第7話

文字数 4,629文字

 その日、令が向かったのは畑ではなかった。彼が割り当てられたのは農作業ではなく、区域内の北にある神社の掃除だった。少年たちは、その週、あるいはその日の労働時間における自分の担当がどこで、何であるかを、交代する前日の夕食時、食堂で声を張り上げる教官からのアナウンスによって知る。そういうとき、教官は常に少年たちを囚人番号で管理し、何番から何番までといったふうにまとめて呼ぶので、彼らは最低でも自分の番号は覚えていなくてはならない。また、その夜のアナウンスを聞き逃した、あるいは聞いてはいたが忘れてしまって、かと言ってほかの少年に尋ねて確認することもできないという状況に、もしも陥った場合は、アナウンスと同じ内容が手書きの張り紙となって、メイン・エントランスの受付のそばの壁に掲示される。なので翌朝、起床のあとで教官に申し出て、急いでそちらを見に行くこともできた。
 ちょうど当番が代わった日の午後だった。7月の下旬で、よく晴れて、暑くて、しかし令にとっては外地に比べるとよっぽど炎天ではなかった。風がそよぐと心地よかった。
 クラスメイトの禄太も、令と同じ掃除場所だった。禄太は畑仕事がうまくて、草刈りもよくできた。飼育小屋にいる鶏の群れに物怖じせず、手なずけるのも早かった。令は一度、畑で一緒になったとき、(うね)を立てようと奮闘しているのを彼に見られていて、「下手くそ!」とからかわれたことがある。そのとき令は、流れる汗をぬぐいながら、それならどうすればいいのか、正しい鍬の使い方を教えてほしいと彼へ頼んだ。しかし彼は「令の下手くそ!」と言うばかりで、令のはす向かいから、自分のほうはひとりでどんどん土を盛り上げていく。それを眺めていた令は、暑さと疲労にやられていたせいもあったが、彼へ対し「もういいよ!」と叫び、怒った。珍しく感情を高ぶらせたせいか、令の視界は揺らいだ。すると禄太は、何か思うところがあったのか、急に心を入れ替えたみたいに素直に謝って、自分の立てていた畝を飛び越えて令のそばまで来ると、
 「下手くそ。こうしてやるんだよ。馬鹿――」
 と言いながら、令の分を手伝い始めた。
 「畝は、初めはだれでも曲がっちまうもんなんだ。俺だって、そうだった。だから落ち込むな」
 土を耕しながら、禄太はぶっきらぼうに言った。令が手を止め、「ありがとう」と言うと、彼は令のほうを向いて晴れたように笑った。
 以来、令は、この禄太という少年とも頻繫に話すようになった。禄太は、クラスの中では勉強はできないほうだったけれども、学ぶ意欲があった。彼の熱心な授業態度、机から身を乗り出すようにして黒板の文字を読もうとする、その横姿を、令は自分の席から見ることができた。禄太と囁き合うと、彼の言葉の調子は時折、ひどく荒っぽくなってゆくことがあって、うっかり聞いていると、何を言っているのか分からないときがある。それが方言なのか違うのか、令には分からない。しかし禄太は、何をやるにも粘り強い。退屈な授業にも、重労働にもへこたれない。そして意外と面倒見の良い少年でもあった。
 神社を掃除するとき、少年たちは全員、初めに手水舎(ちょうずや)で身を清めてから作業に取りかかるのが規則だった。令は禄太やほかの当番の少年たちと順番に列を作って、手や口をすすぎ、使った柄杓(ひしゃく)は元どおり丁寧に置いて、二番目の鳥居をくぐった。
