文字数 1,515文字

 翌朝、日が昇りはじめるや、私は昨日最初に訪ねたペンションへ向かいました。玄関の扉を開けると、例の主人が出てきました。
 「ああ、昨日の方。今日はどのような…」
 「朝早くにすみません。またお願いがありまして…」
 主人は昨日と同じようにきょとんとした顔をしていました。
 「私のサイズに合う、登山靴、ウエア、それから…。とにかく、山登りに必要なものすべてを貸していただけないでしょうか」
 主人は驚いた様子でした。無理もないことです。
 「すまないが、うちはレンタルはやっていないんで…」
 「そこを何とか。今日、ある事情があって、なにがなんでも登らなければならないんです」
 私は縋るような表情をしていたと思います。
 「うん~」
 主人はそう小さく唸ると、腕組みをし、俯いてしまいました。考えごとをしているようでもありました。私はずっと頭を下げていました。どうかお願いします…。
 その熱意が通じたのでしょうか。主人は自分の妻のものでかまわなければと言って、登山靴、ウエア、ズボン、リュックなど一式を快く貸してくれました。どれもサイズはぴったりでした。
 「本当にありがとうございます」
 私は深々とお辞儀をしました。主人は心配そうにしていましたが、笑顔で私を見送ってくれました。
 「山は危険だから、十分気をつけて」
 私は急いで叔父の自宅に戻りました。そしてすぐさま支度をすると、白馬岳へと向かったのです。リュックには叔父の遺骨を入れて。
 本格的な登山はこれがはじめてでした。疲れも溜まっており、足がなかなか前に出ませんでした。白馬大雪渓では何度か滑りそうになりました。険しい岩場では思わず立ちすくんでしまいました。
 それでもあの澄んだ青空のように、心は爽快でした。一歩ずつ、前へ、前へ。私はそう自分に言い聞かせ、歩を進めていました。
 ところが山頂に近づくと急に、風が強くなり、雲行きが怪しくなってきました。あっという間に霧に包まれ、周りがよく見えなくなりました。雷雨にでもなったら…。私はこのまま無事に登ってゆけるよう、叔父に祈っていました。
 その祈りが通じたのでしょうか。白馬山荘を過ぎると、みるみるうちに霧が晴れ、雲が消えてゆきました。視界には山頂がくっきりと姿を現しました。あともうすこし。私は歯を食いしばりました。
 日がだいぶ西に傾いていたでしょうか。私はようやく山頂にたどり着きました。なんて気持ちが良いのでしょう。それまでの疲れもどこかに消えていました。
 北の方を向くと、雪倉岳がはっきりと目に映りました。山頂付近の窪んだ斜面には所々、雪が残されていました。そこにちょうど西日があたり、頂一帯を神々しいまでに白く輝かせていました。私はしばらくの間、じっと眺めていました。美雪さんのことを想い浮かべながら。叔父もここからこうして雪倉岳を見つめていたのだろうか。そう思うと、目頭が熱くなってきました。
 私は山頂を後にし、三国境へとつづく山道を進みました。雪倉岳がずっと目に映っていました。すこし下ったところで、私は山道から外れました。あまり人目につかないところまで進むと、そこにはまだわずかに花々が咲いていました。雪倉岳がはっきりと見えるのを確かめた私は、リュックを肩から下ろし、しゃがみこみました。そして、叔父の遺骨を優しく取りだし、心を込めて花々の周りに撒いたのです。遺骨は粉雪のように白くさらさらしていました。
 心のなかで私は、叔父と対面していました。叔父は私に微笑みながら頷いてくれました。叔父はここで永遠に美雪さんと寄り添っていられる。白馬の王子様として…。私は立ち上がり、雪倉岳を見やりました。とても眩しかったのを覚えています。
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