十分に堪能できるが、天体望遠鏡で見ると、また違った趣がある。視界は狭くなるが、肉眼では見えない星々が現れてくる。今夜はどこにフォーカスしようか。そう思い、天の川の辺りを見ると、射手座に目がとまった。
 私は早速、天体望遠鏡をその方角にセットした。接眼レンズに目を当て、ピントを調整すると、オメガ星雲の赤い光が鮮明に浮かびあがってきた。なにかあそこに吸い込まれてゆくような不思議な感覚を覚えた。あの星雲からまたいくつもの星々が誕生するのだろうか。宇宙の神秘を感じずにはいられない。バラバラの塵となった私の亡骸も、いつかはどこかの星雲に達し、星の一部となってゆくのだろうか…。
 どれほど時間が経っただろうか。私は接眼レンズから目を離し、ベンチに深く座りなおそうとしていると、通りの方から誰かの視線を感じた。気になって近づいてゆくと、ひとりの少年がこちらを見て立っていた。
 「すみません。覗いたりして…。大きな天体望遠鏡ですね」
 少年はわずかに後ずさりしながら、はにかんだ笑顔でそう言った。
 「君も見てみるかい」
 どうしたことだろうか。もう随分と長く人との交わりを避けつづけてきた私が、自分から誘うなんて…。天体望遠鏡を誰かに覗かせたことも、これまで一度もなかった。
 「本当にいいんですか」
 少年はうれしそうに私の方に近づいてきた。通りから庭へはわずかな草木で隔てられてはいるが、その合間から簡単に入ってこられるのだ。間近で少年を見ると、細身で背は低く、まだあどけなさは残るが、子供ではない。十四、五歳だろうか。
 「このレンズを覗いてごらん」
 「はい」
 少年はすこし表情を引きつらせながら目を近づけた。
 「うわー、すごい。綺麗ですね。こんな変わった星、はじめて見ます」
 「これは星雲さ。オメガ星雲って言うんだよ。白鳥星雲とも呼ばれている。あの赤と青の光を放つ雲から星々が生まれてくるんだ」
 星が生まれるということをはじめて知ったのだろうか。少年は接眼レンズから目を離すと、怪訝な表情を浮かべて私を見つめた。私は話しをやめようとはしなかった。
 「星も人と同じように、生まれ、成長し、老いて死んでゆく。星だけでなく宇宙も、生まれ、そして死んでゆく」
 少年はなにも言わず、悲しそうな目をして星空を見上げた。なにか感じるものがあったのかもしれない。
 私は出会ったばかりの少年に、どうしてこんな話しをしてしまったのだろうか。星空を眺めているとときどき、無性に淋しくなることがある。それは星々が、そして私自身も、死にゆく運命にあるからなのかもしれない。
 私もしばらく黙って星空を見上げていると、少年は私の横に腰かけ、身の上について話しだした。歳は十六。この夏は近くのペンションでずっと療養をするのだという。子供の頃から病弱で、入退院を繰りかえしてきた。この春に中学校を卒業したが、高校へは進学していない。この身体では学生生活を送るのは無理だと考えたからだという。父は自分が生まれる前に亡くなってしまい、ずっと母と二人で暮らしてきた。母は東京で仕事をしているため、ここへはあまり来られないのだそうだ。
 この年頃の少年なら、夢に向かって勉学に励んだり、部活動に熱中したり、友だちと遊びに出かけたり、淡い恋をしたりと、青春を謳歌しているはずなのに…。そう思うと、私は少年が不憫でならなくなった。なにかしてあげられることはないか。私は少年に、またいつでも遊びに来るようにと伝えた。少年はつぶらな瞳で私の目を見つめた。そして元気に、「はい。また来ます」と言って、帰っていった。