 古い神社だった。居住区Aの北側は、なだらかに上っていく傾斜が、平地から仰ぐとちょっとした山のように見える深緑の一帯で、それを越えた反対側には、居住区Aと外界とを区切る、例の灰色の壁がそびえている。だが少年たちには山を越える機会は与えられておらず、また山中を自由に歩き回ることもできない。山裾の一帯はほとんどが開墾された田畑で、それ以外では大木に覆われた森がほとんど手つかずのまま広がっているが、神社はこの森の中、山で言うとその中腹あたりに建っていた。傾斜に沿って建てられているので、一番目の鳥居にたどり着くためには、まず長い階段を、さながら登山のように一生懸命、上っていかなくてはならない。この最初の階段の時点で、それがもう相当に古いものであることは、石段の風化の具合や、こびりついている苔ですぐに分かる。参道の両側には高い樹木が立ち並び、その先の正面奥に色あせたような木造の社殿があるが、どれも立派な造りで、時を経た静かな威厳を常にたたえて、掃除のたびに訪れる少年たちを出迎える。
 いつ建てられた神社なのか、紹介板のたぐいはなく、またここには社務所がなく神職も不在なので、その由緒には謎めいた部分が多いらしい。「気づいたときにはあった」という何の説明にもなっていない説明が、脈々と継がれていて、だから島の大人に詳細を尋ねても、満足に答えられる者は現在では皆無だという。手厚く管理をされているわけではないから、修復の痕跡もなく、いつ建材が朽ち果ててもおかしくはないだろうに、なぜだかそうならない。古いが、いつまでも古いだけで、鳥居も社殿も、周囲の大木と同じようにかくしゃくとして建っている。少年たちは中へ入れないが、閉ざされた門の向こうには本殿がある。しかし沿革が不明なので、祀られているのがどんな神様なのかすら分からない。本殿の意匠から判断すると男神らしいが、定かではなく、文字どおり「神秘的な」神社だった。
 二番目の鳥居をくぐった先で、少年たちは、主には年長者が集まって、ああでもないこうでもないと話し合いながら役割分担を決めた。農作業と違って、神社と教会の清掃には監督の教官がつかない。そのことは、多くの少年たちのあいだで、週に一度行われるこの二ヵ所どちらかの清掃に当たることは、日々の労働時間における一種の息抜きだとされて、農作業よりずっと人気があった。特に神社は、山中にあるのでいつも涼しく、樹木の梢にさえぎられて陽の光もあまり差してこないので、今のような時季には喜ばれる。見張りの神職もおらず、深閑とした境内にいるのは自分たちのみとあっては、ついつい作業を怠けたり、遊びだしたりする少年が続出しそうなものだが、実際にはそうした行為は目立たない場合がほとんどだった。というのは、教官たち、たとえば主任である湊は、
 「我々が監督せずとも問題はないのです」
 と真顔に言う。
 「なぜかって、聖域へ足を踏み入れてしまった皆さんの言動はすべて、あちらの御祭神が逐一、ご覧になっています。我々にはその名も知らぬ、いにしえより本島、本居住区へ鎮座なさっている神々ですから、彼らの御力がどのようなものか、だれにも分かりません。
 我々が皆さんを見張らずとも、不真面目な者には罰が下ります。必ず下ります。あそこはそういう審判の場です。ですから、我々は心から安堵して、全幅の信頼を彼ら神々へ置いて、皆さんをどなたの監督も付けずに送り出せるのですね……」
 少年たちは、教官からこういう主旨のことを何度も言い聞かされ、それを普段はほんとうだと信じない少年たちも、いざ当番が回ってこの神社へやってくると、どこか心の端で思い出して薄気味が悪くなり、結局、濡れ布巾やほうきをしっかりと握ってしまうのだった。それに、仮に「神の天罰」が下らずとも、もっと実質的に、あとから抜き打ちで確認にやってくるかもしれない教官に清掃の不備を発見されると、それは天罰の代わりに規則違反の罰となって、全体責任として少年たちへ降りかかるわけだった。
 年長者の話し合いの結果、令はそのようすをやや離れたところから見ているだけだったが、彼の分担場所は境内の片隅にある池の回りになった。池には恐ろしく大きな、太った、長老みたいな鯉が何匹かいて、繫茂(はんも)する水草のあいだを器用に泳ぐ。池はお世辞にも綺麗とは言えず、むしろ濁っているのに、悠然と泳ぐ。
