第2話
文字数 11,689文字
少年の名は、令 といった。このたびの新元号と重なったのはもちろん偶然だったが、これで一生、自分の名を聞くたび、聞いた人の脳にあの元号が連想されるのかと思うと令には憂鬱だった。しかしその憂鬱も、今後おそらく芽生える予定はないと彼は踏んでいる。彼の名は令だが、ここで彼の名を優しく気にかけ、いろいろな感想を述べては談笑に花を添えようとする出来た大人は皆無ではないだろうか。そういう和やかな人付き合いができない――あるいはできなかった――から、彼らは皆ここにいるのではないのか?
順番に船から降りて古びた桟橋へ立ったとき、まずなんとも言えない嫌な匂いが令の鼻腔を突いた。魚が死んで腐った匂いだと彼は勝手に解釈し、顔をしかめる。
振り返れば一面、海。これは何色と言えばいいだろう。南国の透きとおったブルーではない。さびついた、緑青を溶かし込んでかき混ぜたような重い色味。はるか遠く、水平線まで垂れ込めた薄雲は、空と同化して太陽を隠し、石灰をまき散らしたかのような白光は、長く見つめようとすると目がちかちかした。
初夏だったが、風が吹きつけると寒かった。潮のせいか、妙にべたつく。陽光を反射してきらめく暖かい海なら、きっとこんなふうに粘着質な風を吹かせたりはしない。
令は手の甲を舐めた。曖昧に塩辛い。
「おい。早く行け。いつまでも突っ立ってるな邪魔だ」
船員の男にどつかれ、令はよろめいたが、無言に歩き出した。前方には、同じように桟橋を岸へ向け進む少年たちの後ろ姿が見える。ざっと数えて10名いるか、いないか。どの少年も令とほとんど年齢は変わらないようだが、彼らが全員、男児であるということ以外、正確なところを令は知らない。
桟橋はずいぶん傷んでいるようで、無造作に敷かれた木材は白茶けた色をして、歩くごとに軋るのが不穏だった。足もとの木板と木板の隙間をのぞくと、眼下に濁った海水が見えた。令は慎重に歩を進めながら、岸辺に待ち受ける男たちの一団を視界に収める。早くしろと桟橋へ向け口々に叫ぶ、甲高い声。彼らは一様に黒っぽい詰襟の制服を着て、黒い帽子をかぶって、まるで警察隊のように整然として少年たちを急かしていた。
そのうち、「のろのろするな、走れ!」という大喝が響き、少年たちは底が抜けそうな橋の上を走らされた。足の重みに反応してぎしぎしとうめく木の板を、令は飛ぶように走って、彼は背後の海を振り返らなかった。
待っていた男たちは岸辺へ着いた少年から横一列に並ばせた。全部で8人。令は最後だった。あらためてよく見ると、やはり男たちは警官に似た身なりをしていた。制服の上着に、首から下へ丸い金ボタンがずらりと付いている。腰から何か提げているのは短刀だろうか。柄の部分が幾人かの脇腹から前へ突き出ている。帽子のせいで表情はよく分からないが、どの男もそう年は経ていない、青年風の立ち姿だった。もっとも年長とみえた中央に立つ背の高い男でも、せいぜいが30年配といった印象。
その男は一団のリーダーなのか、ひときわの威厳をみなぎらせて一歩前へ進み出ると、眼前に並ぶ少年たちを端から端までじろりと見渡した。男は隣に控えていた仲間のひとりへ、これで全員だなと小声に尋ね、仲間が答えたのにうなずきを返し、少年たちへ向き直ると居丈高に言った。
「では行こう。貴様ら列を乱すな。妙な真似をしたらその場で首を飛ばす。……連れていけ」
男は顎でしゃくって仲間をうながす。すると一団の中から数名が近づき、音もなく抜刀した。突然のことだった。抜き身を目の当たりにした少年たちのいくらかは怯えたふうにあとずさったが、彼らは刀身で少年らを脅しつけ、早く歩け、よそ見をするなと命じる。列の端にいた令は、今度は刀の柄で背中を小突かれ、痛みをこらえながらに追い立てられた。
出迎えのあいさつはなく、説明もなかった。降り立った先の景色を眺めるいとまも与えられなかった。ここにいる大人から温かい歓迎が受けられる未来を、しかし、令を含めた少年たちのだれひとりとして思い描いてはいなかったが。
周囲を制服姿に囲まれ監視を受けながら、しゃべらず、前だけを見て歩くよう少年たちは言われた。好奇心から首を回そうとすると刀の切っ先が向けられ、もう死にたいのかと訊かれる。実際、そう尋ねられて、いいえと声を震わせて答えた少年を令は列の最後尾からとらえていて、自分はああはなるまいと決めていた。男たちは長靴みたいな黒いブーツを履いて、それがざくざくと地面の砂利を踏む、そろいの足音が響く。
南国の海ではないからか、少なくとも令の視界の中に砂浜は映らなかった。砂の代わりに大小の石ばかりが転がって、そこに折れ曲がった無数の木枝や腐食した幹が倒れていて、冷たい、寂寞とした光景。油断をすると石につまづいて転びそうになる。少年たちは海を左手に、海岸線に沿って歩かされていたが、その線は見る限りほとんど真っすぐにどこまでも続いていた。岸辺から奥へかけてうっそうとした深緑の森が広がっているのは分かるが、規模は測れない。森ではなく林かもしれない。
しばらく進むと、やがてゆくてにはっきりと建造物が見えた。平屋で、あまり大きくない。絵本に出てくるような昔の工場や学校、あるいは古い体育館みたいだがそれよりずっと小さい。さらに近づいて令は気づいたが、それは煉瓦造りの建物だった。赤煉瓦。そういう材質の建物が現在にもあることは知っていたが、彼には馴染みのない建築材と言える。
連れてこられた目的地は、どうやらここらしかった。石だらけの海岸からはやや離れた位置に、打ち捨てられた風情で建っている。リーダー格の男は、入り口で待っていた別の制服の男に何か話しかけ、警備役を担っていたらしいその男が閉じられていた扉をあけた。見るからに重そうな、鉛色の、両開きの分厚い扉だった。
「入れ」
制服の一団に紛れ、少年たちは入り口をくぐった。金属のこすれる音とともに外から扉が閉められた。
がらんどうの空間だと、初め令は思った。物がない。殺風景だから、だだっ広くて天井が高く感じられる。左右に小窓は並んでいるが今は閉じきられているのか、じめじめと湿っぽく、空気がよどんでいる。天井の中央、手前から奥へかけて等間隔につり下がっている電球は、どれも一応は点いているようだが弱々しく、満足に役目を果たしていない。
昼間とは思えないほど暗かった。暗くて、入ったばかりなのにすでに蒸し暑い。
入り口からいくらも進まないうちに、少年たちはそこで止まるよう言われ、岸辺に着いたときと同じように横一列に並ばされた。首を動かすなという指示は変わっていなかったので、前方のほかに目を向けることができない。
ふと、何か燃えている音が聞こえた気がした。それを感知した刹那、あたりに漂う匂いにまで、違和感が及んだ。令は激しい息苦しさを覚えた。燃えている、と思ったとたん、酸素が足りていない心地がした。時季にしては早すぎるこの蒸し暑さが、単に喚起の整っていないせいではなかったとしたら……。少年たちを取り巻いていた一団から、そのとき先刻のリーダー格がつと出てくると、彼らの対面まで来て腕組みをした。帽子のひさしにさえぎられ、また屋内が暗いために、その面立ちは未だ判然としない。
