第14話

文字数 4,240文字

7:【納涼祭】

 翌日、罰則が適用された。午後は昼間から暗くなるまで労働のしどおしで、少年たちは野外で半ば日射病になりかけ、ふらふらになって最後の授業を受けた。噂によると、温室かどこかで植物の世話をしていた幾人かも似たような症状を出し、彼らの場合は倒れて医務室へかつぎ込まれたらしいが、大事には至らなかったという。
 その後はとどこおりなく数日が過ぎ、納涼祭前日の朝がやってきたが、そのときになって令はふと疑問をいだいた。当日は居住区Cから、この区域内にも露店が出されるらしい。だがそこで売られているものを、もし欲しくなったとしても、お金を持っていない自分たちは買えないのだろうか。
 そう思って彼は、お金というものから今の自分がとても遠ざかっていることに気がついた。思い出したのも久しぶりだった。百円玉や五百円玉や、千円札を見なくなってどれくらいが経っただろう。だが外地にいたころも、現金はいくらか持っていたけれど、あまり自分でものを買った記憶はない。
 そんなことを考えていたら、昼食時、自分たちの囚人服と同じ色をした長方形の小さな紙片が一枚、全員に配られた。表に「引換券」と印字がしてあって、教官の話を聞くと、それが明日の納涼祭のあいだお金の役割を果たすらしい。追伸島にも貨幣はあって、よく流通しているがそれは居住区Cと別島だけで、それ以外の居住区内で実際の金銭取引を行うことは禁止なのだという。
 「一回しか使えないから、ようく考えろ」と諭されたが、一枚しかないのだから言われるまでもない。しかしどんな店が出るのか定かではないから、何に使うかは当日になってみないと決められない。
 昼食を終えてから、この貴重な引換券の使い道について、少年たちのあいだでは隙を見てはさまざまな話が飛び交った。前の年にも使った経験のある「先輩」が、そのときにはこういう店が出たと教えたり、あれがおいしかった、またあれが欲しい等々の感想を披露したりしたが、それらによると、一等人気はやはり飴玉や綿菓子やカルメ焼きといった菓子類らしい。普段そういうものを口にする機会が少年たちにはないので、甘い香りが漂ってくるだけで、もうほんとうに食べたくて食べたくてたまらない気持ちになるのだという。
 かき氷と、新鮮な水菓子もよく候補に挙がった。それは令のクラス内でのことだった。
 水菓子とは水でできた菓子じゃない、くだものを指すのだと、彼はクラスメイトの何人かに笑われた。令からすると、くだものはくだものであって菓子じゃない、菓子とは呼ばない……と思うのだが、そんな言い方もあるらしい。
 労働を終えて疲れていたから、授業前の束の間、囁き合いの早口に、糖分を恋しがって甘いもの談義に花が咲いた。寛二は、時季が違うと治が言っているのに、
 「俺は柿がいい。柿が好きだ」
 とひとりで譲らない。治は、
 「僕は西瓜が好きだなあ」
 と言ったが、そのとき横から颯平が、西瓜はフルーツじゃなくて野菜だと言い張って、甘いから水菓子だ、いや樹木に実らないものは甘くたって野菜だと、また議論になった。
 苺や林檎やブドウは飴になる。だけどバナナはならない。バナナはチョコバナナにしかならないとだれかが言い出したときは、すごかった。教室中から意見が弾け、心配した久人が思わず時計を見て、廊下をうかがったほどだった。令と颯平は「確かに……」とよく露店で並べられている串刺しの、上からチョコレートをかけられ、さらにカラフルな飾りを施されたバナナたちを思い出した。だがクラスの半分はそもそもチョコバナナが何なのかを知らず、説明を聞いても、どうしてバナナにチョコレートなのか納得がゆかないようすだった。禄太もその内のひとりで、彼はバナナ自体、好きではないという。そんなものより団子が食べたいと言って、むくれていた。
 そんな中、「またあの人たちが区域内へ来ないものか」と、糖分より女性の姿を恋しがる少年も、一定数いた。彼らは大人びたようすに引換券をひらひらとさせて、恨めしげに見つめる。そのさまは、あたかもその券で彼女たちを買えないことを芯から嘆いているようで、令の胸をどきりとさせた。
 彼女たちが綺麗だったとか、いい匂いがしたとかいう噂は、ここ数日来、令は何度も耳にしたし、自分でも大概、賛成できた。チョコバナナと違ってあのとき目にした光景は、そのほうがよほど新しい記憶だからか、あるいは印象的だったからか……たやすく頭に描ける。
 久人は彼特有の微笑で、
 「華やかだったな。驚いた」
 と言う。しかしそうして褒めはするが、特別、執心しているようには見えない。
 大人より女の子たちが可愛かったと漏らす少年も多かった。大人の女の人は、大人だから何を言うか分からなくて、怖くて近寄れない。けれど女の子のほうは、小さくて弱そうで、素直な感じがするから、近づいてみたいという。
 近づいて何をするの、という話になると、彼らはそろって「一緒に遊ぶ」と答える。だが女と遊ぶには別島へ行かなくてはならず、また別島へ行くには大人になって居住区Bを出ていなければならないから、当分のあいだは遊べないと浮かない口調になる。その間、終始にやにやと含み笑いをしていたり、はたまた純朴に瞳を明るくさせていたり、かと思えば頬を染めていたりする。話すほうもそうなら聞いているほうもそうで、クラス中が互いをからかったり忍び笑いをしたりして、いつにない空気が教室に満ちる。
 ――みんな、あの女の人たちが、先生たちと何すると思う。
 ――俺、知ってるぜ。絵本で見たんだ。
 ――ああ、僕も分かる。男と女のやつ。
 ――何の話?
 ――いつか聞いたことがある、朝まで可愛がってもらうって……。
 女性たちの唇は総じて真っ赤で、つぼみのようだったという。令は、あとについていた少女たちの赤い傘に気を取られていたせいもあって、女性たちの顔が表情としてどうだったかは覚えていても、詳しい見目のほうにはあまり意識がゆかなかった。
 皆の言葉を令は黙って耳に入れていたが、本鈴まであと少しというときになって突然、治に訊かれた。
 「ねえ、令。令はどっちがよかったの」
 「え? どっちって?」
 「だからさ、女の人のほうか、女の子のほうか」
 「ええ……分かんないよ、そんなこと……どっちも綺麗だったよ」
 「景明よりも?」
 「え?」
 「だからさ、景明よりも?」
 令はぽかんとして、治を見つめた。
 「治、何言ってるの?」
 「考えたことなかった?」
 「考えるって、だって景明は……」
 言いかけた口を閉じ、令は戸惑った。
 「だって……」
 しどろもどろになりながら、彼は目の奥に景明の姿を浮かべる。すると胸が騒いで、景明と、あの女性と少女たちとを並べて比べようとしたとき、そのイメージは閃光のように一瞬だけ耀いて消えた。
 「分かんないよ」
 令は治をにらんだ。治はふうんと言って、悪びれたようすもなく笑った。令だけがひとり、背をじんわりと湿らせて、彼にはそれがどういう種類の汗なのか分からなかった。