 七月二十五日

 あの日以来、私は少年が来るのを心待ちにするようになった。日が暮れる頃になると、天体望遠鏡を庭へ持ちだし、ベンチで少年を待っていた。子供は気まぐれだから。いや、もしかしたら身体の具合が悪くなったのではないか。そんな心配をしていると、おもむろに少年は現れた。
 今夜は天体望遠鏡をわし星雲にフォーカスしておいた。オメガ星雲の近くに見えるが、距離はけっこう遠い。少年が接眼レンズを覗きはじめるや、私は解説せずにはいられなくなった。
 「これはわし星雲と言うんだ。こないだ見たオメガ星雲、覚えているかい」
 「はい。もちろんです」
 「地球からだと、わし星雲はオメガ星雲の傍らに見える。だけれど実は、随分と離れているんだ。もっとも、宇宙のスケールからすれば、すぐ隣だと言えるけどね」
 「どれくらい離れているんですか」
 「地球からだとおよそ、オメガ星雲は四千二百光年、わし星雲は七千光年の彼方にあるんだ。光が一年で進む距離が一光年。だから、オメガ星雲からだと、四千二百年かかってその光が地球に届く。一方、わし星雲の光が地球に到達するには七千年かかるんだ。七千年前といったら、日本はまだ縄文時代の早期かな。今ここで君が目にしているわし星雲は、七千年も前の姿なのさ。もしかしたら、今はもう存在していないかもしれない」
 少年は驚いたような表情を浮かべ、私を見やった。私は饒舌だった。
 「光の速さって知っているかい。秒速だとおよそ三〇万キロ。一秒で地球を七周半回れるんだ。とてつもない速さだろう」
 「ええ。だけど、わし星雲から地球までは七千年もかかるんでしょ…。光より速いものはないの」
 「ない。光の速さに近づくと、だんだんと時間は遅れてゆく。つまり時の経つのが遅くなってゆくんだ。そして光の速さになると、時間は停止してしまうのさ。わし星雲から届く光は七千年前のものなんだけど、あの光のなかではずっと時は止まっているんだよ」
 「どういうことか、ぴんとこないけれど、そんなことがありうるんですか。時が止まっているって」
 少年は腑に落ちない様子であったが、私はどう説明したらよいか分からず黙っていた。しかし、沈黙がつづくことに気まずさを覚えたのか、考えがまとまらないまま言葉を発していた。
 「ん~。ちょっと違うかもしれないが、想い出なんかもそうじゃないかな。想い出は過去のことなんだけれども、それが今起きていることであるかのように蘇ってくる。想い出のなかでは時は止まっているんだ。過去のあの瞬間は永遠のものなのさ」
 私は自分が話していることに驚きを禁じえなかった。これまで私は、想い出についてこれほど深くはっきりと考えたことがなかったからである。想い出は光なんだ。星の輝きと同じなんだ。永遠の一瞬なんだ。私の胸は高鳴っていた。
 少年が帰った後も、私はずっとこのことを考えていた。興奮がさめやらなかった。想い出は永遠である。頼りなく、透き通っていて、この手でふれることはできないが…。それでも確かに、かすかな光を放っている。夜空に瞬く、あの小さな星のように。
 それにしても不思議である。今まで長く生きてきて思い至らなかったことが、突然と…。少年が濁った私の心を解き放ってくれたのかもしれない。

 七月三十日

 今宵、少年はなにか落ち込んでいるような雰囲気を漂わせて現れた。どうしたのかと聞いてみると、この週末も母が来てくれなかったのだと言う。
 仕事をもつ母への理解を示してはいたが、やはりがっかりしたのだろう。まだ十六歳の少年である。健康状態も良くない。遠く離れて、ひとりで生活していれば、母を恋しく想うこともあるだろう。私は少年を慰めてあげたくなった。
 「お母さんもきっと君に会いたかったはずさ。だけど、どうしても来られない事情があったんだよ。お母さんもつらいんじゃないかな」
 少年は私から目を逸らし、俯き黙っていた。
 「君はまだ大人ではない。しかし、もう子供でもない。だんだんとお母さんを支え、守ってあげるようにならないといけないよ」
 「身体の弱い僕に、そんなことができるでしょうか」
 少年は顔をあげ、訝しそうな眼差しを私に向けた。
 「できるはずだよ。なによりもお母さんを想いやることさ。その気持ちは必ずやお母さんに伝わってゆく。それがお母さんの支えになってゆくんだ」
 「お母さんを想いやる、ですか…」
 「なにも難しいことではない。お母さんの気持ちになって、理解してあげればいいんだ。そうすればおのずと、お母さんを想いやれるようになる」
 少年の表情はみるみると緩んでいった。
 「ありがとうございます。僕、やってみます」
 少年は笑顔を取り戻し、立ち上がると、星空を仰ぎ見た。私はその後ろ姿をじっと見ていた。頼もしくも感じられた。
 「子供の頃は身体が弱かったが、大人になったら丈夫になった。そんな人は山といる。君もここで星を眺め療養していれば、きっと良くなるよ」
 私がこう言うと、少年は私の方を振り返り、満面に笑みをたたえた。私は少年が愛おしくさえ想えてきた。子をもつ親の気持ちとは、こういうものなのだろうか。私にもこんな子がいたならば…。
 子供の頃、母が私に、人は死んだら星になると教えてくれたことがある。私はその言葉を信じてきた。今も時として、亡き人を想い星々を見つめている。そのことを話すと、少年は「僕も死んだら、星になりたい」と明るい笑顔で言った。
 生きとし生けるもの、必ずや死がやってくる。それは星とて同じである。けれどもこの星々は、私がこの世を去った後もなお輝きつづけるだろう。私は星となって光を放ちつづける。そう思うと、わずかに心がやすらぐ。
 今夜はとんだお節介をしてしまったかもしれない。つい、お説教じみたことを言ってしまった。人との交わりを避けつづけてきた私がどうして…。そう思いながらも、心が温まっているのを感じる。こんな経験ははじめてである。