彼はおもむろに言った。
「では刻印の儀を執り行う」
さほど厳粛ではない、言い飽いたような声音だった。だが男の仲間はその宣言にたちまちに反応し、一部がどこかへと散っていく。わけも分からず立ち尽くす少年らをよそに、男は淡々と命じた。
「服を脱げ。ああ、上衣だけでいい。上だけ裸になれ」
唐突な指示にうろたえ、もじもじと動けないでいる少年らを男はにらみ、無言に合図を送った。苛立っているのは明らかだった。目で合図を受けた残りの仲間たちがざっとブーツを鳴らし、彼らは束となって少年たちの着ているものを強引に脱がしにかかる。すぐさま嫌がって身をよじり、恫喝された少年もいたが、大半は諦めたように無抵抗だった。令もそうだった。抵抗したところでどうにもならない。彼の着ていたTシャツははぎ取られた。全員が皮を剥かれた林檎のように肌をあらわにすると、男はそれから8人いる彼らを4人ごとのふたつの組に分けた。
「貴様らあまり手間取らせるなよ」
男はひさしの陰から言った。
「さて、だれからだ?」
がらがらと、何かを引きずる異様な音が後方からしたのはそのときだった。剥かれた上半身に、令は異様な熱波を受け、火だ、と彼は直感した。消えていた仲間の男たちに引かれ、運ばれてきたのはごく簡素な造りの台車だった。二台あるが、驚くことにその二台どちらともが燃えている。いや正確に言うなら台車が燃えているのではなく、その上で焚き火がなされている。勢いよく燃えて、底のほうでは木か炭か、赤黒く輝いている。暗い屋内に、そこだけ鉱脈のように……作り物みたいだと令は思った。火山を流れるマグマにも似ていた。いつかそういうジオラマを、どこかの自然博物館で見た記憶がある。
台車はさほど大型ではないが、火は大きかった。少年たちが息をのむなか、リーダーの男を中心に、左右に一台ずつが据えられた。彼がふたたび合図を送ると、仲間のうちから2名が焚き火へ近づいた。ふたりの手には長い棒状のものが握られている。黒い棒で、先端に細工が施されているようだが、まるでそれは大判のスタンプのような変わった形状をしている。
やがて2名はその棒を燃え盛る火へかざし、突っ込んだ。そのまま静止し、棒は火であぶられ、熱されていく。
汗がひと筋、令の首をつたった。身体の奥が緊張と恐れに湧き立った。
考えたくない。考えるまでもなくあれは、あの棒は。
男の声がよみがえる。「刻印の儀」……。
「ひとりずつ連れてこい。さっさと済ませるぞ」
ずらりと自分たちを取り囲む制服姿が、かげろうの揺らめきとなって令の意識を惑わせた。そのかげろうが、炎にきらめく暗がりをこちらへ向かってくる。二手に別れて足早にやってくる。令は硬直していたが、彼のいる組から最初に引き出されたのは彼ではなかった。だが順番は関係ない。未来は決まっている。先か、あとか。
「来い、早く歩け!」
このあと何をされるのか、今や全員が悟っていた。数名に腕を引かれ、焚き火の前へ駆り出されるふたりの少年は恐怖のためか声もないが、よろめき、腰は抜けたようで、裸の半身は火に照らされて、それを茫然と見つめる他の少年たちの眼前に脇腹の線をくっきりと浮かべる。
中央で、また男が言う。
「ひざまずかせろ」
ふたりの少年は焚き火の前に投げ出されて膝を折り、それぞれ後ろ手に押さえつけられ、背が無防備にあらわとなった。そのとき令の組から選ばれたほうの少年が、
「やめて……」
と言った。
「お願いやめて……やめて! 嫌だ!」
彼は続けて叫び、拘束された後ろ手を振り切ってのがれようとする。彼とて逃げられるわけはないと頭では理解しているのだろうが、怖いんだろう、これから与えられる痛みが。あの刻印が……焼き印が……。
かがんで彼を押さえつけていた男が、叫びを聞くなり膝で彼を強く蹴り上げた。ためらうようすは一切なかった。うずくまった彼へ、静かにしろという冷ややかなひと言が落ちる。
抵抗はそれきりとなった。
「やれ。次が詰まってる」
号令が上がり、火の中にあった棒が取り出された。熱された先端部が動くのを、令は、ほかの少年たちも、凝然と目で追う。棒を持った男たちは、それを火から取り上げざま弧を描くように高く操り、ふたつの裸の背へとそれぞれ狙いをつけ、真っ逆さまに突き刺すがごとく先端を一気に押しつけた。じゅう……というかすかな音さえ、このとき令の耳には聞こえた気がした。
うぁああ、と妙なうめきが、押さえつけられているふたりから上がった。喉を絞ったみたいな悲鳴だった。
「痛い……痛い痛い痛い……!」
蹴られてうずくまっていた彼は、うずくまったまま印を受けていた。震える背から灰色の煙が立ち上っている。
皮膚が焼かれているのだった。ふたりが苦痛で暴れないよう、男たちは数名がかりで制服の腕を彼らの身へ絡めている。
残った6名は皆、茫然とその光景を眺めていた。警官のような制服をまとう男たちが、苦しむ少年をああして力ずくに押さえつけている。火はますます勢いを得て台車の上に猛っている。皮膚を焼く煙はやまない。
また悲鳴が響いた。地獄の責め苦を描いた絵を、令は他人事らしく頭の片隅に思い浮かべた。しかしあのふたりの現在の姿は、次の自分の姿でもある。次でないなら、その次。
「痛い……痛いよ……」
背から印が離れ、拘束が解かれたあとも、先刻の彼は繰り返しつぶやいていた。立ち上がりたいらしいが足腰に力が入らないようで、地に踏ん張ってはくずおれるさまが生まれたての小鹿を思わせる。リーダーの男はその姿に何かしら苛立ちを覚えたのか、未だ立てない彼の前まで歩んでいくと、周囲が見つめるなか、制服の胸から手帳のようなものを取り出してページを繰った。しばしののち、男は凄味のある笑みを口もとに刻んだ。
「貴様……131346号」
男は指に留めたページと彼とを交互に見、笑みを広げる。
「痛いか……なるほど……貴様が? よく言えたものだな、痛いなどと……ガキのくせに」
男はブーツの先であざけるように彼の肩を突き、それから仲間に上体を起こさせた。
「立て。立って待て。次に泣き言を聞いたときは殺す」
静寂が満ちた。
しゃくり上げながら彼はどうにか立ち、仲間の男に引っ張られて台車の前から下がる。令は瞬きを忘れていた。この最初の衝撃的場面はあとの6名を圧倒し、とうに萎えかけていた反抗の気力をますます失わせ、以後、事は非常に事務的に行われた。少年たちは順々に引き出され、背に焼き印を押されていく。ここでも令は最後だった。もう覚悟を決めていたので、前の少年が終わって痛みにゆがんだ顔をうつむき加減に隠したあと、彼は自ら足を進め、ひざまずく。背後から彼を後ろ手に押さえつけ、拘束しにかかった男は、彼の耳もとで囁いた。
「耐えろ。おとなしくしてれば一瞬だ」
