09 地味で根暗で電信柱な私だけど、あなたを信じていいですか?(前編)
文字数 2,882文字
夢の中で佐藤さんが栗色の髪の女の子に誘惑されていた。
朝方に見た夢のせいで私こと清川ゆかりはいつもよりずっと暗い気分でレジカウンターに立っていた。
年越しを間近に控え理工書のフロアは普段よりもお客様の数が多くなっている。比例してお問い合わせ対応などの数も増加するので私たち書店員の仕事も増えていた。
「はぁ」
隣に並ぶ長野ちゃんが本日三十五回目のため息をつく。まあ正確には開店してから数えた回数なんだけど。
それにしても長野ちゃんなのに元気がない。
どうしたのかな?
*
「どうしたの、何か悩み事?」
三十六回目のため息をついた長野ちゃんに私は尋ねた。正直、私が見た夢よりこっちのほうが現実的問題として重要だ。そもそも佐藤さんが女の子の誘惑に負けるなんてあり得ない。
あり得ない、よね?
「……」
長野ちゃんが僅かに口を開きかけ、やめる。
彼女はふるふると首を振った。
「別に何でもないですよぉ。ゆかりさんは気にしなくていいですぅ」
「えーと」
何だろう。
ソフトに拒否られた?
「それよりぃ」
長野ちゃんが急に笑顔を向けてくる。それはもうわざとらしいにも程があるくらい露骨な作り笑いだった。
「今日の忘年会楽しみですぅ。ゆかりさんも楽しみですよねぇ?」
「えっ、まあ、そうね」
そう。
今日は私たちの勤めるラズベリー堂書店の忘年会がある。
「今夜は彼が迎えに来てくれるから思う存分飲めますよぉ。ゆかりさんも倒れるくらい飲んでくださいねぇ」
「いや、倒れるまで飲むのは駄目でしょ」
「えーっ、ゆかりさんが倒れたら佐藤さんを呼ぶのにぃ。それでお姫様抱っこで連れ帰ってもらうんですよぉ」
「……」
うーん。
お姫様抱っこで家までは無理かな。
私、地味に重いし。
*
そういえば佐藤さんも今日は忘年会だって言ってたっけ。
私は朝食を食べているときに彼と話したことを思い出した。
「ゆかりさんの店も今日は忘年会なんですよね」
「うん」
「俺も今日は会社の忘年会があるんですよ。お互い帰りは遅くなるでしょうから二次会まではOKってことにしませんか?」
佐藤さんの提案を私は受け容れた。
二次会までってことにすれば私も佐藤さんもかなり飲めるし忘年会を楽しめるはずだ。
せっかくの忘年会なんだし、佐藤さんも遅くなるって言ってたし、ちょっと羽目を外してもいい……かな?
