第39話

文字数 6,268文字

 地下への階段は、さほど長いものではないが、それでも先が見とおせないほど暗かった。注意をしていないと足を踏み外す。にもかかわらず電球のたぐいが付いていないのは、昔は燭台に灯をともし、それを手にして下りていくのが習慣であったせいだという。
 聖具室の扉には、鍵穴があった。大きな穴がふたつもあいていて、そこへ差し込む鍵ももちろん存在する。かつて、やはり燭台の灯りが使われていたころ、この扉は常に施錠されていた。だが今では、鍵がかけられてあることのほうが少なく、聖具室に限らず、どの部屋の扉も普段から解放されている。教会内の各部屋の鍵は、その時々の担当教官がまとめてふところに管理しているらしいが、日常的に施錠されるのは、現在では外から聖堂へ出入りするためのメインの大扉だけだった。
 令が扉を押しあける。黒い鉄製の取っ手は冷たく、ざらざらしていた。彼のあとに続いて、景明と、ほかにふたりの少年、計四人が中へ入った。
 スイッチをひねると、灯りが点いた。室内には、笠のついたライトがひとつ、天井からつり下がっている。だが、もういつ切れるだろうかと不安になるような弱々しい光量で、最後に入った少年が、怖くなったのか、体温を求めるようにそばにいた令へすり寄った。
 「だいじょうぶ?」
 訊くと、彼はこくんとうなずいた。
 この聖具室というのは、主に教会で使われる備品や、祭事用の特別な道具などがしまわれた部屋だという。話には聞いていたが、実際に入ったのは令は初めてだった。
 書斎のような部屋だった。それなりに広いが、広いわりに物がない。天井は低い。もっといろいろな品が、それこそ倉庫のようにごちゃごちゃと置かれているイメージを抱いていたので、彼は拍子抜けした。
 木製の、どっしりとした机と椅子。その一式が置かれてあるほうの壁の上部に、太い額縁に収められた何枚かの絵画。とても繊細なタッチで描かれてある。同じく木製と思われる、一方の壁の半分以上を優に占めた大きなキャビネットに、隅のほうには、そのキャビネットより高さのある重厚なクローゼット。そばに、映す気があるのかどうか疑いたくなるほど横幅の狭い、長さだけはあるが実用性に乏しそうな姿見。隣に、先端に十字架の付いた華奢な杖が立てかけられてあるが、それは姿見と同じくらいの長さがあって、目立つ。そして、棚に並べられたサイズの異なる燭台。それらは錆びた金色だったり、銅色だったり、黒だったりした。どれも相当な年代物らしく、見るからに古めかしい。
 華美な装飾などはなく、質素で、簡潔で、ただし威厳と風格があった。そして時が止まったかのごとく静かだった。ここは一階の聖堂の、さらに言うと、ちょうど祭壇の裏手の地下に当たる場所らしい。しかし窓もなく灯りも弱く、空気はひんやりと湿り、立っていると、自分が今どこにいるのか、内なのか外なのか、判断がおぼつかなくなってくる感じがする。
 「やろうか」
 最初に言ったのは景明だった。令は少し意外に思った。おとなしく控えめな景明が、率先して場を取り仕切るような発言をしたのが、印象とずれていたからだった。
 四人の少年はそれぞれに掃除を始めた。モップがけと、はたきをかけるのと、よごれの拭き取りとで作業を分担した。まめな清掃が入らないとはいえ、放置されてからまだ一週間と経っていないのに、キャビネットや棚にはすでにうっすらと埃が付いていた。あるいはひょっとすると、前回ここを担当した少年たちが、真面目にやらなかったのかもしれない。
 令は机を拭いて、椅子を拭いて、頭上の壁にある絵画を見た。それから思案して、拭いたばかりの椅子を持って移動させ、右端の絵の下に置くと、履き物を脱いだ。そして座面に立って腕を伸ばすと、思ったとおり額縁の上まで手が届いた。彼はそこを拭くついでに、一枚ずつ、近くから絵を眺めていった。どの絵にも、彼には及びもつかないような敬虔さや、神聖さのようなものが宿っている。触れるのは怖いというか、触れてはならない気がしたので彼は極力、丁寧に扱った。