焚き火によって、自らの影が黒々と床へ映っているのを令は見ていた。そんな自分へ複数の視線が向けられているのも同時に理解していた。むき出しの半身を生暖かい風が舐めるように撫でていく。目をあけているかどうか彼は迷い、ぐっと閉じた。あいていては生理的な涙を抑えられないかもしれない、と案じたせいだったが、そのぶん神経が研がれて、火にあぶられていた棒が高く振り上げられる気配がよく感じ取れてしまう。
「あっ……」
先端が押し当てられたとき、かすかな声が彼の口をほとばしり出た。激烈な痛みが全身を襲う。皮膚が焼けていく熱。背骨から真っ二つに引き裂かれていく感覚。先端部は彼の想像より大きく、鋼鉄のごとく硬い。
彼はひくりと喉を鳴らし、歯を食いしばった。上体が前のめりになり倒れかけるのを、両手首をつかむ男が制した。
「動くな」
令は薄目をあけた。床へ映り込む自身の影。額に玉のような汗が浮かぶ。あまりの痛みにふうっと意識が遠のく直前、彼は投げ出されるようにして解放された。両手を床に突き、肩で荒く呼吸をしたが、すぐさま立ち上がる。そうしなくては前の幾人かのように、床に這いつくばったまま、容赦なく身を蹴られることを学んでいた。
令と、彼とともに最後に印を受けたもうひとりの少年を含め、8人すべてに焼き印が刻まれた。
リーダーの男は左右の焚き火のあいだに仁王立ちとなり、腕組みをして、痛みにおののく少年たちを見回す。台車から、燃料の爆ぜる音が天井に壁に反響している。両頬を炎に照らされ、男は口角を歪めた。
「記念の烙印だ。死ぬまで消えることはないらしいぞ」
そして噛んで含めるように、
「いいか。貴様ら全員、性格破綻者だ」
と言う。
「その刻印が何よりの証拠になる。貴様らは皆、破綻している。だが壊れているものを苦労して直す必要はない。そもそも一度、壊れたものが元どおりになるか? 答えは否だ。割れた皿は元どおりにはならない。というわけで破綻者は破綻者なりに、まあ……同じ釜の飯を食う」
と喉でくつくつ笑った男のそばで、仲間の制服姿が何人か、帽子の陰で似たような笑みを浮かべていた。凄絶な笑みだった。令はそれらを、自身の荒い呼吸の狭間にぼうっと目撃していたが、意識の多くは背中の痛みに集中していた。
痛かった。自分の背は今どのような状態にあるのか、分からないが、じくじくと、もはや空気に触れているだけで耐えがたいほどだった。深刻な火傷を負ったのだから当然だろう。だが火傷とはつまり焼き印であって、ただの火傷ではない。記念の烙印……壊れた証。生涯消えることのない証。
それから少年たちは服を着ることを許されないまま、新たに列を作らされた。男の号令が上がり、彼らを外へ連れていくよう仲間へ指示があった。
入ってきたのと同じ扉があいたとき、差し込む光に令は目を細めた。暗く、こもった空間から急に出されたので外気がいやにこころよく感じられる。
少年たちは縦一列となって歩き始めた。制服姿は、今度は彼らを取り囲むのではなく、彼らを先導する前方の一団と、後方で彼らを見張る一団とに別れていた。前方のほうにリーダーの男の姿が見える。長身なので余計に分かりやすい。令は列のちょうど中間ほどにいた。
向かう方角は森へ分け入るのではなく、ふたたび海岸線をたどって進むらしい。少年たちの裸身に潮風が吹きつける。
歩きながら令は、自分のすぐ前を行く少年の背を凝視していた。その生々しさと痛々しさと同じものが自身の背にもあるのかと思うと、目をそらすどころかますます視線をそそいでしまう。
激しい疼痛に足がもつれる。痛くてたまらない。いっそ麻痺してしまえば何も感じないのか……。
「ねえ」
そのとき背後から声をかけられ、令は我に返った。彼のすぐあとを歩く少年だった。
「あ、振り向かないで。前、見て」
反射的に振り向きかけた令を制し、少年は小声に継ぐ。
「痛かったね。僕、ずっとひりひりしてるんだけど。ひりひりっていうか、なんだろ、もうやばい。痛くて死にそう……だよね?」
「うん」
「やばくない?」
「うん」
「痛すぎて転びそうにならない?」
「うん」
令は前方を向いたまま、わずかにうなずきつつ答える。しかし前後を固める一団の耳にこの話し声が届いた場合を考えると、彼は内心、気が気ではなかった。だが砂利を踏む足音と海風が、ある程度はかき消してくれるらしい。
少年は令に尋ねた。
「傷の形、見た?」
「うん。前の子のやつ」
「僕も。今、ずっときみのを見てる」
「痛そう?」
「うん。グロい」
「きみのも、きっとそうだよ。見えないけど」
「うん」
とひと言、少年は令とのあいだに空いていた距離を詰め、やや足早に令へ近寄った。令は右の耳たぶに、彼の囁きを聞いた。
「僕さっき、きみと一緒にあれ、押されたんだよ」
「最後の組だったってこと?」
「そう。気づいてた?」
「ううん。見てなかった」
「だよね」
令は、自ら焚き火の前に歩んだときを思い起こした。だが自分の隣で焼き印を押されていた少年についてはほとんど覚えていなかった。火の灯りに、制服に囲まれ、暗がりを小柄な身体がひざまずいていたようすが曖昧に浮かぶくらいだった。終わって列を作り直したときも、痛みで周りに目を配るどころではなかった。
「きみは俺を見てたの?」
声量に気を遣い、令は尋ねた。すぐに返答があった。
「うん。少しだけね。僕みたく最後に残った子はだれだろうって」
「そうなんだ」
「うん。それにきみさ、なんか自分から火の前に行ったよね。僕はあいつらに無理やり引かれてったから、大違い。だから、すごいなって思って覚えてた」
「すごくはないよ。諦めてたんだよ」
「でも怖かったでしょ?」
「うん」
「火傷って、想像の百倍、痛いんだね」
「うん。痛くて……あと熱いよね」
「分かる。こんなの押されて、変な形……これ何の意味なのかな?」
令の背を見ているらしい少年が言う。何かと問われたら、もちろん焼き印だが、その印の意味は令にも分からない。そしてこれが何を表しているのか、分からないのはその意味だけではない。たどり着いたばかりのここには分からないことしかない。まったくの未知。しかし彼らは連れていかれる。
「ねえ、名前は?」
少年が訊いた。ややあって、令は答えた。
「そっちは?」
「僕? きみから言ってよ」
「訊いたほうが先だよ」
「えー、僕から? いいけどさあ……」
笑い交じりに、少年は言った。
「颯平 だよ。きみは?」
「令」
「よろしく。ねえ令、さっきの話だけどさ、このしるしの意味ってさ、僕、クラスの中でも英語は得意なほうだったんだけどさ……」
彼が続けようとしたとき、後方から怒号が飛んだ。
「おい貴様ら! 黙れ! だれが話していいと言った!」
颯平の言葉は途切れ、令は殴られる覚悟を決めた。あるいは刀で脅され、切られるかもしれない。だが列は特に乱れることなく、止まれという指示はなく、幸いにもあのブーツの音がこちらへ向かってくる気配もない。先を急ぐのだろうか。