そんなことを思いながら私はレジカウンターに現れたお客様に微笑んだ。
*
夜。
おソバ屋さんの座敷を借りて私の店の忘年会が行われた。
四十畳ほどの和室にいくつか繋げたローテーブルが二つの島を作っている。
テーブルの上には刺身や天ぷら、焼き魚、煮物、枝豆といった料理が並び、ビールや日本酒、焼酎、コーラ、オレンジジュース、ウーロン茶といった飲み物が置かれていた。
私の向かい側でうちのフロア主任が仕入課の主任と深刻そうな顔をして何か相談している。
そういやこの二人同期だったなぁとか思いながら私はビールの注がれたグラスを傾けた。
「ゆーかーりーさぁーん」
早くも出来上がりつつある長野ちゃんがふらつきながら近寄って来て隣の座布団に着地した。そのまま眠ってしまってもおかしくないとろんとした目で私を見つめてくる。
数秒の沈黙の後、彼女はいきなり涙を浮かべ始めた。
「えっ?」
私は突然のことに戸惑い、とりあえずと手近にあったおしぼりで涙を拭おうとした。
弱々しくも乱暴に長野ちゃんがその手を払う。
「やめてくださいよぉ、それ誰の足を拭いた奴ですかぁ。おっさん臭くなったらどうするんですかぁ」
「いや足は拭いてないし、私のだし、あとおっさん臭くないし」
「ええっ、ゆかりさんっておっさん臭いんですかぁ」
「いや、だから臭くないし」
私がむすっとすると長野ちゃんがケラケラと笑った。泣いたり笑ったり忙しい娘だ。
ひとしきり笑うと彼女はぽつりと言った。
「ゆかりさん、可哀想ですぅ」
「私が可哀想?」
何のことかわからず私はこてんと首を傾げる。もしかすると頭の上に疑問符が三つくらい並んでいたかもしれない。
ぐすっ、と長野ちゃんが鼻をすすり、うなずいた。
「佐藤さんに裏切られて可哀想ですぅ」
「はぁ?」
あまりにも突飛すぎて私は目を見開いた。これ、飲み物を口にしていたら吹き出してもおかしくない案件だよ。
「どうして彼に裏切られただなんて言うの?」
「どうしてってぇ」
長野ちゃんがまた鼻をすすった。
「それ言ったらゆかりさん傷つきますぅ」
「……」
何だろう。
これ以上聞かないほうがいい気がする。
そんな嫌な予感が頭をよぎったとき長野ちゃんが抱きついてきた。
ふわっと長野ちゃんの甘い柑橘系の匂いがアルコールの臭いと混ざりながら私を包む。彼女の息がうなじをくすぐった。温かな体温がとくとくとくという心音とともに伝わってくる。
「実は見ちゃったんですよぉ」
「み、見ちゃったって、何を?」
今日ずっと長野ちゃんにため息をつかせていた原因はこれか。
半ば確信しつつ、それでも聞いてはいけないと警告する自分がいて、どちらにも転びきれないまま私は長野ちゃんの背中に腕を回した。
「佐藤さん、女の子と歩いてたんですよぅ。それもすっごい可愛い子でぇ。私ほどじゃないけど可愛い子でぇ」
「……」
長野ちゃん。
あんまり自分のこと可愛いって強調しないほうがいいよ。
……じゃなくて!
「ななな、長野ちゃん」
私はばっと彼女を引き離した。
「いいい、今何て?」
「だからぁ、女の子と佐藤さんが並んで歩いてたんですよぅ。それもかなり親しげだったんですぅ。ちなみに、今日はワイルドなほうの彼が迎えに来てくれるんですよぉ」
あ、余計な情報が追加されてる。
じゃなくて!
「そそそ、それって人違いなんじゃない? ほら、世の中にはそっくりさんもいることだし」
「ゆかりさん、諦めが悪いですぅ」
長野ちゃんがむうっと口角を下げた。
というかあなた怒った顔も可愛いですか。
じゃなくて!
長野ちゃんの話によると昨夜彼氏と食事をして帰る途中で佐藤さんたちを見かけたのだそうだ。
そういえば昨夜の佐藤さんは帰りが遅かった。
飲み会があったと聞いてはいたけどよく考えると誰と飲んでいたのかまでは聞いていない。忘年会の類だろうとスルーしてしまったのだ。
だって営業なら飲み付き合いもあるだろうし。
束縛してくる面倒な女だと思われたくないし。
長野ちゃんの話を聞いて私はすっかり酔いが醒めてしまった。
すぐにでも真偽を確認したかったのだが、佐藤さんに重い女だと思われたくない気弱な私が連絡するのを思い止まらせていた。
スマホを出しては画面を見つめ、仕舞ってはまた取り出すを繰り返しているうちに一次会は終わってしまった。
もう忘年会という気分ではなかったものの帰ったところで佐藤さんはいないとわかっていたので二次会に出ることにした。だって誰もいない家に一人で待っていなければならないなんて寂しいじゃない。
でも、本当に長野ちゃんが見た人って佐藤さんなのかな。
一次会の会場だったおソバ屋さんを後にしながら私はそう思うのであった。
朝方に見た夢のせいで私こと清川ゆかりはいつもよりずっと暗い気分でレジカウンターに立っていた。
年越しを間近に控え理工書のフロアは普段よりもお客様の数が多くなっている。比例してお問い合わせ対応などの数も増加するので私たち書店員の仕事も増えていた。
「はぁ」
隣に並ぶ長野ちゃんが本日三十五回目のため息をつく。まあ正確には開店してから数えた回数なんだけど。
それにしても長野ちゃんなのに元気がない。
どうしたのかな?
