第17話
文字数 2,578文字
他人の舌に自分の舌で触れてみたのは、令には生まれて初めてだった。自分のものでない舌は、彼が考えていたよりも生温かくぬるりとしていた。彼は驚いたが、では景明も、自分が驚いているのと同じように、こちらの舌の感触に困惑しているのだろうかと思った。
令はふっと舌を離した。それは一瞬間の交わりに過ぎなかったが、その一瞬のあいだに彼は驚いたり不安になったり、高ぶったりして忙しかった。ようするに令は景明の反応が見たくて舌を離したわけだが、ふたりの黙りこくった舌先は、景明が令の袖を引いたことで、ふたたび重ねられた。
初めのうちは、重ねてどうするでもなく、文字どおり舌と舌を合わせていただけだった。特定の動物に見られるような同種間の友情のしるし、あるいは親愛を示すための行為と似ていた。しかしそうして合わせているうち、ふたりはどちらともなく、互いのを舐めてみるようになった。すると、くすぐったい。令はふふと喉の奥から笑みを発して、また舌が離れた。
「なに、今の。なんかぞわっとした」
景明は吐息をついて、訊いた。
「嫌だった?」
「ううん。違うよ、くすぐったかっただけ」
「それなら、またやろうよ」
「今の?」
「うん」
景明は舌先を伸ばす。令はくすぐったがって何度か肩をよじった。景明がそれを見て笑った。
だがやがて、いくらか経ったあと、ふたりはしっとり無言になった。令は、つい先ほどまで瞬きを繰り返していた目をいつの間にか閉じていた。景明と交わしているこの行為が、知るところの聞くところによる「キス」であることに令が気づいたのは、遅くもちょうどこのときだった。それまでは、キスという既知の単語でさえ彼の頭に上ってこなかった。それは彼にとって単なる性的な知識の、それも曖昧な知識の一端でしかなく、自分が体験するなどとは考えてみたことがなかった。
さらにいくらかが経ったようだった。
令は景明の口の中で、自分の舌を動かすことを覚えた。そうすると息を吸うのが難しかったが、そのときの景明の不規則な吐息を聞いているのが、大変に心地いい。
目を閉じているので視界は完全な闇だったが、令は景明の背に右腕を回し、左手で自分を支えて、全身がふつふつと沸き立つような、異様な熱流に身をゆだねていた。
そのうち、令の首筋を冷や汗がつたった。
脚の付け根がおかしくなるようだった。
何か本能的な畏怖を感じ、令は我に返って顔を離した。
浅い呼吸を繰り返して、令の口もとで景明が呼んでいる。
「令……令、ねえ……」
「景明。ごめん……」
「なぜ謝るの」
「分かんない……」
「謝ったら、嫌だよ」
景明はほほえんだ。
「よさないで、令」
彼は令の両肩に手をかける。令の首をまたひと筋、たらりとつたうものがある。
景明は令の唇へ、自身のものを押し当てた。令は、舌を差し入れることが今度ははばかられて、自分からすぐ離れた。すると名残り惜しくなって、もう少し、でも駄目だ、と左右に振れる思考に翻弄されながら迷う。
迷うあまり、令は衝動的に景明の唇へ自身のものを押しつけた。そして放した。景明は令とまったく同じことをやり返した。ふたりは地に置いた右手を固く握り合い、互いの唇を受ける。それを繰り返す。
令は次第に、ここがどこで、自分が何をしているのか分からなくなってきた。はっきりしているのは、舌を入れられない、いや入れてもいいのかもしれないが、入れないほうがいいだろうと内に思う悩ましさと、景明の重みと体温だった。
「令……令」
「なに?」
景明が突然、左腕で令へ抱きついた。どくっ、どくっと猛烈な勢いで、令の皮膚の下を大量の血液が流れていく。令は言葉が出ない。
彼の背後に土を踏む足音が聞こえたのは、まさにその微妙な、言うなれば重大局面のときだった。
「ふたりとも。何をしてるの?」
令は飛び上がって驚いた。そして振り向いた。振り向き、さらに驚いた。
暗がりに少年が立っている。それはいい。しかし令を驚かせたのは、なんとその少年の顔は人間らしい見目形をしていなかった。身体は人間なのに、顔は人間でないのだった。
