01 地味で根暗で電信柱な私だけど、二十代で結婚できますか?
文字数 2,342文字
春の異動で理工書のフロアに移った。
大学在学中にアルバイトをしていた大型書店にそのまま入射した私こと清川ゆかりは現在二十八歳。同期や友だちの中にはすでに結婚している人がいて少しばかりの焦りを感じていた。
せめて二十代のうちにはと思っていてもなかなか良縁に恵まれなくてこれまでずっと独りでいる。
二つ下の後輩の寿退社を知らされたのは今朝の話だ。
相手とはどうやら高校のときからの付き合いだそうで、頼みもしないのにあれこれとノロケ話を聞かされた。
私もあんなふうにノロケ話をしてみたい。
だが、残念なことに私には彼氏のかの字もいなかった。
電信柱と呼ばれたほど痩せっぽちで背の高い身長と可愛くも美人でもない自分の顔はコンプレックスでしかない。高校から大学に進学するときに黒縁眼鏡からコンタクトに替えたり、長い黒髪を切ってショートにしてみたりしたけれど中身が地味なままだったからか何の変化もなかった。
結婚の報告をする後輩のきらきらした姿を思い出してしまい、私は書棚を整理する手を止めた。
本来なら文系出身の自分と無縁な分野の書籍が並ぶ棚は無遠慮なくらいそっけなく私を眺めているように見える。こんな本たちにも私は魅力的に映っていないのかもしれないと思うと悲しくなった。
*
「清川さん、こんにちは」
落ち込んでいないで仕事をしようとしゃがんで書棚の下のストッカーを開けたとき、横から声が降ってきた。
「あ、佐藤さん」
私が気づくと佐藤さんは軽く会釈し、爽やかな笑顔を向けてくれた。
佐藤さんは理工書の版元であるあんぺあ出版の営業で月に数回この店を訪れる。
確か今年で二十三歳。見慣れたダークスーツは彼に良く似合っている。白いワイシャツが店内の照明でさらに白く映えていた。ネクタイの色も落ち着いていて真面目そうな印象を強めている。
「いつもお世話になってます。早速棚を見させてもらいますね」
そう言って佐藤さんは鞄から既刊本の注文書を取り出した。この注文書には書籍ごとに在庫を記す欄があり、その隣に注文部数の欄がある。彼はいつもこれを使って商談の前にコンピュータ関連の棚の残り部数をチェックしていた。
私よりは背が低いがすらりとしたイケメンの彼は他の女子店員からも人気がある。私も彼のことは嫌いではなかった。
けれど好青年な彼と地味で根暗な電信柱の私が釣り合うとは到底思えない。だから私は戦う前から諦めていた。
欲張らずこのままでいさえすれば少なくとも月に数回は彼に会うことができる、それだけでいい。
そう自分に言い聞かせていた。
*
在庫のチェックを終えた佐藤さんと既刊本の注文と新刊の部数についての折衝をしていると不意に彼が言った。
「そういえば技術評論書房の山田さんが結婚するそうですよ」
「そうなの?」
技術評論書房の営業の山田さんは佐藤さんに負けないくらい女子店員の人気を得ていた。一体どうやって彼のハートを射貫いたのかとか相手は誰だろうとかいろいろ疑問が浮かぶ。
それにしても結婚かぁ。
まるで流行りもののようにみんな結婚していくことに私の本音が漏れた。
「いいなぁ、私も結婚したい」
「えっ」
驚いた佐藤さんの声に私ははっとした。
しまった、佐藤さんに聞かれた。
「結婚、したいんですか」
やや戸惑い気味に佐藤さんが質問する。
私はかぁーっと耳まで赤くなっていくのを自覚した。恥ずかしさのあまり倒れてしまいそうだ。
私が答えずにいると彼は何かを決意したかのようにうなずき、宣言した。
「すみません、三分間だけあんぺあ出版の営業ではない俺になります」
「あ、はい」
その表情が真剣だったので私は気圧されてしまう。
*
すでにお昼のピークを過ぎておりフロアにいる客はほとんどいなかった。私と佐藤さんはフロアの隅で話をしていたのでレジからも見咎められることはない。
もっとも店内に配置された防犯カメラがしっかりと死角をカバーしているのだが。
きりっとした佐藤さんに見惚れていると彼の手が伸びて私の頬に指先が触れた。
「清川さん」
壊れものを扱うように優しく彼は頬から唇へと指を滑らせる。私の唇の上で止まった指先から微かに彼の体温が伝わってきた。
抵抗なんてできない。
彼は触れて欲しくない相手ではなかった。むしろ逆だ。
佐藤さんの声に熱がこもる。
「俺、清川さんのこと好きです」
「……!」
今度は私が驚く番だった。
とくんと一段階高く心臓が跳ねる。とくとく、とくとくと心音が加速していった。比例するように私の体温が熱くなってくる。
え、だって私、可愛くないよ?