*
「どうしたの、何か悩み事?」
三十六回目のため息をついた長野ちゃんに私は尋ねた。正直、私が見た夢よりこっちのほうが現実的問題として重要だ。そもそも佐藤さんが女の子の誘惑に負けるなんてあり得ない。
あり得ない、よね?
「……」
長野ちゃんが僅かに口を開きかけ、やめる。
彼女はふるふると首を振った。
「別に何でもないですよぉ。ゆかりさんは気にしなくていいですぅ」
「えーと」
何だろう。
ソフトに拒否られた?
「それよりぃ」
長野ちゃんが急に笑顔を向けてくる。それはもうわざとらしいにも程があるくらい露骨な作り笑いだった。
「今日の忘年会楽しみですぅ。ゆかりさんも楽しみですよねぇ?」
「えっ、まあ、そうね」
そう。
今日は私たちの勤めるラズベリー堂書店の忘年会がある。
「今夜は彼が迎えに来てくれるから思う存分飲めますよぉ。ゆかりさんも倒れるくらい飲んでくださいねぇ」
「いや、倒れるまで飲むのは駄目でしょ」
「えーっ、ゆかりさんが倒れたら佐藤さんを呼ぶのにぃ。それでお姫様抱っこで連れ帰ってもらうんですよぉ」
「……」
うーん。
お姫様抱っこで家までは無理かな。
私、地味に重いし。
*
そういえば佐藤さんも今日は忘年会だって言ってたっけ。
私は朝食を食べているときに彼と話したことを思い出した。
「ゆかりさんの店も今日は忘年会なんですよね」
「うん」
「俺も今日は会社の忘年会があるんですよ。お互い帰りは遅くなるでしょうから二次会まではOKってことにしませんか?」
佐藤さんの提案を私は受け容れた。
二次会までってことにすれば私も佐藤さんもかなり飲めるし忘年会を楽しめるはずだ。
せっかくの忘年会なんだし、佐藤さんも遅くなるって言ってたし、ちょっと羽目を外してもいい……かな?
そんなことを思いながら私はレジカウンターに現れたお客様に微笑んだ。
*
夜。
おソバ屋さんの座敷を借りて私の店の忘年会が行われた。
四十畳ほどの和室にいくつか繋げたローテーブルが二つの島を作っている。
テーブルの上には刺身や天ぷら、焼き魚、煮物、枝豆といった料理が並び、ビールや日本酒、焼酎、コーラ、オレンジジュース、ウーロン茶といった飲み物が置かれていた。
私の向かい側でうちのフロア主任が仕入課の主任と深刻そうな顔をして何か相談している。
そういやこの二人同期だったなぁとか思いながら私はビールの注がれたグラスを傾けた。
「ゆーかーりーさぁーん」
早くも出来上がりつつある長野ちゃんがふらつきながら近寄って来て隣の座布団に着地した。そのまま眠ってしまってもおかしくないとろんとした目で私を見つめてくる。
数秒の沈黙の後、彼女はいきなり涙を浮かべ始めた。
「えっ?」
私は突然のことに戸惑い、とりあえずと手近にあったおしぼりで涙を拭おうとした。
弱々しくも乱暴に長野ちゃんがその手を払う。
「やめてくださいよぉ、それ誰の足を拭いた奴ですかぁ。おっさん臭くなったらどうするんですかぁ」
「いや足は拭いてないし、私のだし、あとおっさん臭くないし」
「ええっ、ゆかりさんっておっさん臭いんですかぁ」
「いや、だから臭くないし」
私がむすっとすると長野ちゃんがケラケラと笑った。泣いたり笑ったり忙しい娘だ。