 八月二日

 少年は私の話しがとても新鮮で、面白く、またためになっていると言う。はにかみながら私に感謝の言葉も述べた。私もなにか照れくさかったが、少年に自分の気持ちを素直に伝えた。
 「私も君には感謝しているんだ。君のお陰で、いろいろなことが分かってきた。温かい気持ちになれた。君は私の凍てついた心を溶かしてくれたんだ。こんな気持ちになったのは本当に久しぶりのことだよ」
 少年はおもはゆいようなしぐさを見せていたが、とてもうれしそうであった。ところがすぐに、その表情を曇らせていった。
 「感謝だなんて…。僕は生まれてからずっと身体が弱く、人に迷惑ばかりかけてきました。人に感謝されたことなんて一度もありません。人の力になれたこともないんですから、感謝されるはずがないですよね…」
 少年は俯きながら、淋しそうにこう言った。
 「それはどうかなあ。すくなくとも、お母さんは君に感謝していると思うよ。君が生まれてきてくれたことに、そして君がいてくれていることに」
 「こんな身体の弱い僕でもですか」
 「そんなことは関係ないさ。君は気づかなかったのかい。それじゃ、お母さんがかわいそうだ。お母さんは誰よりも君に感謝しているはずだよ。ほかにも、君に感謝している人はいるはずさ。君がそれに気づかなかっただけで…」
 私が自信ありげに言ったからだろうか。少年はすこし驚いたようであったが、表情には明るさが戻っていた。
 「サン=テグジュペリの『星の王子さま』を知っているかい」
 少年が首を横に振ったので、私はその話しをつづけることにした。小さな星からサハラ砂漠に下りたった王子さまが、そこで人や動物たちと出会い、友だちになるという素敵な物語である。
 「王子さまは砂漠に不時着した飛行士に、星が美しいのは目に見えない花がひとつあるからだという話しをするんだ。分かるかい」
 「星には花なんてないんでしょ。もしかしたらあるのかもしれないけど…。でも、こうして見える星々のすべてに花があるなんて嘘ですよね。咲いていたとしても、ここからは見えっこないですし。ましてひとつだけだなんて、ないのと同じじゃないですか。その見えないもののお陰で、星が美しく見えるなんて、ありえないですよ」
 少年はめずらしく向きになっていた。私はそれがすこしおかしく、またかわいく思えてならなかった。
 「王子さまは砂漠で出会ったキツネから、ある秘密を教えられるんだ。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。素敵な言葉だろう。とても気に入っているんだ。目に見えない花のお陰で、星が美しく見える。それは心で見ているからなんだろうね」
 私がそう言うと、少年は黙って星空を見上げた。とてもすがすがしい表情をしていた。
 私にはこんな偉そうなことを言える資格はまったくない。私は優しい人間ではない。私の心は芥のように汚く醜い。人からそう思われて当然のようなことをしてきた。私は相変わらず偽善者なのだろう。ただ、少年にだけは幸せになってほしい。立派な大人になってほしい。これだけは嘘偽りのない気持ちである。