 これらがどういう絵で、何を表しているのか、令は知らない。しかし、感覚で、何か非常に宗教的なものがモチーフにされている、ということは分かった。
 真っ白な翼を生やした天使みたいな人間や、見事な筋肉を惜しげもなくあらわにしている象徴的な人間。床まで届くゆったりとした綺麗な布を身に巻いて、なんとも言えない表情を浮かべてほほえんでいる人間の、深い瞳と淡い唇。豊かに伸びた金色に輝く髪。レースのようなひだに包まれた栗色の髪。目の覚める赤や青。色彩に富んでいて、あでやかで、神々しい。
 しかしそれらの人間より、彼は、彼らの周囲にまるで脇役のように細々と描かれた、草木や花や、果実のほうを、より美しくてすてきだと思った。近くで見てもほんもののようで、葉脈があって、花びらの揺らぎがあって、おいしそうな水気がある。似た絵柄は聖堂のステンドグラスにもあったが、これだけ繊細に描き込まれた絵となると、表現のされ方が全然違う。芸術的なのに、図鑑をひらいたように分かりやすい。
 彼はしげしげと見つめながら、観察をして、だれの作品だろう、いつ描かれたんだろうと思いながら額縁を拭いた。そのあいだ彼は終始、無言だったが、後ろのほうでは景明がほかのふたりの少年と話していて、彼らの小さな話し声は時折、耳に入ってきた。どうやらふたりは自分たちより年若のようだった。暗くって不気味だね……きみは怖くないの……ここは何をする部屋なの……これは何に使うの? ……などと、不安そうな口調で景明へ問いかけている。
 そのうち気になって、令は椅子から振り返った。ふたりは容姿から見て簡単に分かるほど、幼げで、通昭よりさらにあどけない顔立ちをした、そして大白よりさらに背の小さな少年だった。揃いの囚人服も、着ているというより着られているという感じで、ぶかぶかとしていた。栄養は足りてるんだろうかと令は心配しかけたが、考えてみればこんな体格の少年も区域内には少なくない。まだ少年ということを差し引いても、それにしたって細すぎるのでは、と感じるときは確かにある。しかし食べているものは同じなのだから、そのうち力がついて成長するんだろうと令は思い直し、景明へ視線を流した。彼はいつものような微笑で、床に座り込んでしまっていたふたりを前に、ひとつずつ質問へ答えてやっていた。
 「暗いけれどね、慣れてしまえば、怖くないものだよ。明るく感じるようになる。……この部屋はね、普通は僕たちでなくて、さっき僕たちへ話をしていった神父様がいたでしょう。ああいう人がね、儀式の前に入ってきて使うところなんだ。……そうだよ、儀式のための道具……特別な儀式になるとね、ミサって呼ばれるらしいけれどね……いいや、この教会に神父様はいないよ。僕たちが来るとき以外は、いつだって無人なんだ。だからあの人も言っていたでしょう、もっとここを使うようにしたほうがいいだろう、ってね……。……え? きみたちは、ここが好きじゃないの? ……そう。……僕? 僕は……嫌いではないよ、だって静かでしょう……」
 景明の穏やかなトーンは、まじないのように令の頭へ響いてきた。もっと聞いていたいと思ったとき、なぜか足の力が削がれ、身のバランスが崩れそうになり、彼はえんじ色の座面を踏みしめた。
 景明が顔を向け、言った。
 「令、気をつけて。落ちないようにね」
 彼はキャビネットに寄りかかり、椅子の上の令を、正面から見ていた。手にははたきを持っていた。令が首を動かして応じると、ふたたび目線をふたりの少年へと戻した。彼にしては珍しく、掃除は再開させないで、彼らとの会話を続けるつもりらしい。
 まだ話すんだ……と、令はかすかに思った。