ひとしきり笑うと彼女はぽつりと言った。
「ゆかりさん、可哀想ですぅ」
「私が可哀想?」
何のことかわからず私はこてんと首を傾げる。もしかすると頭の上に疑問符が三つくらい並んでいたかもしれない。
ぐすっ、と長野ちゃんが鼻をすすり、うなずいた。
「佐藤さんに裏切られて可哀想ですぅ」
「はぁ?」
あまりにも突飛すぎて私は目を見開いた。これ、飲み物を口にしていたら吹き出してもおかしくない案件だよ。
「どうして彼に裏切られただなんて言うの?」
「どうしてってぇ」
長野ちゃんがまた鼻をすすった。
「それ言ったらゆかりさん傷つきますぅ」
「……」
何だろう。
これ以上聞かないほうがいい気がする。
そんな嫌な予感が頭をよぎったとき長野ちゃんが抱きついてきた。
ふわっと長野ちゃんの甘い柑橘系の匂いがアルコールの臭いと混ざりながら私を包む。彼女の息がうなじをくすぐった。温かな体温がとくとくとくという心音とともに伝わってくる。
「実は見ちゃったんですよぉ」
「み、見ちゃったって、何を?」
今日ずっと長野ちゃんにため息をつかせていた原因はこれか。
半ば確信しつつ、それでも聞いてはいけないと警告する自分がいて、どちらにも転びきれないまま私は長野ちゃんの背中に腕を回した。
「佐藤さん、女の子と歩いてたんですよぅ。それもすっごい可愛い子でぇ。私ほどじゃないけど可愛い子でぇ」
「……」
長野ちゃん。
あんまり自分のこと可愛いって強調しないほうがいいよ。
……じゃなくて!
「ななな、長野ちゃん」
私はばっと彼女を引き離した。
「いいい、今何て?」
「だからぁ、女の子と佐藤さんが並んで歩いてたんですよぅ。それもかなり親しげだったんですぅ。ちなみに、今日はワイルドなほうの彼が迎えに来てくれるんですよぉ」
あ、余計な情報が追加されてる。
じゃなくて!
「そそそ、それって人違いなんじゃない? ほら、世の中にはそっくりさんもいることだし」
「ゆかりさん、諦めが悪いですぅ」
長野ちゃんがむうっと口角を下げた。
というかあなた怒った顔も可愛いですか。
じゃなくて!
長野ちゃんの話によると昨夜彼氏と食事をして帰る途中で佐藤さんたちを見かけたのだそうだ。
そういえば昨夜の佐藤さんは帰りが遅かった。
飲み会があったと聞いてはいたけどよく考えると誰と飲んでいたのかまでは聞いていない。忘年会の類だろうとスルーしてしまったのだ。
だって営業なら飲み付き合いもあるだろうし。
束縛してくる面倒な女だと思われたくないし。
長野ちゃんの話を聞いて私はすっかり酔いが醒めてしまった。
すぐにでも真偽を確認したかったのだが、佐藤さんに重い女だと思われたくない気弱な私が連絡するのを思い止まらせていた。
スマホを出しては画面を見つめ、仕舞ってはまた取り出すを繰り返しているうちに一次会は終わってしまった。
もう忘年会という気分ではなかったものの帰ったところで佐藤さんはいないとわかっていたので二次会に出ることにした。だって誰もいない家に一人で待っていなければならないなんて寂しいじゃない。
でも、本当に長野ちゃんが見た人って佐藤さんなのかな。
一次会の会場だったおソバ屋さんを後にしながら私はそう思うのであった。