一行は黙々と海岸線を歩き続ける。話が尻切れとんぼになったのがもどかしく、令はよほど背後を振り向き、颯平と目を見交わすくらいのことをしたかった。だがこらえた。代わりに彼の足音を一心に聞き、執拗な背の疼痛とたたかっていたが、やがて右手に彼の指が触れ、からかうように引かれた。何度か引かれたあと、また触れたとき、令はその指をつかんで握った。
颯平は振りほどかなかった。ふたりは指を絡め、そのまま砂利を歩く。令は自分の前を行く少年の背を飽かずに見つめ続ける。
皆、心境は似たようなものだった。苦痛と不安をかかえているのは当然、令だけではないんだろう。
どれくらい歩かされたのか、時刻を確認するものがないので計れなかった。だがずいぶん歩いたような疲労が足には溜まって、海風は冷たいのに、身内から滲む汗に令が不快感を覚え始めたころ、ようやく景色が変わってきた。森を背後に、ひなびた、小さな港町のような一帯が現れ、一行は海岸線を外れそちらへ向かった。
海のそばで暮らした経験のない令には、そこが漁業の盛んな、いわゆる漁師町と呼ばれるたぐいの場所であるのかどうか、首をひねらざるを得なかった。使っているのか捨ててあるのか判断に迷う、よごれた小舟が一艘、二艘、ぽつんと岸につながれているきり。だがとにかく、海沿いの古い町らしかった。町と呼ぶにはあまりに整然としており、ひと気もないが、昔の商店みたいな長方形の、二階建ての粗末な家が並んでいた。大半は木造のようだった。屋根はトタンというのか、少なくとも瓦ではなく、長いあいだを雨風に打たれ続けたか、その多くが茶色くさびて見えるのがみすぼらしい。そういう家のうち一軒の前に、やたらと大きな郵便ポストの立っているのが、ただひとつ朱色に主張をするからか遠目にもはっきり分かる。
しかし一行が向かったのは、家々の並ぶ通りがあるほうではなかった。前方の制服姿に先導され、彼らは森へ近い奥へと進んでいく。ほどなく視界がひらけ、敷地を木々に囲まれた、コンクリート色をした真四角の建物が現れた。先ほど刻印をされたところに比べるとかなり大きく、雰囲気もデザインも新しい。研究所のような会社のような、何の変哲もない三階建てで、大小の硝子窓が各階に付いている。
敷地へ入るとき、令は門標をちらと見た。そこにはいかめしい縦文字でこう掘り込まれていた。
「入島管理局」
その正門をくぐり、一行は硝子張りの玄関扉から建物の中へ入った。内部は、こちらのほうが令には馴染み深かった。通っていた小学校が、記憶の隅にうっすら思い出された。
長い廊下に、奥へ向かってずらりと並ぶドア。右手に階段がある。しかしながらここもまた灯りが弱く、暗い。階段横に据えられた掲示板にはごちゃごちゃとした張り紙がいくつかなされてあるが、その中の一枚には、黄色く変色した用紙にマジックで書いたような太い横文字で、
「Border Control Center」
とあった。
前方でリーダーの男が、応対へ出てきた若い男と何やら会話をしていた。令には話の内容は聞こえなかった。「入島管理局」の職員らしきその男は、眼鏡をかけて、黒いシャツに黒いズボンを穿いて、無表情にひとつうなずくと、くるりと背を向け廊下を奥へ歩き出す。列は彼のあとに従った。
通されたのは突き当たりの、会議室に似た大部屋だった。あらかじめ人数を聞いて知っていたようで、パイプ椅子が全部で8脚。2脚ごとに並んでいる。少年たちはそれらに座るよう指示され、戸惑う彼らが席に着くと、リーダーの男は前に残った。ほかは少年たちを囲むように室内の壁際へ立った。令の隣には颯平が座ったが、到着以来、よそ見をするな前を見ろと命じられてきたせいで、まじまじと顔を見合わせることは令にはためらわれた。
少年たちは皆、無意識に背筋を伸ばし、姿勢を正していた。椅子に裸身が当たらないよう、背の火傷をかばってのことだった。
そのうち、この部屋までの案内をした職員の男が彼らの前へ進み出、手にしていたファイルと彼らとを交互に見やりながら何かつぶやき始めた。
「全部で8名……確かに……えー……登録番号1313番代……出発港……よし。出発日……よし。出発時刻……よし。到着時刻……島時間で……よし」
それからファイルを閉じ、会釈をして、言った。
「えー……どうもこんにちは。僕は本島の入島管理局、新規入島者管理受付担当をしております……どうも……」
と始めて、茫洋とした語り口に継ぐ。
「皆さん、えーと……あ、このあとの流れについて、そちら警備隊長殿からご説明ありました? ……え? ああそうですか、まだでしたか隊長殿、失礼しました……では僕のほうから簡単に……と言いましても大したことはありません。このあと皆さんには医務局のほうで軽い身体検査を受けていただく程度です……バスがありますから乗ってください、歩くと長いですよ距離がありますので……刻印のほう、受けられましたよね? あれ放っておくと膿みますのでね、消毒も兼ねまして……でないときちんと反応しません……それから洗体と着替えのほう済ませていただいて、あとはほかの皆さんと一緒に日常生活を送っていただくばかりです。皆さん日々、さまざま励まれて精進なさるようお願いいたします……規律が肝要です……なにせこういう島ですから……では隊長殿、よろしく……どうも……」
と言って引き下がる。それからまたファイルをひらき、それに見入る。あとを受けたリーダーの男は警備隊長と呼ばれていたが、隊長はあらたまったふうに少年たちの前へ立つと、
「貴様ら、これで島の一員だ。貴様らの背にあるその刻印の意味を教えてやろう」
と告げた。令はごくりと生唾を飲んだ。そして刻印の形を思い浮かべる。
あれはアルファベットだった。アルファベットの2文字を折り重ねたような形。いびつな――大文字の――PとS。
「つまり、本島の名だ」
隊長の声が響いた。
「俺は横文字を好かないがな。Prison Society Island……PSという刻印は、そのかしらを取ってある。日本語で言うと監獄社会島……PSと背に刻まれた者は、その日より晴れて島の一員となる。本人の意思は関係ない。すでに述べてあるように、これは証だ。貴様ら、自分でよく分かっているだろう?」
静まり返った室内だった。少年たちの、押し黙った重たい空気が緩慢に流れている。令は目を伏せ、膝に置いた両手を見下ろした。
背が痛む。
隊長は口角を上げ、言った。
「本島へようこそ。
令は伏せた目を閉じ、すぐにひらき、そして隣を盗み見た。思いがけず、横目に颯平と、初めて視線がかち合った。視界の端に映った彼は、令よりやや小柄で、眉の上で切りそろえられた前髪に利発そうな瞳をして、彼は悪戯小僧のような薄笑みを浮かべて令を見ていた。何か言いたげな表情なのはおそらく、途中で打ち切られたままだった話題のことだろうか。英語は得意なほうだったと話した颯平は、刻まれたPSの意味を正しく予想できていたのかもしれない。
