第22話

文字数 8,538文字

 令は硬直した。
 彼は背筋に杭を打ち込まれたかのように、驚きに目をみはり、衝撃に喉を詰まらせ、颯平を見つめた。
 颯平は無表情だった。目だけが、横で日を浴びている水面と同じように、まばゆく光っていた。
 令は、花火の上がる少し前、棟の陰で、だれかの足音を背後に聞いた気がしていたのを、事ここに至って鮮明に思い出した。そしてその際の自分の状態も、はっきり脳裏に浮かんできた。暗がりのなかであったにもかかわらず輪郭まで綺麗に浮かび上がったのは、景明か、治か久人か、相手も定かでないままに抱き合い、手当たり次第にキスを繰り返していた自分の、現実の姿だった。
 「なんだったの、ねえ、なんだったの。答えなよ、令、なんだったの」
 颯平が繰り返した。彼はもう幾度か同じ言葉を執拗に繰り返したが、令が羞恥と動揺のあまり、蒼白になったままひと言たりとも返事ができないことを見て取ると、その表情に変化が表れだした。
 「きみと、景明と、治と、久人だよね。僕、ちゃんと見たけどさ……変だよ、あれ。なんで男同士で、ああいうことするの? 変だよ。令ってさ、令っていうかきみたちさ、もしかしてみんなゲイなの?」
 「そ……颯平」
 「なんだっけ……ほら……あれなの?  ほら……ほら……ああそうだ。思い出した。
 LGBT。そう、みんなLGBTなの? そう言うんだよね? ここの子って、僕が知らなかっただけで、みんなそうなの? マイノリティーなの?」
 「ちが……」
 「だって変だよ。しかも四人でって、どういうこと? 何のプレイ? そういうの流行ってるの? ここだとそれが普通なの? 気持ち悪くないの? 女子がいないと、そういうの関係なくなるの?」
 「ちが……違うよ」
 「違くないよ。なにが違うの? だって、すごい楽しそうにしてたじゃん。きみたちがうれしそうにしてるの、僕、見てたんだよ。あんなの……今まで知らなかった。だってだれも教えてくれないから。僕には言ってくれなかったから」
 「待って、颯平」
 「なんなの? ほんと苛つくんだけど。みんな、ほんとは隠れて、僕には言わないで、みんなで一緒にああいうことしてるの? 令もそうなの? だけど僕には教えたくないんだ? そうなんでしょ?」
 「ねえ」
 「うるさい。黙ってよ」
 ふたりはまた沈黙した。颯平の一方の手が、生えている雑草を根もとからつかんでいた。その手の甲には数本の青白い血管が浮き出て、震えていた。
 颯平が怒っている。血管が透けて見えるほど怒っている。彼が怒っている相手は自分で、彼の怒りは自分へ向けられている。その事実に令は愕然とした。何も考えられなくなってしまった。ただ、動揺は不安を呼び、不安はまた新たな動揺を呼び、加速度をつけて膨れ上がる。
 颯平は憎悪に満ちたまなざしを令へ重ね、つかんでいた雑草をむしり取った。嫌な音がした。そしてその束を小川へ投げ捨てた。令は愕然としたまま、ぼんやりと、名も知らないそれらの草の一本一本が、はらりと透明な川面に触れ、流されていくのを眺めた。
 「ほんとうに嫌だ……苛々する……なんで?」
 颯平がつぶやいた。令はびくっとして、視線を戻した。
 「なんで?」
 颯平は問う。しかし令は答えられない。
 「なんで? なんで、みんな、なんで……なんで?」
 颯平は令を見た。目から光が消えていた。彼は腰を浮かし、膝を立て、両腕を令へと伸ばしざま、言った。
 「どうして僕ばっかり、仲間外れにするの?」
 次の一瞬が過ぎたとき、令の背を鈍い痛みが襲った。視界がふっと暗くなった。また次の一瞬で、彼は、今度は息が吸えないことに気がついた。
 颯平は、頭上から降りそそぐ陽光をさえぎり、地面へ突き倒した令の上に自身の影を落とし、その黒い影の中心で、彼の首を絞めていた。凄まじい力だった。体格の小柄な颯平のものとは思われない、野性的な、人の変わったような握力だった。
 「ねえ、なんで僕も入れてくれなかったの? 令、なんで僕を仲間外れにしたの?」
 「…………」
 「なんで? きみも僕が嫌い? きみも僕を仲間外れにしたいの? そんなに……そんなに僕がうざい? そんなに死んでほしい? 僕が死んだらうれしい?」
 「…………」
 「答えてよ、答えろよ、早く言えよ、僕を除け者にして陰で笑うなよ。僕ばっかり仲間外れにしないで、僕は仲間外れにされるのは嫌いだ、令」