 八月六日

 今宵、少年は現れるなり自分から、母が週末に来てくれたことをうれしそうに告げた。ペンションのバルコニーで母と一緒に星空を眺めながら、私から聞いた話しをしてあげたのだと自慢げに言った。なかでも母は、想い出が永遠であるという話しに興味を示していたのだそうだ。なにか感じてくれるものがあったのなら…。私はうれしかった。
 少年は自分が母を守ると伝えたとも言った。母は目を丸くしたが、すぐに優しい笑顔になったという。そして目を細めながら、「ありがとう。あなたも大人になったんだね。お母さん、うれしいわ」と言ってくれたのだそうだ。その瞳には光るものがあったという。
 少年が大人へと成長してゆく。ほんのわずかでも、その手助けができたのかもしれない。そう思うと、私は目頭が熱くなった。少年の身体がすこし大きくなったように感じられた。
 「君は本当にいいことをしたね。お母さん、君のことが頼もしく見えたはずだよ」
 そう言うと、少年は私に真顔できちんとお礼を述べた。これも私のお陰だというのである。私は照れくさくなって、つい夜空を見上げてしまった。流れる雲の隙間から星々が現れては消えていた。夜風が肌に心地よかった。
 そうしていると、私は少年に自分のことを知ってほしくなってきた。偽善者である私を隠しているのが、たまらなくなってきたのだ。
 「君にはつい、お説教じみたことを言ってしまったが、私はそんな偉い人間じゃまったくないんだ。母にだって自分は…」
 私は俯きながらおもむろに話しはじめた。私は母の最期を看取らなかった。葬式にすら行かなかった。ようやく墓参りに行ったのは、納骨もだいぶ過ぎてから。秋雨の肌寒い日であったことを覚えている。私はひとりきりであった。墓前にしゃがみこみ、母に詫びた。雨のしずくが涙と混じりあい、頬を濡らしていた。
 私は当時、日系メーカーのニューヨーク支社に勤務していた。アメリカでの販売を促進するため、日夜奮闘していた。自身が抱える苦しみから逃れたくて、そうしていたのでもあるが…。
 母が亡くなる半年ほど前に、姉からもう長くはないから会いに来てとの手紙を受けとった。いくら遠いとて、飛行機に乗れば一日とかからない。なのに、私は…。
 一度、東京本社に出張で来た時も、母に会いには行かなかった。夜は付き合いがあったし、翌朝には飛行機に乗り、ニューヨークへ戻らなければならなかった。とはいえ事情を話せば、夜の付き合いを早めに切り上げることもできた。半日くらいならフライトを遅らすこともできたはずだ。
 電話で母の死を知らせてきた姉は、泣きじゃくりながら私をひどく責めた。こんなに冷たい人だとは思わなかったとも叫んだ。私はなにも言えなかった。
 電話が切れた後も、私は受話器を握りしめていた。子供の頃の断片的な想い出がつぎつぎと、まるで今起きていることのように蘇ってきた。母の手が白く柔らかかったこと。おぶさった母の背中が温かかったこと。母と一緒に夜空を眺めながら、人は死んだら星になると教えられたこと…。
 そんな母に私はなにもしてあげられなかった。母を看取りもせず、葬式にすら…。私は親不孝者である。姉だけでなく、母自身にも恨まれて当然の人間である。私は罪深い人間なのだ。
 「お母さんは恨んでいない。嫌いにもなっていない。ずっと愛おしく想いつづけていたと思います」
 少年は悲しそうに聞いていたが、私の話しが途切れると、ぽつんとこう言ったのである。私はうなだれていた頭を起こし、少年の顔を見やった。そう確信しているのだという凜とした表情であった。すくなくとも、私を憐れんで言ったのではないように思えた。私はずっと抱えていた痛みのひとつが和らいでゆくのを感じた。
 こんなことを私は、これまで誰にも話したことはない。姉にさえもである。星となった母が雲の隙間から私を照らし、いざなってくれたのかもしれない。

