文字数 1,490文字

 私は叔父の日記を読みながら、涙がとまりませんでした。やりきれないとしか言いようがありません。二人は心から愛し合っていたのに…。
 私には今、お付き合いしている人がいます。大学の同級生で、卒業後は東京で高校教師をしています。真面目な人ですが、面白味がないのです。平凡すぎるというか。趣味という趣味もありません。しいて言えば、専門の数学でしょうか。昇という名前なのに、出世意欲はまったくありません。そんな彼に、私は物足りなさを感じています。
 以前仕事がうまくいかずイライラしていた時に、私は彼にこんな憎まれ口をたたいてしまったことがあります。本心からではなかったのですが…。
 「愛なんて、そんな言葉が存在するから、あるような気がするだけなのよ。皆、あるって思い込まされているんだわ。そのないものを追い求めても、見つかりはしないのよ。皆、見つかった、手に入れたって、錯覚しているにすぎないんだわ」
 彼は困惑していたように思います。どこか淋しそうな感じもしました。それでも彼は、優しく私に向き合ってくれました。
 「確かに、愛には実体がない。形がない。けど僕は、愛はあると信じているよ。愛そのものがあるというわけではないかもしれない。ただ、ほかのなにかとは違う、愛としか名づけようがない、そういう感情はあるんじゃないかな」
 彼はまだなにか言いたげでしたが、口にすることはありませんでした。照れた感じで、私から目を逸らしてしまいました。私のことを愛しているなら、愛しているってはっきり言えばいいのに。私は彼の煮えきらない態度に腹立たしさを覚えていました。本当に心ないことです。
 半年ほど前に彼からプロポーズされたのですが、どうしても結婚の決心がつかないでいます。それは私自身、今の仕事に専念しつづけたいという思いからでもあります。彼は結婚した後も、いずれ子供ができてからも、働きつづけていいと言ってくれていますが、すくなくとも当面は、今の仕事中心のライフスタイルを壊したくないのです。もっといい雑誌にしたい。一流の編集者になりたい。私はそう思って、日夜励んでいるのです。彼は私がその気になるまで待つと言ってくれています。
 私は叔父に似ているような気がします。美雪さんと付き合っていた頃の。私は今、遭難した時の美雪さんと同じ年齢です。美雪さんと同じように、仕事でも私生活でもいろいろと悩みを抱えています。母のことも心配です。彼は母の面倒も一緒に見ると言ってくれています。とても優しい人です。なのに、私は…。
 久しぶりに彼のことが恋しくなってきました。今、なにをしているのだろう。ワンルームマンションの自宅で難しい数学の問題と格闘しているのだろうか。その光景が浮かんでくると、涙でいっぱいだった顔に微笑みが戻ってきました。
 涙が乾くと、私は口寂しくなりました。居間へ向かい、山本さんからいただいた紙袋のなかを探ると、美味しそうなおやきに目がゆきました。ひと口食べてみると、なかから野沢菜がたくさん出てきました。香ばしくもちもちした皮との相性が絶妙です。これが白馬の味なのだと感心していると、山本さんの顔が想い浮かんできました。今頃は家族で楽しい時間を過ごしているのでしょうか。
 彼は山本さんに似ているような気がしてきました。実直なところ、優しいところ、シャイなところ、平凡なところ…。歳をとったら、風貌までそっくりになるかもしれません。私はまた微笑んでいました。
 食べ終わったら、日記のつづきが気になりだしました。結末はどうなったのだろうか。私は二階の寝室へと戻り、最後の大学ノートを開きました。
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