 「…………」
 「どうして……僕が何をしたの? なんで? なんであいつらのために僕が死ななくちゃならないんだ、死ぬべきなのは僕じゃなくてあいつらだ、僕じゃない、僕は悪くない、僕じゃない、あいつらに生きる価値なんてない、死んで当然――あんな奴ら早く死ねばいい、消えればいい、だから」
 「そ……そう、へい……」
 「だから燃やしてやったんだ、全部……大嫌いだ……あんな奴ら、あんなところ、あんな塾、みんな……みんな死ねばいい!」
 令の唇から、咳のような、うめきのような、乾いたおかしな音が流れた。
 振り絞られた颯平の、苦痛とも怒りとも取れる激情の囁きが、それと重なった。
 令は意識を失いかけた。だがそれに瀕して、とある記憶の小さな小さなピースが――彼自身、特に気に留めてもいなかったような他人事のピースが、このときなぜか彼の脳の底から急に放り出されてきた。そのことが彼の失神をかろうじて阻んだ。
 それはいつだったか、世間の話題を大いにさらったニュースだった。神妙な顔つきをして、両手を前に組み合わせて、「少年による凶行」や「加害者の闇」や、「心のケア」を語る大人たちの姿が眼前にちらついた。
 彼らは必ずしも黒い服を着ていなかった。綺麗な柄のネクタイや、純白のシャツや、その胸ポケットから覗くつやつやとしたハンカチみたいな布。それから、ぼろぼろに焼け焦げた外壁や看板、割れた窓、「取材に基づくイメージ」と称された、建物内部の見取り図とともに映像のテロップが、おぼろげながらも大写しとなってよみがえる。
 「大手進学塾から出火 多数が意識不明の重体」
 「進学塾火災 死傷者数十名 放火か」
 「同塾へ通う11歳の少年 クラスメイトへの恨み募らせ」
 「背後にいじめ 少年は自宅に複数のライターを所持」
 テロップが消え、令の器官はふたたび妙な音を上げた。全身が一度、痙攣した。だがその痙攣も、彼へと覆いかぶさる颯平の体重によって押さえつけられ、弱々しかった。令は必死になって右腕を上げ、自身の頸部にきつく巻きついている颯平の手をつかみ、一方の膝で彼を蹴った。どこに当たったのか、分からなかったが、圧迫の力が少し緩み、その間に令は颯平を懸命に押しのけた。満身の力をこめて抵抗し、とうとう彼はその場に跳ね起きた。
 目に映る光景は、数分前と変わらなかった。白昼の炎天はうだるような残暑だったし、小川の流れも、湿ったような地面から立ち上る雑草と土の匂いも、整列して微風に揺らいでいる黄色い稲穂も、山の静寂も、すべてが平和的にそのままだった。
 颯平は膝立ちになり、肩を上下させ、はあはあと荒い呼吸をしていた。令は発作を起こしたように咳き込んだが、だれかに聞きとめられたらと、こんな事態となってなお、音を気にして口もとへ手をやった。首筋はひどくうずき、冷や汗が噴き出て、止まらない。
 「颯平……」
 かぼそい声で呼んだが、視界がぼやけて焦点が合わなかった。
 強い眩暈。令はうずくまった。
 「令、ねえ令、顔上げてよ。こっち見てよ、令」
 息を乱し、颯平はふらりといざり寄り、令の前で呼び続ける。日ごろの癖か、それまで一貫して低い囁きにとどめられてきた彼の声が徐々に大きくなっていく。調子っぱずれに、ついに決壊を見た堤防からあふれる、濁流のように。
 「令、なんか言ってよ、答えてよ、ねえ、ねえ」
 彼はうずくまる令の肩を突き、よろめかせ、ふたたびその首に両手を巻きつけようと迫りながら、
 「ねえ、ねえ、ねえ、答えてよ、謝ってよ、ねえ、ねえ、令、シカトしないで、令……謝れ……僕に謝れ……令!」
 頸動脈に彼の指がかかった。ぐうっと押し込まれた。
 瞬間、令の中で過去が弾けた。巨大な水晶玉のようだったそれが、大きく弾け、粉々になった透明の断片のいくつかを、瞳の奥に彼は見た。
 血走った目をぎらつかせて、振り下ろされるもの。
 暖色のライト。
 散らばる黒髪。すすり泣き。
 椅子の角。テーブルの角。
 割れた花瓶。生ぬるい水。
 断片に映った令が、頭上を見上げて懇願している。
 やめて。
 やめて、やめて、やめて。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 ごめんなさい。ごめんなさい。僕がいて、ごめんなさい……。