頭からぴんと突き出たふたつの耳。ぽっかりと空いたふたつの眼窩。どちらも木の葉を無理やりに釣り上げたような、不気味な形をしている。
いやに丸い鼻先……。
令は瞬間、背筋に氷水を浴びせられたようになった。だがそれがただの作り物の仮面だと分かったとたん、気抜けして胸を押さえた。よく見ると狐の面らしい。顔全体を覆うものではなくて、少年の鼻より下、口もとはあらわになっている。
その少年の背中から、もうひとり別の少年がひょっこり姿を現した。こちらは何も着けていないが、暗いためか素顔がよく分からない。しかし狐面の少年より上背がある。
令の肩越しに、景明が、この新たに出現したふたりの少年たちを見つめていた。その左腕は、放す気などないふうにまだ令のもとにあった。
令は、狐面の少年の声には確かな覚えがあった。だが面に驚いたはずみと、そのあとの安堵感とで表層の記憶を持っていかれてしまい、とっさに思い出せない。しかし彼はその声を知っている。
だれだったか。
闇に紛れ、四人は無言に見つめ合った。その沈黙のあいだに、令はようやく事の気まずさを理解し始めていた。このふたりはいつから自分と景明を見ていたのだろうと考え、その意味でまたも背筋がひやりとした。
ふたりの少年は、こちらがいる陰のほうへ歩いてきた。そして令と景明の前に立ったとき、おもむろに景明が訊いた。
「きみたち、だれ?」
すると狐面の少年が言った。
「僕だよ、景明」
とたんに令は、少年がだれであるかを理解した。
「僕が、令から預かった手紙を万李夢へ渡したのさ」
少年は得意げに言う。
「仲介役を引き受けたんだよ。だからさ、今きみが令と内証でそうしているのも、僕があのとき一役買ったからなんだ。これで分かったよね」
少年は唇を弧にして、隣に立つもうひとりの少年へと顔を向ける。そしてその少年の腕を引くと、右手で狐面をがばと取りながら、楽しくて仕方がないように言った。
「僕たちもまぜてよ。きみも一緒だよ。ね……久人」
面を外した治が、ふわふわと笑っていた。その隣で久人が、令と景明を交互に見下ろし、鷹揚に尋ねた。
「座ってもいいかな」
令はふっと舌を離した。それは一瞬間の交わりに過ぎなかったが、その一瞬のあいだに彼は驚いたり不安になったり、高ぶったりして忙しかった。ようするに令は景明の反応が見たくて舌を離したわけだが、ふたりの黙りこくった舌先は、景明が令の袖を引いたことで、ふたたび重ねられた。
初めのうちは、重ねてどうするでもなく、文字どおり舌と舌を合わせていただけだった。特定の動物に見られるような同種間の友情のしるし、あるいは親愛を示すための行為と似ていた。しかしそうして合わせているうち、ふたりはどちらともなく、互いのを舐めてみるようになった。すると、くすぐったい。令はふふと喉の奥から笑みを発して、また舌が離れた。
「なに、今の。なんかぞわっとした」
景明は吐息をついて、訊いた。
「嫌だった?」
「ううん。違うよ、くすぐったかっただけ」
「それなら、またやろうよ」
「今の?」
「うん」
景明は舌先を伸ばす。令はくすぐったがって何度か肩をよじった。景明がそれを見て笑った。
だがやがて、いくらか経ったあと、ふたりはしっとり無言になった。令は、つい先ほどまで瞬きを繰り返していた目をいつの間にか閉じていた。景明と交わしているこの行為が、知るところの聞くところによる「キス」であることに令が気づいたのは、遅くもちょうどこのときだった。それまでは、キスという既知の単語でさえ彼の頭に上ってこなかった。それは彼にとって単なる性的な知識の、それも曖昧な知識の一端でしかなく、自分が体験するなどとは考えてみたことがなかった。
さらにいくらかが経ったようだった。
令は景明の口の中で、自分の舌を動かすことを覚えた。そうすると息を吸うのが難しかったが、そのときの景明の不規則な吐息を聞いているのが、大変に心地いい。