 令はこの鯉を好きではなかったが、禄太は彼の担当を羨ましがって、
 「あいつら、またでっかくなってるかもな。そんなら、食いごろだ。はらわた取っちまえ」
 と、令からすれば洒落にならないことを言った。令が黙っていると、彼は「冗談だ馬鹿」と笑って、令の肩をどんと叩き、拝殿のほうへ走っていった。彼の担当場所だった。
 少年たちは各々に散っていく。令はひとりで池へ歩き、途中で用具入れから竹ぼうきを取った。
 晴天だったから、見上げると、木漏れ日が明るかった。そしてやっぱり植物と、土の匂いがする。これから夕刻へ向かっていくにつれ、その匂いが濃くなることを令は島へ来て知った。緑の夏の匂い……と思い、彼は息を吸い込んだ。
 少年たちの大半は、参道周辺と社殿の清掃に取られるので、池の周りにいるのは令だけだった。さっき分担決めの結果を聞いたとき、同じ担当場所になった少年が、確かもうひとりはいたように令は記憶していたが、その少年らしき姿は見えない。彼は構わず池のそばへ寄り、鯉を探した。
 水草の量が、前に見たときより増えているように思えた。それが池にとってよいことなのかどうか、令は知らない。そして数匹の鯉は相変わらず、太ったまま泳いでいた。一瞬、死んで水面に浮いていたらどうしようと恐れたが、杞憂だった。紅白の美しい模様ではなく、ダークグレーが一色きりの地味な鯉。しかし禄太は、そういう色の鯉だから食用になるのだという。
 池の奥には、(ほこら)がある。そこまで、池の飛び石をつたっていけるようになっている。祠の先は森。
 令は持っていた竹ぼうきを使おうとしたが、夏だからか落ち葉はほとんどないし、ここには観光客も参拝者も来ない――というより、いない――から、ゴミも落ちていない。掃き掃除よりも、必要なのは雑草取りのほうらしい。
 令はちょっと考え、飛び石を渡って池の反対側へ行った。それから祠の周囲にわずかに落ちている葉を掃いてどかし、足もとに生えている雑草を引き抜いてみる。土が柔らかいので根元からうまく抜けてくれると分かると、彼はしばしそれに専念した。そのうち背後にあった祠の脚に、知らずに腰をぶつけて驚き、振り返りざま祠を見上げた。何が祀られているのか分からないが、分からないなりに悪いような気になって、彼はそっと立ち上がると、土の付いた指を払った。
 風が吹き、境内をざあっと抜け、木々の揺れ合う音がした。令は祠の裏手に生えている木に、そのとき、何か小さな実がたくさん付いているのに初めて気がついた。何だろうと思って近寄ってみると、木は令の背丈を二倍したほどで、その抹茶色の、一枚一枚が硬そうな葉の下から赤い実がぶら下がっている。つるりと丸く、さくらんぼよりは少し小さく、しかしさくらんぼよりも赤い。そばで見るほど赤いが、毒々しい色味ではない。
 食べられるんだろうか?
 令は実のひとつを指でそっとつまみ、押してみた。葉は硬そうなのに、実のほうはあまり硬くない。ほどよい弾力があって皮は薄そうで、それは中身の柔らかさを令に想像させるには十分だった。さすがにかじってみる勇気はなかったが、ひょっとすると、おいしいのかもしれない。
 ひと粒くらい、だいじょうぶ。
 彼は考え、心のまま、そのひと粒をつぶしてみたいという欲求をかなえようとした。種があるなら見てみたかった。それでひとまず実をつまむ指に力をこめ、枝から引きちぎろうとしたのだが、そのとき。
 「駄目だよ」
 声が飛んできた。令は実からぱっと指を離し、声のしたほうを向いた。
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