 翌日は、朝のうちは曇っていたが午後になるにつれ太陽が顔を出し、日差しが戻ってきた。
 区域内へ、準備のため、外から人が入ってくるというだけで少年たちには特別な気分があって、皆、朝食のときから何とはなしに落ち着かないようすだった。さらには、今日は昼食後のいつもの労働がない。代わりに授業が増えて、それは普段であれば労働へ出ている午後の早い時間帯から夕刻まで、休憩を挟んで行われる。そのあいだに、居住区Cからやってきた大人たちが各々の露店を組み上げる。また店ではなく、「後輩である若き囚人たち」への心遣いと称して、無料で食物を提供するような団体も来るという。
 「くれぐれも壁の外へ出ないよう」
 昼食の際、珍しく湊が入ってきて、マイクへ向け言った。
 「また、分かっていると思いますが山中への立ち入りは禁止です。今夜、皆さんの行動は、我々教官と、そして警備隊からの応援の方々によって監視されます。せっかくの納涼祭なのですから、皆さん規則をよく守り、自らの愚によって台無しにしないよう努めてください」
 授業中、棟の外から男たちの話し声や、何かを打ったり切ったり、落としたりするような喧騒がかすかに聞こえてきた。彼らは居住区Cで個人商店を営む商売人、あるいはもう少し大きな店を管理している経営者で、祭りごとがあるたび各所に散らばって、そこで物を売るという。
 令は、教官の話を真剣に聞いているふりをしながら、このあとのことばかり考えていた。
 ひとつ不安になったのは、景明がすぐ見つかるかどうかということだった。令は彼から「納涼祭で話そう」と言われただけで、いつどこで会うか、待ち合わせ場所は決めていない。これまでは漠然と、棟外へ出て自由行動になりさえすれば彼と落ち合える気になっていたが、一度に大勢が区域内を出歩くのだから、今更ながらそれは難しいように思える。けれど景明のほうも、もしもまだ自分と話したいと考えてくれているのであれば、外へ出たら率先してこちらを探してくれるのではないか。お互いがそうやって積極的に探せば、案外早く見つかるかもしれない……。
 そんな期待も令にはあった。そして、やはり漠然としてはいたが、きっと見つかるという自信も心のどこかにあった。
 授業が終わると同時に、棟内アナウンスがかかった。はやる気持ちを抑えきれず、すでに席から立ち上がりかけているクラスメイトもいたが、座って聞けと教官にたしなめられた。
 「えー、皆さん。本日はこれより、本島全域における納涼祭と致しまして、各々、自由行動となります……」
 湊の声が、やけに焦らすように響く。
 「繰り返しとなりますが、本居住区外への移動、および山中への出入りは固く禁じます。また棟内の廊下においては通常の規則どおり、静かに歩いて行動するように。皆さんのため店を出してくださった方々、準備をしてくださった方々、そして警備隊の方々を始め、関係者の皆様にご迷惑をかけないよう。引換券の使用は一度きりです、よろしいですね……では」
 アナウンスが切れた。教官が時計を見た。彼は湊のように厳格で、野太い声に威圧感を絶やさない大柄な教官だったが、人情味には厚いほうなのか、にやと笑って少年たちへ言った。
 「祭りだ。初めての奴もそうでない奴も、全員……ほどほどに楽しめ」
 皆の顔が、ぱっと明るくなった。
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