文字数 1,675文字

 大学ノートの一冊目はここで終わっています。私は時の経つのも忘れて読みふけっていました。その場に立ち会っているような錯覚に陥ってさえいました。日記からは叔父の温かさが伝わってきました。幼い頃に見た叔父の優しい笑顔が偲ばれてなりませんでした。叔父ともっとふれあいたかった。私は心の底から思いました。
 叔父の日記は私にとって新鮮なものでもありました。私は出版社で科学雑誌の編集をしています。新卒で入社してからずっと、この仕事に携わってきました。もう八年が経ち、自分ではベテランの域に達していると思っていました。しかし叔父の日記にふれたことで、私は自分の領域の狭さを痛感せずにはいられなくなりました。私は難しい科学をどうしたらもっと面白く、分かりやすく解説できるかということにしか意識が向いていませんでした。哲学や文芸の側から科学を見ようとはしてこなかったのです。
 そういえば大学時代、同級生の女友達が私にこんな話しをしたことがありました。ずっと忘れていたのですが。
 「森羅万象を解き明かすことができるのは究極的には数学だけだ。ほとんどの科学者はそう信じているんじゃないかしら。ガリレオ・ガリレイも、「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」と言っているわ。でも私は、そんなことはないような気がするの。数学は宇宙の真理にぎりぎりまで近づくことはできても、たどり着けはしないんだと思うのよ。例えば円周率が割り切れないっていうのも、それを象徴しているんじゃないかしら」
 私はその話しに違和感を覚える一方で、彼女に尊敬と羨望の眼差しを向けていたように記憶しています。
 夢中で日記を読んでいるうちに、いつの間にか夕暮れ時になっていました。私は庭に出て、両手を高くあげながら深呼吸をしました。ひんやりとした空気がとても美味しく感じられました。西の空は朱に染まり、山々は赤みを帯びていました。今夜は星々が見えるだろうか。叔父と少年のように、私も星空と向き合いたくなっていました。
 しばらくベンチに腰かけていると、敷地に車が入ってきました。すぐに役場の山本さんだと分かりました。私が会釈すると、慌てて車から降りてきました。
 「いやいや、どうもどうも。片付けは進んでいますか」
 「それがなかなか捗りませんで…」
 私はきまりが悪そうに小声で答えていました。
 「お疲れのことでしょうし、どうかあまり根をつめないでください。あの~、これ。よかったら…」
 照れくさそうにそう言って手渡してくれた紙袋のなかには、食べ物と飲み物、それにお菓子がぎっしりつまっていました。ゆうに三食分はあったでしょうか。
 「こんなことまでしていただいては…」
 「いやいや、気にしないでください。ここじゃ近くになにもないですし、車がないとどうにもならないですから…。お腹すいたでしょう」
 山本さんは額の汗をハンカチで拭きながら、優しくそう言ってくれました。仕事を終えるや、急いで買い物を済ませ、駆けつけてくれたのでしょう。
 私は丁寧にお礼を述べ、代金を手渡そうとしましたが、山本さんはどうしても受けとろうとはしませんでした。家のなかに入って一緒に食事をとも誘ったのですが、妻子が自分の帰りを待っているからと言って、すぐに立ち去ってしまいました。山本さんの心遣いに、私は胸が熱くなっていました。
 私は急に空腹を覚えました。朝食をとってからなにも口にしていなかったのです。あまりに爽快なので、私はこのベンチで食事をすることにしました。どれにしようか迷いましたが、その香りに誘われて、まだ温かいパンをいただくことにしました。酵母のほどよい甘さと酸っぱさ、それにミントの風味。なんて美味しいのでしょう。それは山本さんの心がつまっていたからかもしれません。
 食事を終えた頃には、もう辺りは薄暗くなり、赤紫の夜空には星々が現れはじめていました。私はしばらく星空を眺めていましたが、日記のつづきが気になってなりません。叔父と少年はあの後どうなったのだろうか。私は二階の寝室へと戻り、二冊目の大学ノートを開いたのです。
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