 八月九日

 今宵は天体望遠鏡をどこにもフォーカスしておかなかった。満天の星を少年と一緒に肉眼で眺めたかったからだ。薄明るかった空がしだいに暗くなり、星々が輝きをましはじめた頃、少年はふと姿を現した。
 「今夜はこの雄大な星空をありのまま見たいと思ってね」
 私がこう言うと、少年はうれしそうに頷いた。少年と私はともにベンチに腰かけ、夜空を見上げた。時折そよ風が草木を揺らす音のするほかは、なにも聞こえなかった。二人は時の経つのも忘れて、無言で星空を眺めていた。
 「ああっ。流れ星」
 少年は興奮気味であった。私にもはっきりと見えた。ちょうどこと座を横切るように星が流れていったのだ。あたかもオルフェウスが竪琴を奏でるかのように。
 「今度流れ星が見えたら、消えないうちに願いごとを三回唱えてごらん」
 「どうしてですか」
 「そうすれば、その願いが叶うんだ」
 「本当ですか」
 少年は目を丸くして私を見つめた。私はそれが面白く、またかわいくも思えた。少年はふたたび夜空を見上げた。なにか考えごとをしているようであった。
 「でも、三回は無理だと思います。流れ星って、あっという間に消えてしまうんですから」
 少年はこう呟きながらも、真剣に流れ星を探しているようであった。私はなにも言わなかった。
 どれくらい時が経っただろう。
 「なかなか次の流れ星が現れませんね」
 少年は期待に満ちた明るい声で言った。
 「待っていると、現れないものさ。忘れた頃に突然姿を見せる。そして瞬時に流れ去ってゆく。やっぱり三回唱えるのは難しいね」
 「流れ星って、意地悪ですね」
 少年はすこしもどかしそうな様子であった。
 「別に流れ星に悪意があるわけじゃない。ものごとって、そういうものさ。気づいた時にはもう消え去っている」
 「そういうものなんですか」
 「ああ、そうだとも。長く生きていれば、そんな経験を何度となくすることになる。そうしているうちに、歳をとってしまうんだ。人の一生だって、あの流れ星と同じさ。瞬く間に過ぎ去ってしまう」
 少年は私の言葉を噛みしめているようであった。またしばらく沈黙がつづいていた。
 「大きな流れ星だったら、すぐには消えないんじゃないですか。願いごとを三回言えるかもしれないですね」
 少年は声を弾ませていた。私は少年の無邪気さにどう言葉を返していいか戸惑ってしまった。
 「そんなに大きな流れ星が来たら、大変なことになるかもしれないよ。流星のもととなる小天体は普通、数ミリの塵、大きくても数センチの小石なんだ。それが大気圏に突入して発光する。小さいからすぐに燃え尽きてしまうんだけどね。けれどそれが大きなものになると、燃え尽きることなく地上に落ちてくる。隕石ってやつさ。小さな隕石だったら、さして問題ないんだけど。ただ大きなものになると、地球がどうにかなってしまうかもしれない。およそ六千六百万年前、メキシコのユカタン半島北部に巨大な隕石が衝突したんだ。直径が十五キロほどもあったというんだから、もう小惑星だね。その衝撃とそれによる環境の激変で地球上の多くの生物が絶滅してしまったんだ。当時繁栄していた恐竜もだよ。今あんな巨大な隕石が落ちてきたら、おそらく人類は絶滅してしまうだろうね」
 少年は驚いた様子で、じっと黙っていた。
 「人は死んだらどうなるんですか」
 あまりに唐突な質問に私は答えに窮してしまった。死についてはこれまで幾度となく考えてきた。哲学、宗教などを学んでみたりもした。しかし、考えれば考えるほど分からなくなるのだ。
 「分からない…」
 気がつくと、私は力なげに言葉を発していた。
 「私たちはどこから来たのか。そしてどこへ行くのか。分からないんだ…。死んだら生まれ変わると信じている人も多いけどね」
 「僕は鳥になりたいなあ。大空を自由に飛びまわれたら、どんなに爽快だろうって思うことがあるんです。でもやっぱり人間がいいかな。今度は丈夫な身体で」
 少年は気まずさを感じたのか、妙に明るく振る舞おうとしていた。しかし私は、己の素直な想いを口にせずにはいられなかった。
 「私は生まれ変わりたいとは思わない。というより、生まれ変わりたくなんかないんだ。生まれ変わったら、別の人が私の父母や姉そして恋人になってしまうことだろう。それがたまらなく嫌なんだ…。自分の人生が必ずしも幸せであったわけではない。思うようにいかなかったこともたくさんある。取り返しのつかない大きな過ちも犯してしまった。それでも、この人生が終われば、もうそれでいいんだ…」
 少年は悲痛な面持ちで私を見つめていた。今にも泣きだしそうであった。私はなぜこんなことを話してしまったのかと後悔していた。
 「死んだからって、生まれ変わらないからって、すべてが無に帰すわけではないと思うんだ。想い出は永遠なのさ。星の光のようにね。誰ひとり私のことを想い出さないとしても…。星は誰からも見られていなくたって、ちゃんと輝いている。それと同じさ。私はそれでいいと思っている。死んだら星になるって、そういうことじゃないかな」
 沈黙がつづいたが、私はなにも言わなかった。
 「僕も生まれ変わりたいとは思いません。別の人が僕のお母さんになるなんて考えられません。嫌なんです。このまま身体が良くならなくたっていい。このまま死んでしまったっていいんです。死んだら星になるんですから。そうなんですよね」
 少年は悲壮感を漂わせながらこう言った。私は複雑な気持ちであった。返す言葉が見つからずにいた。
 「君の人生はこれからだよ。死について考えるのは早すぎる。その前に生きることについて考えなくちゃ。君のお母さんへの想いは私にはよく分かるよ。お母さん、きっと心を打たれるだろうね。だけど、このまま身体が良くならなくていい、ましてこのまま死んでもいいだなんて、お母さんが聞いたらどんなに嘆き悲しむか知れないよ」
 少年は目に涙を浮かべながら私を見つめていた。母のことを想いやっていたのかもしれない。
 「ごめんなさい…。僕の人生これからですよね。生きることについて考えなくちゃいけませんよね」
 少年に笑顔が戻っていた。私はこれでよかったのだと思った。もう自分の言葉を悔やんではいなかった。
 少年と私はまた夜空を眺めていた。夜風が湿った肌を乾かしていった。
 「ああっ。流れ星」
 少年は声を張り上げた。
 「本当だ。願いごとは言えたかい」
 「いいえ…。一回も言えませんでした」
 「そうか…。願いごとは自分の力で叶えてゆかなくちゃな」
 「はい。僕、がんばります」
 少年は目を輝かせていた。私はとてもうれしかった。少年を羨ましくも思えた。これからの人生、でっかい未知の世界が待っているぞ。逞しく大きく生きるんだ。へこたれるなよ。私は心のなかで叫んでいた。