 三人を放っておいて、令は残りの額縁を拭いていき、拭くという名目で絵を眺め、すべてを眺め終わって満足がゆくと、最後の絵の前から椅子を下りた。そしてよいしょと持ち上げ、机に戻すと、今度は意識を隅のほうのクローゼットへ向けた。
 三人をちらと見たあと、令はそちらへ歩いていった。まずは姿見のそばにある、巨大な十字架の付いた杖に目を留めて、試しに取ってみる。すると、やたらに胸の内がくすぐられた。人智を超えた魔法の力を、自分が得たような心地になった。刀剣のように振ったり、傾けたりして遊んでみたくなったが、壊すと大変なことになるので我慢して、もとの位置に立てかける。それから鏡を横目に通り過ぎ、クローゼットの前に立った。
 何着しまっておけるのだろうという、大きなクローゼット。意匠はキャビネットや机と似ている。下部には引き出しも付いていたがそれは無視し、彼は右扉のノブに手をかけ引いてみた。やや擦れるような抵抗はあったが、大した音も鳴らずすんなりあいた。年月を経た埃の匂い。しかし即座に目に飛び込んできた、中にずらりとかかった布地の列に、彼は息をついた。
 女性が着るワンピースかな、それともドレスかな、と最初に思った。だが月小路の着ていた衣服がたちまち頭に浮かんできて、形はそれに近いか、あるいはほぼ同じに見える。加えてここは聖具室なのだから、考え合わせると、ではこれらも全部、彼のような神父が身にまとうものかもしれないと気がついた。
 色は白が多かった。それから緑、赤、紫、黒。ピンクもある。生地は薄かったり分厚かったり、中には十字架の刺しゅうを施された豪華なものもあって、それは魔法使いが着ていそうなローブに見えた。これをはおって、さらに先刻の杖を持ったら、ますます魔法使いらしい見栄えがするだろう……魔法使いは十字架を持たないだろうけれど……と想像しつつ、令はそれらの衣服を指でかき分けていく。
 端から端までざっと確認して、かかっているものがすべて衣服であることが分かると、彼は次に、あけたばかりの扉の内側へと目をやった。やはりさまざまな色味の布がある。しかしこちらは、服ではなくネクタイのような、だがどう見てもネクタイよりは長い。そしてネクタイとは異なり、全体に同じ太さをした形状の布が、突き出した横木に何本も重ねられてかかっていた。
 衣服と同色のほか、こちらには青や金色も交じっている。令は青の一本を選び、持ち上げてみた。
 ネクタイではないなら、帯だろうか。しかし着物の帯にするには細すぎるような……両端には十字架の刺しゅう。今度はこれ一本に限らず、刺しゅうはほかのものにも付いている。いずれにしても首か腰か、頭か、身体のどこかに巻いて使う布らしい。だが巻いて、そして結ぶものなら結んだ跡が残りそうなものだが、どこにもしわが寄っていないので、どうだろう、結ばないのだろうか。あるいは使うたびアイロンでもかけるのか。
 令がそこまで思ったとき、名を呼ばれたので、彼は布から手を離した。呼んだのは景明で、令が顔を向けてみると、彼はふたりの少年のすぐそばに立っていた。三人でずっと話を続けていたらしい。だが令には、自分の思考と興味にばかり浸かっていたせいか、部屋の隅へ移動してからは、彼らの囁き声は聞こえていなかった。
 「それじゃあ、ふたりとも。行く前にひとつ、お願いだよ」
 景明は言った。
 「上でだれかに尋ねられても、忘れずこう言うんだよ。聖具室にはあとふたり残っていて、人数は足りているから問題ありません……いいね?」
 令は、景明が何を言い出したのか分からず、どういうことかと目を丸くした。だがふたりの少年はしっかり首肯し、笑顔で景明にお礼を言うと、止める間もなく部屋の扉をあけて出ていってしまった。彼らが持っていたはずのモップや布巾は、景明のはたきとともに、床に転がっていた。