令は肩をすくめるふりをわずかにして、目をそらす。
顔を上げれば眼前には、仁王立ちの隊長と、その隣でファイルをひらく職員の男の、眼鏡の奥には気だるげなまなざしが控えていた。
べたついていたはずの令の半身からは、いつの間にか汗が引いている。
順番に船から降りて古びた桟橋へ立ったとき、まずなんとも言えない嫌な匂いが令の鼻腔を突いた。魚が死んで腐った匂いだと彼は勝手に解釈し、顔をしかめる。
振り返れば一面、海。これは何色と言えばいいだろう。南国の透きとおったブルーではない。さびついた、緑青を溶かし込んでかき混ぜたような重い色味。はるか遠く、水平線まで垂れ込めた薄雲は、空と同化して太陽を隠し、石灰をまき散らしたかのような白光は、長く見つめようとすると目がちかちかした。
初夏だったが、風が吹きつけると寒かった。潮のせいか、妙にべたつく。陽光を反射してきらめく暖かい海なら、きっとこんなふうに粘着質な風を吹かせたりはしない。
令は手の甲を舐めた。曖昧に塩辛い。
「おい。早く行け。いつまでも突っ立ってるな邪魔だ」
船員の男にどつかれ、令はよろめいたが、無言に歩き出した。前方には、同じように桟橋を岸へ向け進む少年たちの後ろ姿が見える。ざっと数えて10名いるか、いないか。どの少年も令とほとんど年齢は変わらないようだが、彼らが全員、男児であるということ以外、正確なところを令は知らない。
桟橋はずいぶん傷んでいるようで、無造作に敷かれた木材は白茶けた色をして、歩くごとに軋るのが不穏だった。足もとの木板と木板の隙間をのぞくと、眼下に濁った海水が見えた。令は慎重に歩を進めながら、岸辺に待ち受ける男たちの一団を視界に収める。早くしろと桟橋へ向け口々に叫ぶ、甲高い声。彼らは一様に黒っぽい詰襟の制服を着て、黒い帽子をかぶって、まるで警察隊のように整然として少年たちを急かしていた。
そのうち、「のろのろするな、走れ!」という大喝が響き、少年たちは底が抜けそうな橋の上を走らされた。足の重みに反応してぎしぎしとうめく木の板を、令は飛ぶように走って、彼は背後の海を振り返らなかった。
待っていた男たちは岸辺へ着いた少年から横一列に並ばせた。全部で8人。令は最後だった。あらためてよく見ると、やはり男たちは警官に似た身なりをしていた。制服の上着に、首から下へ丸い金ボタンがずらりと付いている。腰から何か提げているのは短刀だろうか。柄の部分が幾人かの脇腹から前へ突き出ている。帽子のせいで表情はよく分からないが、どの男もそう年は経ていない、青年風の立ち姿だった。もっとも年長とみえた中央に立つ背の高い男でも、せいぜいが30年配といった印象。
その男は一団のリーダーなのか、ひときわの威厳をみなぎらせて一歩前へ進み出ると、眼前に並ぶ少年たちを端から端までじろりと見渡した。男は隣に控えていた仲間のひとりへ、これで全員だなと小声に尋ね、仲間が答えたのにうなずきを返し、少年たちへ向き直ると居丈高に言った。
「では行こう。貴様ら列を乱すな。妙な真似をしたらその場で首を飛ばす。……連れていけ」
男は顎でしゃくって仲間をうながす。すると一団の中から数名が近づき、音もなく抜刀した。突然のことだった。抜き身を目の当たりにした少年たちのいくらかは怯えたふうにあとずさったが、彼らは刀身で少年らを脅しつけ、早く歩け、よそ見をするなと命じる。列の端にいた令は、今度は刀の柄で背中を小突かれ、痛みをこらえながらに追い立てられた。
出迎えのあいさつはなく、説明もなかった。降り立った先の景色を眺めるいとまも与えられなかった。ここにいる大人から温かい歓迎が受けられる未来を、しかし、令を含めた少年たちのだれひとりとして思い描いてはいなかったが。
周囲を制服姿に囲まれ監視を受けながら、しゃべらず、前だけを見て歩くよう少年たちは言われた。好奇心から首を回そうとすると刀の切っ先が向けられ、もう死にたいのかと訊かれる。実際、そう尋ねられて、いいえと声を震わせて答えた少年を令は列の最後尾からとらえていて、自分はああはなるまいと決めていた。男たちは長靴みたいな黒いブーツを履いて、それがざくざくと地面の砂利を踏む、そろいの足音が響く。
南国の海ではないからか、少なくとも令の視界の中に砂浜は映らなかった。砂の代わりに大小の石ばかりが転がって、そこに折れ曲がった無数の木枝や腐食した幹が倒れていて、冷たい、寂寞とした光景。油断をすると石につまづいて転びそうになる。少年たちは海を左手に、海岸線に沿って歩かされていたが、その線は見る限りほとんど真っすぐにどこまでも続いていた。岸辺から奥へかけてうっそうとした深緑の森が広がっているのは分かるが、規模は測れない。森ではなく林かもしれない。
しばらく進むと、やがてゆくてにはっきりと建造物が見えた。平屋で、あまり大きくない。絵本に出てくるような昔の工場や学校、あるいは古い体育館みたいだがそれよりずっと小さい。さらに近づいて令は気づいたが、それは煉瓦造りの建物だった。赤煉瓦。そういう材質の建物が現在にもあることは知っていたが、彼には馴染みのない建築材と言える。
連れてこられた目的地は、どうやらここらしかった。石だらけの海岸からはやや離れた位置に、打ち捨てられた風情で建っている。リーダー格の男は、入り口で待っていた別の制服の男に何か話しかけ、警備役を担っていたらしいその男が閉じられていた扉をあけた。見るからに重そうな、鉛色の、両開きの分厚い扉だった。
「入れ」
制服の一団に紛れ、少年たちは入り口をくぐった。金属のこすれる音とともに外から扉が閉められた。
がらんどうの空間だと、初め令は思った。物がない。殺風景だから、だだっ広くて天井が高く感じられる。左右に小窓は並んでいるが今は閉じきられているのか、じめじめと湿っぽく、空気がよどんでいる。天井の中央、手前から奥へかけて等間隔につり下がっている電球は、どれも一応は点いているようだが弱々しく、満足に役目を果たしていない。
昼間とは思えないほど暗かった。暗くて、入ったばかりなのにすでに蒸し暑い。
入り口からいくらも進まないうちに、少年たちはそこで止まるよう言われ、岸辺に着いたときと同じように横一列に並ばされた。首を動かすなという指示は変わっていなかったので、前方のほかに目を向けることができない。
ふと、何か燃えている音が聞こえた気がした。それを感知した刹那、あたりに漂う匂いにまで、違和感が及んだ。令は激しい息苦しさを覚えた。燃えている、と思ったとたん、酸素が足りていない心地がした。時季にしては早すぎるこの蒸し暑さが、単に喚起の整っていないせいではなかったとしたら……。少年たちを取り巻いていた一団から、そのとき先刻のリーダー格がつと出てくると、彼らの対面まで来て腕組みをした。帽子のひさしにさえぎられ、また屋内が暗いために、その面立ちは未だ判然としない。
彼はおもむろに言った。
「では刻印の儀を執り行う」