美人でもないし。
電信柱だし。
それに地味で根暗だし。
彼に好かれない理由なら幾らでも出てくるのに好かれる理由が一つも出てこない。
そんな自分が情けなくて堪らなくなるのに佐藤さんは慈しむような眼差しで私を見つめてくる。
「初めて会ったときからいいなぁって思ってたんです」
彼は唇から指を離した。
急に失った彼の温度に私の唇は寂しさを覚える。それをごまかすように私は口を開いた。
「でも私、可愛くないし」
「清川さんは可愛いですよ」
「背だって佐藤さんより高いし」
「俺はそんなの気にしません」
「年齢だって上だし」
「年下は嫌いですか?」
彼は不敵に笑う。ニヤリとした表情はどこか自信に満ちていて、その力強さに惹き寄せられそうになった。
あ、これは駄目だ。
私、落ちる……。
「清川さん、俺と付き合ってください」
そっと私を抱き締めて佐藤さんは耳元でそうささやく。彼の吐息が耳に当たってくすぐったい。
私、ひょっとしたら二十代で結婚できるかも。
みんなにノロケ話を披露できるかも。
彼の匂いに包まれながら私はぼんやりとそんなことを思うのであった。
(了)
大学在学中にアルバイトをしていた大型書店にそのまま入射した私こと清川ゆかりは現在二十八歳。同期や友だちの中にはすでに結婚している人がいて少しばかりの焦りを感じていた。
せめて二十代のうちにはと思っていてもなかなか良縁に恵まれなくてこれまでずっと独りでいる。
二つ下の後輩の寿退社を知らされたのは今朝の話だ。
相手とはどうやら高校のときからの付き合いだそうで、頼みもしないのにあれこれとノロケ話を聞かされた。
私もあんなふうにノロケ話をしてみたい。
だが、残念なことに私には彼氏のかの字もいなかった。
電信柱と呼ばれたほど痩せっぽちで背の高い身長と可愛くも美人でもない自分の顔はコンプレックスでしかない。高校から大学に進学するときに黒縁眼鏡からコンタクトに替えたり、長い黒髪を切ってショートにしてみたりしたけれど中身が地味なままだったからか何の変化もなかった。
結婚の報告をする後輩のきらきらした姿を思い出してしまい、私は書棚を整理する手を止めた。
本来なら文系出身の自分と無縁な分野の書籍が並ぶ棚は無遠慮なくらいそっけなく私を眺めているように見える。こんな本たちにも私は魅力的に映っていないのかもしれないと思うと悲しくなった。
*
「清川さん、こんにちは」
落ち込んでいないで仕事をしようとしゃがんで書棚の下のストッカーを開けたとき、横から声が降ってきた。
「あ、佐藤さん」
私が気づくと佐藤さんは軽く会釈し、爽やかな笑顔を向けてくれた。
佐藤さんは理工書の版元であるあんぺあ出版の営業で月に数回この店を訪れる。
確か今年で二十三歳。見慣れたダークスーツは彼に良く似合っている。白いワイシャツが店内の照明でさらに白く映えていた。ネクタイの色も落ち着いていて真面目そうな印象を強めている。
「いつもお世話になってます。早速棚を見させてもらいますね」
そう言って佐藤さんは鞄から既刊本の注文書を取り出した。この注文書には書籍ごとに在庫を記す欄があり、その隣に注文部数の欄がある。彼はいつもこれを使って商談の前にコンピュータ関連の棚の残り部数をチェックしていた。
私よりは背が低いがすらりとしたイケメンの彼は他の女子店員からも人気がある。私も彼のことは嫌いではなかった。