 扉が閉められた。閉めたのは景明だった。階段を上っていくふたりの足音がなくなると、室内は完全に静まり返った。
 令は当惑し、直線上に景明を見た。
 景明が言った。
 「ここではなくて、一階の明るい場所がいいって、あの子たち、僕に話したものだから。それじゃあ、ここは僕たちだけでいいから、ほかのところを手伝っておいでって、言ってやったんだよ」
 「そう。……そうなんだ」
 「うん」
 「平気かな」
 「平気だよ。分担を決めたのは、先生たちでも、あの神父様でもないからね」
 「そうだけど、でも」
 「令」
 景明は令をさえぎり、扉から彼のいるほうへ近づくと、あけ放しのクローゼットを一瞥して言った。
 「そんなふうに、何を見ていたの」
 「ああ、これ? ……これさ、この中……」
 令は答えかけたが、吸い寄せられるように瞳は景明を見ていた。それで言葉が途切れた。
 曖昧な沈黙が続いた。令は思うところがあって、慎重にこの状況を整理し始めていたが、急に景明がつぶやいたのでそれも途切れた。
 「きみと、僕。ふたりきりだね」
 令は不意打ちの衝撃を受けた。信じられないことが起きた、という意味での衝撃だった。ふたりきり、という日常ほとんど使わない言葉が、このとき強烈な甘みを伴って彼の脳を満たした。それは魔法をかけるためのまじないのように彼には聞こえたが、しかしそのまじないを唱えたのがほかでもない、目の前に立つ景明だったせいで、彼は動悸を鎮めるべく自身の胸に手を当てた。指の先に喪章のリボンが触れた。
 令は幾度か深呼吸をして、やっと答えた。
 「だれも、いないね」
 景明はほほえんだ。
 「うん。僕たちだけだよ」
 「ふたりきり」
 「うん」
 「だれも見てないんだ」
 「そうだよ。令」
 「すごい……こんなことあるんだ、だって……」
 「信じられない?」
 「うん。だって、クラスも部屋も違うのに。嘘みたい」
 令は小声に言った。ここは地下の一室で、四方は壁に覆われている。窓はない。扉は閉め切られている。だれの姿も見えない。だれの目も届いていないし、監視もされていない。密室。
 初めてのことだった。あり得ない、とても望めないと思われた状況だった。実現したのは偶然と、運と、そして何のおかげだろう。
 令は尋ねた。
 「きみは、策略家なの?」
 景明は首をかしげた。
 「策略家?」
 「そうだよ。この前、授業で習ったよ。相手に知られないうちに、その人を自分の思いどおりにして、うまく目的を達成する人。策略家は、すごく頭が良くて、優秀だけど、何をするか分からない。油断のならない人だって」
 「令は、僕がそうだって言うの?」
 「違うの? あの子たちを上に行かせたの、景明でしょ?」
 「そうだね。令は、嫌だった?」
 「嫌じゃないよ。嫌じゃないけど……ただ、びっくりして……息が」
 「苦しいの?」
 「違うよ、苦しいんじゃなくて」
 「令」
 呼ばれて、令はまた深呼吸をした。それから持っていた布巾を見下ろしたが、それは先刻、額縁を拭いた際の埃でよごれていた。
 彼が目を上げたとき、景明は言った。
 「僕。もうどうでもいいよ。掃除なんて」
 「景明……」
 「令、きみは?」
 彼は真っすぐ令を見つめていた。表情はなんとも言えないもので、令が眺めてきた絵の、乳白色の肌をした人間の、あのほほえみにそっくりだった。
 令の手から布巾が落ちた。
 「俺も」
 彼は言った。
 「そんなのどうでもいい」
 すでに景明は、令へ向け歩き始めていた。急ぎ足だったが令は待ちきれず、しかし一歩を踏み出すための時間さえ惜しく、彼は近づいた景明の両手を握った。
 ふたりは見つめ合った。そして無言のうちに、キスを始めた。
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