さほど厳粛ではない、言い飽いたような声音だった。だが男の仲間はその宣言にたちまちに反応し、一部がどこかへと散っていく。わけも分からず立ち尽くす少年らをよそに、男は淡々と命じた。
「服を脱げ。ああ、上衣だけでいい。上だけ裸になれ」
唐突な指示にうろたえ、もじもじと動けないでいる少年らを男はにらみ、無言に合図を送った。苛立っているのは明らかだった。目で合図を受けた残りの仲間たちがざっとブーツを鳴らし、彼らは束となって少年たちの着ているものを強引に脱がしにかかる。すぐさま嫌がって身をよじり、恫喝された少年もいたが、大半は諦めたように無抵抗だった。令もそうだった。抵抗したところでどうにもならない。彼の着ていたTシャツははぎ取られた。全員が皮を剥かれた林檎のように肌をあらわにすると、男はそれから8人いる彼らを4人ごとのふたつの組に分けた。
「貴様らあまり手間取らせるなよ」
男はひさしの陰から言った。
「さて、だれからだ?」
がらがらと、何かを引きずる異様な音が後方からしたのはそのときだった。剥かれた上半身に、令は異様な熱波を受け、火だ、と彼は直感した。消えていた仲間の男たちに引かれ、運ばれてきたのはごく簡素な造りの台車だった。二台あるが、驚くことにその二台どちらともが燃えている。いや正確に言うなら台車が燃えているのではなく、その上で焚き火がなされている。勢いよく燃えて、底のほうでは木か炭か、赤黒く輝いている。暗い屋内に、そこだけ鉱脈のように……作り物みたいだと令は思った。火山を流れるマグマにも似ていた。いつかそういうジオラマを、どこかの自然博物館で見た記憶がある。
台車はさほど大型ではないが、火は大きかった。少年たちが息をのむなか、リーダーの男を中心に、左右に一台ずつが据えられた。彼がふたたび合図を送ると、仲間のうちから2名が焚き火へ近づいた。ふたりの手には長い棒状のものが握られている。黒い棒で、先端に細工が施されているようだが、まるでそれは大判のスタンプのような変わった形状をしている。
やがて2名はその棒を燃え盛る火へかざし、突っ込んだ。そのまま静止し、棒は火であぶられ、熱されていく。
汗がひと筋、令の首をつたった。身体の奥が緊張と恐れに湧き立った。
考えたくない。考えるまでもなくあれは、あの棒は。
男の声がよみがえる。「刻印の儀」……。
「ひとりずつ連れてこい。さっさと済ませるぞ」
ずらりと自分たちを取り囲む制服姿が、かげろうの揺らめきとなって令の意識を惑わせた。そのかげろうが、炎にきらめく暗がりをこちらへ向かってくる。二手に別れて足早にやってくる。令は硬直していたが、彼のいる組から最初に引き出されたのは彼ではなかった。だが順番は関係ない。未来は決まっている。先か、あとか。
「来い、早く歩け!」
このあと何をされるのか、今や全員が悟っていた。数名に腕を引かれ、焚き火の前へ駆り出されるふたりの少年は恐怖のためか声もないが、よろめき、腰は抜けたようで、裸の半身は火に照らされて、それを茫然と見つめる他の少年たちの眼前に脇腹の線をくっきりと浮かべる。
中央で、また男が言う。
「ひざまずかせろ」
ふたりの少年は焚き火の前に投げ出されて膝を折り、それぞれ後ろ手に押さえつけられ、背が無防備にあらわとなった。そのとき令の組から選ばれたほうの少年が、
「やめて……」
と言った。
「お願いやめて……やめて! 嫌だ!」
彼は続けて叫び、拘束された後ろ手を振り切ってのがれようとする。彼とて逃げられるわけはないと頭では理解しているのだろうが、怖いんだろう、これから与えられる痛みが。あの刻印が……焼き印が……。
かがんで彼を押さえつけていた男が、叫びを聞くなり膝で彼を強く蹴り上げた。ためらうようすは一切なかった。うずくまった彼へ、静かにしろという冷ややかなひと言が落ちる。
抵抗はそれきりとなった。
「やれ。次が詰まってる」
号令が上がり、火の中にあった棒が取り出された。熱された先端部が動くのを、令は、ほかの少年たちも、凝然と目で追う。棒を持った男たちは、それを火から取り上げざま弧を描くように高く操り、ふたつの裸の背へとそれぞれ狙いをつけ、真っ逆さまに突き刺すがごとく先端を一気に押しつけた。じゅう……というかすかな音さえ、このとき令の耳には聞こえた気がした。
うぁああ、と妙なうめきが、押さえつけられているふたりから上がった。喉を絞ったみたいな悲鳴だった。
「痛い……痛い痛い痛い……!」
蹴られてうずくまっていた彼は、うずくまったまま印を受けていた。震える背から灰色の煙が立ち上っている。
皮膚が焼かれているのだった。ふたりが苦痛で暴れないよう、男たちは数名がかりで制服の腕を彼らの身へ絡めている。
残った6名は皆、茫然とその光景を眺めていた。警官のような制服をまとう男たちが、苦しむ少年をああして力ずくに押さえつけている。火はますます勢いを得て台車の上に猛っている。皮膚を焼く煙はやまない。
また悲鳴が響いた。地獄の責め苦を描いた絵を、令は他人事らしく頭の片隅に思い浮かべた。しかしあのふたりの現在の姿は、次の自分の姿でもある。次でないなら、その次。
「痛い……痛いよ……」
背から印が離れ、拘束が解かれたあとも、先刻の彼は繰り返しつぶやいていた。立ち上がりたいらしいが足腰に力が入らないようで、地に踏ん張ってはくずおれるさまが生まれたての小鹿を思わせる。リーダーの男はその姿に何かしら苛立ちを覚えたのか、未だ立てない彼の前まで歩んでいくと、周囲が見つめるなか、制服の胸から手帳のようなものを取り出してページを繰った。しばしののち、男は凄味のある笑みを口もとに刻んだ。
「貴様……131346号」
男は指に留めたページと彼とを交互に見、笑みを広げる。
「痛いか……なるほど……貴様が? よく言えたものだな、痛いなどと……ガキのくせに」
男はブーツの先であざけるように彼の肩を突き、それから仲間に上体を起こさせた。
「立て。立って待て。次に泣き言を聞いたときは殺す」
静寂が満ちた。
しゃくり上げながら彼はどうにか立ち、仲間の男に引っ張られて台車の前から下がる。令は瞬きを忘れていた。この最初の衝撃的場面はあとの6名を圧倒し、とうに萎えかけていた反抗の気力をますます失わせ、以後、事は非常に事務的に行われた。少年たちは順々に引き出され、背に焼き印を押されていく。ここでも令は最後だった。もう覚悟を決めていたので、前の少年が終わって痛みにゆがんだ顔をうつむき加減に隠したあと、彼は自ら足を進め、ひざまずく。背後から彼を後ろ手に押さえつけ、拘束しにかかった男は、彼の耳もとで囁いた。
「耐えろ。おとなしくしてれば一瞬だ」
焚き火によって、自らの影が黒々と床へ映っているのを令は見ていた。そんな自分へ複数の視線が向けられているのも同時に理解していた。むき出しの半身を生暖かい風が舐めるように撫でていく。目をあけているかどうか彼は迷い、ぐっと閉じた。あいていては生理的な涙を抑えられないかもしれない、と案じたせいだったが、そのぶん神経が研がれて、火にあぶられていた棒が高く振り上げられる気配がよく感じ取れてしまう。