目を閉じているので視界は完全な闇だったが、令は景明の背に右腕を回し、左手で自分を支えて、全身がふつふつと沸き立つような、異様な熱流に身をゆだねていた。
そのうち、令の首筋を冷や汗がつたった。
脚の付け根がおかしくなるようだった。
何か本能的な畏怖を感じ、令は我に返って顔を離した。
浅い呼吸を繰り返して、令の口もとで景明が呼んでいる。
「令……令、ねえ……」
「景明。ごめん……」
「なぜ謝るの」
「分かんない……」
「謝ったら、嫌だよ」
景明はほほえんだ。
「よさないで、令」
彼は令の両肩に手をかける。令の首をまたひと筋、たらりとつたうものがある。
景明は令の唇へ、自身のものを押し当てた。令は、舌を差し入れることが今度ははばかられて、自分からすぐ離れた。すると名残り惜しくなって、もう少し、でも駄目だ、と左右に振れる思考に翻弄されながら迷う。
迷うあまり、令は衝動的に景明の唇へ自身のものを押しつけた。そして放した。景明は令とまったく同じことをやり返した。ふたりは地に置いた右手を固く握り合い、互いの唇を受ける。それを繰り返す。
令は次第に、ここがどこで、自分が何をしているのか分からなくなってきた。はっきりしているのは、舌を入れられない、いや入れてもいいのかもしれないが、入れないほうがいいだろうと内に思う悩ましさと、景明の重みと体温だった。
「令……令」
「なに?」
景明が突然、左腕で令へ抱きついた。どくっ、どくっと猛烈な勢いで、令の皮膚の下を大量の血液が流れていく。令は言葉が出ない。
彼の背後に土を踏む足音が聞こえたのは、まさにその微妙な、言うなれば重大局面のときだった。
「ふたりとも。何をしてるの?」
令は飛び上がって驚いた。そして振り向いた。振り向き、さらに驚いた。
暗がりに少年が立っている。それはいい。しかし令を驚かせたのは、なんとその少年の顔は人間らしい見目形をしていなかった。身体は人間なのに、顔は人間でないのだった。
頭からぴんと突き出たふたつの耳。ぽっかりと空いたふたつの眼窩。どちらも木の葉を無理やりに釣り上げたような、不気味な形をしている。
いやに丸い鼻先……。
令は瞬間、背筋に氷水を浴びせられたようになった。だがそれがただの作り物の仮面だと分かったとたん、気抜けして胸を押さえた。よく見ると狐の面らしい。顔全体を覆うものではなくて、少年の鼻より下、口もとはあらわになっている。
その少年の背中から、もうひとり別の少年がひょっこり姿を現した。こちらは何も着けていないが、暗いためか素顔がよく分からない。しかし狐面の少年より上背がある。
令の肩越しに、景明が、この新たに出現したふたりの少年たちを見つめていた。その左腕は、放す気などないふうにまだ令のもとにあった。
令は、狐面の少年の声には確かな覚えがあった。だが面に驚いたはずみと、そのあとの安堵感とで表層の記憶を持っていかれてしまい、とっさに思い出せない。しかし彼はその声を知っている。
だれだったか。
闇に紛れ、四人は無言に見つめ合った。その沈黙のあいだに、令はようやく事の気まずさを理解し始めていた。このふたりはいつから自分と景明を見ていたのだろうと考え、その意味でまたも背筋がひやりとした。
ふたりの少年は、こちらがいる陰のほうへ歩いてきた。そして令と景明の前に立ったとき、おもむろに景明が訊いた。
「きみたち、だれ?」
すると狐面の少年が言った。
「僕だよ、景明」
とたんに令は、少年がだれであるかを理解した。
「僕が、令から預かった手紙を万李夢へ渡したのさ」
少年は得意げに言う。
「仲介役を引き受けたんだよ。だからさ、今きみが令と内証でそうしているのも、僕があのとき一役買ったからなんだ。これで分かったよね」
少年は唇を弧にして、隣に立つもうひとりの少年へと顔を向ける。そしてその少年の腕を引くと、右手で狐面をがばと取りながら、楽しくて仕方がないように言った。
「僕たちもまぜてよ。きみも一緒だよ。ね……久人」
面を外した治が、ふわふわと笑っていた。その隣で久人が、令と景明を交互に見下ろし、鷹揚に尋ねた。
「座ってもいいかな」