 八月十四日

 山の天気は変わりやすい。今日は夕方から雨が降ってきた。見上げると、厚く暗い雲が夜空を覆い尽くしていた。これでは晴れることもないだろう。私は星を見るのを諦め、久々にピアノを弾くことにした。といっても、上手いわけではない。子供の頃、多少やっていた程度である。ここに移り住んでからまたやりたくなり、中古のピアノを買ったのだ。レパートリーはいくつもない。
 私がピアノを奏でていると、チャイムが鳴った。こんな時間に誰だろうか。そう思い、玄関の扉を開けてみると、少年であった。この天気では来ないと思っていたのだが。私は少年を居間へと招き入れた。少年は立ったままピアノを見つめていたが、私が促すとソファーに座った。私はピアノの椅子に横向きに腰をおろした。
 「とても素敵な曲ですね」
 少年は雨のなか、しばらく外で聴いていたと言う。
 「「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」。「時の過ぎゆくままに」とも訳されている。『カサブランカ』というアメリカの古い映画のなかで流れていた曲なんだよ」
 「へえ、そうなんですか。美しく、哀愁を帯びた旋律…。きっと感動的な映画なんでしょうね。どんな内容なんですか」
 部屋の明かりのなかではじめて見たせいか、少年の顔色がいつもよりすこし青白く感じられた。身体の具合が悪化しているのではないだろうか。私は心配になったが、話しをつづけることにした。
 「愛する二人は、すれ違い、結局別れてしまう。ラストシーンでのリックのセリフが感動的なんだ。「We'll always have Paris.」訳すと、「俺たちにはいつもパリの想い出があるさ」って感じかなあ」
 すこしの沈黙の後、少年は私に尋ねるともなく、ピアノをぼんやりと見ながら淋しそうに呟いた。
 「でも…。その想い出だけで生きてゆけるのですか」
 「ラストシーンでは、いささかキザなようだが、リックのこんなセリフもあるんだ。「Here's looking at you, kid.」これは訳すのが難しいんだけれど、「君の瞳に乾杯」なんて訳されてもいる。別の訳だと、「今この瞬間を永遠に」というのもある。君を見つめているこの瞬間は永遠なんだ。時が過ぎ、想い出になってからもずっと…。短いけれども、この言葉に込めたリックの想いが伝わってくるね」
 私は話しつづけていた。少年に説明するというより、自分自身に言い聞かせるかのように…。
 言葉は多ければ伝わるとはかぎらない。少なくても、あるいは少ないからこそ、伝わるということもある。忘れえぬ永遠の一瞬は、そんな語らいのなかにあるのかもしれない。想い出はいつも、断片的にしか蘇ってくれないのだから。どんなに失いたくない大切な記憶でも、時が経つにつれ否応なしに薄らいでいってしまうのだから…。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み