「あっ……」
先端が押し当てられたとき、かすかな声が彼の口をほとばしり出た。激烈な痛みが全身を襲う。皮膚が焼けていく熱。背骨から真っ二つに引き裂かれていく感覚。先端部は彼の想像より大きく、鋼鉄のごとく硬い。
彼はひくりと喉を鳴らし、歯を食いしばった。上体が前のめりになり倒れかけるのを、両手首をつかむ男が制した。
「動くな」
令は薄目をあけた。床へ映り込む自身の影。額に玉のような汗が浮かぶ。あまりの痛みにふうっと意識が遠のく直前、彼は投げ出されるようにして解放された。両手を床に突き、肩で荒く呼吸をしたが、すぐさま立ち上がる。そうしなくては前の幾人かのように、床に這いつくばったまま、容赦なく身を蹴られることを学んでいた。
令と、彼とともに最後に印を受けたもうひとりの少年を含め、8人すべてに焼き印が刻まれた。
リーダーの男は左右の焚き火のあいだに仁王立ちとなり、腕組みをして、痛みにおののく少年たちを見回す。台車から、燃料の爆ぜる音が天井に壁に反響している。両頬を炎に照らされ、男は口角を歪めた。
「記念の烙印だ。死ぬまで消えることはないらしいぞ」
そして噛んで含めるように、
「いいか。貴様ら全員、性格破綻者だ」
と言う。
「その刻印が何よりの証拠になる。貴様らは皆、破綻している。だが壊れているものを苦労して直す必要はない。そもそも一度、壊れたものが元どおりになるか? 答えは否だ。割れた皿は元どおりにはならない。というわけで破綻者は破綻者なりに、まあ……同じ釜の飯を食う」
と喉でくつくつ笑った男のそばで、仲間の制服姿が何人か、帽子の陰で似たような笑みを浮かべていた。凄絶な笑みだった。令はそれらを、自身の荒い呼吸の狭間にぼうっと目撃していたが、意識の多くは背中の痛みに集中していた。
痛かった。自分の背は今どのような状態にあるのか、分からないが、じくじくと、もはや空気に触れているだけで耐えがたいほどだった。深刻な火傷を負ったのだから当然だろう。だが火傷とはつまり焼き印であって、ただの火傷ではない。記念の烙印……壊れた証。生涯消えることのない証。
それから少年たちは服を着ることを許されないまま、新たに列を作らされた。男の号令が上がり、彼らを外へ連れていくよう仲間へ指示があった。
入ってきたのと同じ扉があいたとき、差し込む光に令は目を細めた。暗く、こもった空間から急に出されたので外気がいやにこころよく感じられる。
少年たちは縦一列となって歩き始めた。制服姿は、今度は彼らを取り囲むのではなく、彼らを先導する前方の一団と、後方で彼らを見張る一団とに別れていた。前方のほうにリーダーの男の姿が見える。長身なので余計に分かりやすい。令は列のちょうど中間ほどにいた。
向かう方角は森へ分け入るのではなく、ふたたび海岸線をたどって進むらしい。少年たちの裸身に潮風が吹きつける。
歩きながら令は、自分のすぐ前を行く少年の背を凝視していた。その生々しさと痛々しさと同じものが自身の背にもあるのかと思うと、目をそらすどころかますます視線をそそいでしまう。
激しい疼痛に足がもつれる。痛くてたまらない。いっそ麻痺してしまえば何も感じないのか……。
「ねえ」
そのとき背後から声をかけられ、令は我に返った。彼のすぐあとを歩く少年だった。
「あ、振り向かないで。前、見て」
反射的に振り向きかけた令を制し、少年は小声に継ぐ。
「痛かったね。僕、ずっとひりひりしてるんだけど。ひりひりっていうか、なんだろ、もうやばい。痛くて死にそう……だよね?」
「うん」
「やばくない?」
「うん」
「痛すぎて転びそうにならない?」
「うん」
令は前方を向いたまま、わずかにうなずきつつ答える。しかし前後を固める一団の耳にこの話し声が届いた場合を考えると、彼は内心、気が気ではなかった。だが砂利を踏む足音と海風が、ある程度はかき消してくれるらしい。
少年は令に尋ねた。
「傷の形、見た?」
「うん。前の子のやつ」
「僕も。今、ずっときみのを見てる」
「痛そう?」
「うん。グロい」
「きみのも、きっとそうだよ。見えないけど」
「うん」
とひと言、少年は令とのあいだに空いていた距離を詰め、やや足早に令へ近寄った。令は右の耳たぶに、彼の囁きを聞いた。
「僕さっき、きみと一緒にあれ、押されたんだよ」
「最後の組だったってこと?」
「そう。気づいてた?」
「ううん。見てなかった」
「だよね」
令は、自ら焚き火の前に歩んだときを思い起こした。だが自分の隣で焼き印を押されていた少年についてはほとんど覚えていなかった。火の灯りに、制服に囲まれ、暗がりを小柄な身体がひざまずいていたようすが曖昧に浮かぶくらいだった。終わって列を作り直したときも、痛みで周りに目を配るどころではなかった。
「きみは俺を見てたの?」
声量に気を遣い、令は尋ねた。すぐに返答があった。
「うん。少しだけね。僕みたく最後に残った子はだれだろうって」
「そうなんだ」
「うん。それにきみさ、なんか自分から火の前に行ったよね。僕はあいつらに無理やり引かれてったから、大違い。だから、すごいなって思って覚えてた」
「すごくはないよ。諦めてたんだよ」
「でも怖かったでしょ?」
「うん」
「火傷って、想像の百倍、痛いんだね」
「うん。痛くて……あと熱いよね」
「分かる。こんなの押されて、変な形……これ何の意味なのかな?」
令の背を見ているらしい少年が言う。何かと問われたら、もちろん焼き印だが、その印の意味は令にも分からない。そしてこれが何を表しているのか、分からないのはその意味だけではない。たどり着いたばかりのここには分からないことしかない。まったくの未知。しかし彼らは連れていかれる。
「ねえ、名前は?」
少年が訊いた。ややあって、令は答えた。
「そっちは?」
「僕? きみから言ってよ」
「訊いたほうが先だよ」
「えー、僕から? いいけどさあ……」
笑い交じりに、少年は言った。
「
「令」
「よろしく。ねえ令、さっきの話だけどさ、このしるしの意味ってさ、僕、クラスの中でも英語は得意なほうだったんだけどさ……」
彼が続けようとしたとき、後方から怒号が飛んだ。
「おい貴様ら! 黙れ! だれが話していいと言った!」
颯平の言葉は途切れ、令は殴られる覚悟を決めた。あるいは刀で脅され、切られるかもしれない。だが列は特に乱れることなく、止まれという指示はなく、幸いにもあのブーツの音がこちらへ向かってくる気配もない。先を急ぐのだろうか。
一行は黙々と海岸線を歩き続ける。話が尻切れとんぼになったのがもどかしく、令はよほど背後を振り向き、颯平と目を見交わすくらいのことをしたかった。だがこらえた。代わりに彼の足音を一心に聞き、執拗な背の疼痛とたたかっていたが、やがて右手に彼の指が触れ、からかうように引かれた。何度か引かれたあと、また触れたとき、令はその指をつかんで握った。