けれど好青年な彼と地味で根暗な電信柱の私が釣り合うとは到底思えない。だから私は戦う前から諦めていた。
欲張らずこのままでいさえすれば少なくとも月に数回は彼に会うことができる、それだけでいい。
そう自分に言い聞かせていた。
*
在庫のチェックを終えた佐藤さんと既刊本の注文と新刊の部数についての折衝をしていると不意に彼が言った。
「そういえば技術評論書房の山田さんが結婚するそうですよ」
「そうなの?」
技術評論書房の営業の山田さんは佐藤さんに負けないくらい女子店員の人気を得ていた。一体どうやって彼のハートを射貫いたのかとか相手は誰だろうとかいろいろ疑問が浮かぶ。
それにしても結婚かぁ。
まるで流行りもののようにみんな結婚していくことに私の本音が漏れた。
「いいなぁ、私も結婚したい」
「えっ」
驚いた佐藤さんの声に私ははっとした。
しまった、佐藤さんに聞かれた。
「結婚、したいんですか」
やや戸惑い気味に佐藤さんが質問する。
私はかぁーっと耳まで赤くなっていくのを自覚した。恥ずかしさのあまり倒れてしまいそうだ。
私が答えずにいると彼は何かを決意したかのようにうなずき、宣言した。
「すみません、三分間だけあんぺあ出版の営業ではない俺になります」
「あ、はい」
その表情が真剣だったので私は気圧されてしまう。
*
すでにお昼のピークを過ぎておりフロアにいる客はほとんどいなかった。私と佐藤さんはフロアの隅で話をしていたのでレジからも見咎められることはない。
もっとも店内に配置された防犯カメラがしっかりと死角をカバーしているのだが。
きりっとした佐藤さんに見惚れていると彼の手が伸びて私の頬に指先が触れた。
「清川さん」
壊れものを扱うように優しく彼は頬から唇へと指を滑らせる。私の唇の上で止まった指先から微かに彼の体温が伝わってきた。
抵抗なんてできない。
彼は触れて欲しくない相手ではなかった。むしろ逆だ。
佐藤さんの声に熱がこもる。
「俺、清川さんのこと好きです」
「……!」
今度は私が驚く番だった。
とくんと一段階高く心臓が跳ねる。とくとく、とくとくと心音が加速していった。比例するように私の体温が熱くなってくる。
え、だって私、可愛くないよ?
美人でもないし。
電信柱だし。
それに地味で根暗だし。
彼に好かれない理由なら幾らでも出てくるのに好かれる理由が一つも出てこない。
そんな自分が情けなくて堪らなくなるのに佐藤さんは慈しむような眼差しで私を見つめてくる。
「初めて会ったときからいいなぁって思ってたんです」
彼は唇から指を離した。
急に失った彼の温度に私の唇は寂しさを覚える。それをごまかすように私は口を開いた。
「でも私、可愛くないし」
「清川さんは可愛いですよ」
「背だって佐藤さんより高いし」
「俺はそんなの気にしません」
「年齢だって上だし」
「年下は嫌いですか?」
彼は不敵に笑う。ニヤリとした表情はどこか自信に満ちていて、その力強さに惹き寄せられそうになった。
あ、これは駄目だ。
私、落ちる……。
「清川さん、俺と付き合ってください」
そっと私を抱き締めて佐藤さんは耳元でそうささやく。彼の吐息が耳に当たってくすぐったい。
私、ひょっとしたら二十代で結婚できるかも。
みんなにノロケ話を披露できるかも。
彼の匂いに包まれながら私はぼんやりとそんなことを思うのであった。
(了)