颯平は振りほどかなかった。ふたりは指を絡め、そのまま砂利を歩く。令は自分の前を行く少年の背を飽かずに見つめ続ける。
皆、心境は似たようなものだった。苦痛と不安をかかえているのは当然、令だけではないんだろう。
どれくらい歩かされたのか、時刻を確認するものがないので計れなかった。だがずいぶん歩いたような疲労が足には溜まって、海風は冷たいのに、身内から滲む汗に令が不快感を覚え始めたころ、ようやく景色が変わってきた。森を背後に、ひなびた、小さな港町のような一帯が現れ、一行は海岸線を外れそちらへ向かった。
海のそばで暮らした経験のない令には、そこが漁業の盛んな、いわゆる漁師町と呼ばれるたぐいの場所であるのかどうか、首をひねらざるを得なかった。使っているのか捨ててあるのか判断に迷う、よごれた小舟が一艘、二艘、ぽつんと岸につながれているきり。だがとにかく、海沿いの古い町らしかった。町と呼ぶにはあまりに整然としており、ひと気もないが、昔の商店みたいな長方形の、二階建ての粗末な家が並んでいた。大半は木造のようだった。屋根はトタンというのか、少なくとも瓦ではなく、長いあいだを雨風に打たれ続けたか、その多くが茶色くさびて見えるのがみすぼらしい。そういう家のうち一軒の前に、やたらと大きな郵便ポストの立っているのが、ただひとつ朱色に主張をするからか遠目にもはっきり分かる。
しかし一行が向かったのは、家々の並ぶ通りがあるほうではなかった。前方の制服姿に先導され、彼らは森へ近い奥へと進んでいく。ほどなく視界がひらけ、敷地を木々に囲まれた、コンクリート色をした真四角の建物が現れた。先ほど刻印をされたところに比べるとかなり大きく、雰囲気もデザインも新しい。研究所のような会社のような、何の変哲もない三階建てで、大小の硝子窓が各階に付いている。
敷地へ入るとき、令は門標をちらと見た。そこにはいかめしい縦文字でこう掘り込まれていた。
「入島管理局」
その正門をくぐり、一行は硝子張りの玄関扉から建物の中へ入った。内部は、こちらのほうが令には馴染み深かった。通っていた小学校が、記憶の隅にうっすら思い出された。
長い廊下に、奥へ向かってずらりと並ぶドア。右手に階段がある。しかしながらここもまた灯りが弱く、暗い。階段横に据えられた掲示板にはごちゃごちゃとした張り紙がいくつかなされてあるが、その中の一枚には、黄色く変色した用紙にマジックで書いたような太い横文字で、
「Border Control Center」
とあった。
前方でリーダーの男が、応対へ出てきた若い男と何やら会話をしていた。令には話の内容は聞こえなかった。「入島管理局」の職員らしきその男は、眼鏡をかけて、黒いシャツに黒いズボンを穿いて、無表情にひとつうなずくと、くるりと背を向け廊下を奥へ歩き出す。列は彼のあとに従った。
通されたのは突き当たりの、会議室に似た大部屋だった。あらかじめ人数を聞いて知っていたようで、パイプ椅子が全部で8脚。2脚ごとに並んでいる。少年たちはそれらに座るよう指示され、戸惑う彼らが席に着くと、リーダーの男は前に残った。ほかは少年たちを囲むように室内の壁際へ立った。令の隣には颯平が座ったが、到着以来、よそ見をするな前を見ろと命じられてきたせいで、まじまじと顔を見合わせることは令にはためらわれた。
少年たちは皆、無意識に背筋を伸ばし、姿勢を正していた。椅子に裸身が当たらないよう、背の火傷をかばってのことだった。
そのうち、この部屋までの案内をした職員の男が彼らの前へ進み出、手にしていたファイルと彼らとを交互に見やりながら何かつぶやき始めた。
「全部で8名……確かに……えー……登録番号1313番代……出発港……よし。出発日……よし。出発時刻……よし。到着時刻……島時間で……よし」
それからファイルを閉じ、会釈をして、言った。
「えー……どうもこんにちは。僕は本島の入島管理局、新規入島者管理受付担当をしております……どうも……」
と始めて、茫洋とした語り口に継ぐ。
「皆さん、えーと……あ、このあとの流れについて、そちら警備隊長殿からご説明ありました? ……え? ああそうですか、まだでしたか隊長殿、失礼しました……では僕のほうから簡単に……と言いましても大したことはありません。このあと皆さんには医務局のほうで軽い身体検査を受けていただく程度です……バスがありますから乗ってください、歩くと長いですよ距離がありますので……刻印のほう、受けられましたよね? あれ放っておくと膿みますのでね、消毒も兼ねまして……でないときちんと反応しません……それから洗体と着替えのほう済ませていただいて、あとはほかの皆さんと一緒に日常生活を送っていただくばかりです。皆さん日々、さまざま励まれて精進なさるようお願いいたします……規律が肝要です……なにせこういう島ですから……では隊長殿、よろしく……どうも……」
と言って引き下がる。それからまたファイルをひらき、それに見入る。あとを受けたリーダーの男は警備隊長と呼ばれていたが、隊長はあらたまったふうに少年たちの前へ立つと、
「貴様ら、これで島の一員だ。貴様らの背にあるその刻印の意味を教えてやろう」
と告げた。令はごくりと生唾を飲んだ。そして刻印の形を思い浮かべる。
あれはアルファベットだった。アルファベットの2文字を折り重ねたような形。いびつな――大文字の――PとS。
「つまり、本島の名だ」
隊長の声が響いた。
「俺は横文字を好かないがな。Prison Society Island……PSという刻印は、そのかしらを取ってある。日本語で言うと監獄社会島……PSと背に刻まれた者は、その日より晴れて島の一員となる。本人の意思は関係ない。すでに述べてあるように、これは証だ。貴様ら、自分でよく分かっているだろう?」
静まり返った室内だった。少年たちの、押し黙った重たい空気が緩慢に流れている。令は目を伏せ、膝に置いた両手を見下ろした。
背が痛む。
隊長は口角を上げ、言った。
「本島へようこそ。
囚人諸君
」令は伏せた目を閉じ、すぐにひらき、そして隣を盗み見た。思いがけず、横目に颯平と、初めて視線がかち合った。視界の端に映った彼は、令よりやや小柄で、眉の上で切りそろえられた前髪に利発そうな瞳をして、彼は悪戯小僧のような薄笑みを浮かべて令を見ていた。何か言いたげな表情なのはおそらく、途中で打ち切られたままだった話題のことだろうか。英語は得意なほうだったと話した颯平は、刻まれたPSの意味を正しく予想できていたのかもしれない。
令は肩をすくめるふりをわずかにして、目をそらす。
顔を上げれば眼前には、仁王立ちの隊長と、その隣でファイルをひらく職員の男の、眼鏡の奥には気だるげなまなざしが控えていた。
べたついていたはずの令の半身からは、いつの間にか汗が引いている。