 断片は、それらを見ている令めがけて飛んできた。鋭利な切っ先を光らせて、謝れ! と叫び、口汚くののしり、突き刺そうと……。
 「ねえ、なんで? なんでなの? ねえ、ねえ、ねえ、令、嫌だよ、謝れ、謝ってよ、令!」
 「颯平!」
 令は腹からこみ上げてきた絶叫をこらえ、無我夢中で彼の手首をつかんだ。そして引きはがしざま、汗をしたたらせ、彼を斜面へ押しつけた。追い詰められた獲物が、一か八か、死ぬ気で抵抗するさまに似ていた。
 「令!」
 「黙って! 静かにして……!」
 令は彼の口と鼻を手で塞いだ。全力で押しつけた。そしてしばし喘ぎ、深呼吸をし、一方で窒息しかけたふうに目をゆがめて苦しんでいる颯平を身体ごと斜面へ固定し、口もとから手を離すが早いか、令は、彼へキスをした。
 それは深いキスだった。最初から、令がそうした。どちらのものか分からない汗で、中は少し塩からい。
 令はあの夜、颯平が見て、しかし体験できなかったことを最大限、再現するべく、精一杯の努力をした。全身に広がっていた疼痛を強いて追いやり、やり方を思い出しながら、令は彼を感じ、舌を絡め、その感覚を彼へ伝えることに神経を残らず傾けた。口を解放すればまた声を大きくされそうで、そうはさせまいと、令はひたすらに彼を捕まえ続けた。
 颯平は初め、令の下で抵抗した。そんなもの要らないとでも言うように、手足をばたつかせ、のがれようとした。だがもともと令のほうが上背があったから、この体勢と体格差ではかなわず、やがて彼はぐったりとして力が抜けたようになった。
 さらに経つと、彼は令の背に手を添えた。そしてつたないながらに、令に応じ始めた。
 汗まみれの颯平を、令は抱きしめ、自分のほうの濡れた服を押し当て、張りついた前髪で、彼の額に優しく触れた。ふたりはいつしか颯平の耳もとに手を握り合い、痛いほど指を重ね、互いの吐息を聞いていた。
 やがて令は舌を離し、ごめん、と囁いた。
 「ごめん、颯平。ごめんね、怒らないで。お願いだから……怒らないで……ほんとうにごめん」
 声が震えた。
 「ごめん。ごめんね。ごめんね颯平。仲間外れになんてしないよ。絶対、しないよ。だからお願い、怒らないで。俺、きみと一緒にいたいよ。また今までどおり、いたいよ。仲間外れじゃない、きみも一緒だよ。俺と一緒……仲間外れじゃない……だから怒らないで。お願いだから……お願い……」
 それ以上、声がもたなかった。だがそのとき、令は、颯平を見下げて、彼の目尻に大粒の玉が光っているのを発見した。
 令は、自分の汗が、彼へ落ちたのだと思った。だが違った。粒はひとりでにみるみる盛り上がり、支えきれなくなって形を失い、彼の目尻からつたい流れた。するとそこに新たな粒が生まれた。
 颯平は泣いていた。
 「ごめん……ごめん、令……僕……」
 ひくっと喉を鳴らし、颯平は腕で自分の両目を覆った。
 「ごめん……ごめん……だって僕……ごめんね……」
 涙混じりの声を詰まらせ、彼の腕や、唇や、手の指は小刻みにわなないていた。
 令は息をのんで見つめた。それから我を忘れて彼の腕を取り払うと、慌てて起き上がらせ、まるで一刻を争うかのように力いっぱい、抱きしめた。颯平は嗚咽した。そして赤くなっていた令の首もとに額を押しつけ、止まらない震えを彼の腕中へ預けた。
 「颯平、ねえ颯平、聞いて、だいじょうぶ、颯平……だいじょうぶだよ」
 令は繰り返した。
 「きみひとりを、仲間外れになんてしないよ。ねえ颯平、きみも俺も、みんな仲間だ。みんな、それを分かってるよ、颯平だって分かってるでしょ? だって、ここは外地じゃない。だから、だいじょうぶなんだよ、外地のことなんて思い出さないでいいんだよ。みんな言ってた、そうやって……破綻は、みんなのものだって。ひとりのものじゃないって。だから俺も颯平も、一緒だよ。もう安心していいんだよ……」
 令は、自分も泣きそうになりながら、そして自らにも言い聞かせるように言葉を継ぎながら、震え続ける彼の身を一生懸命にさすった。
 「ね、颯平……だいじょうぶ……あのとき……ほんとにごめんね……俺、足音、聞いたのに、きみだって気づけなくて……ごめんね……でも、だいじょうぶ……颯平……だいじょうぶ……一緒だから……ね……」
 一語、継ぐごとに颯平はうなずき、うん……うん……と答えた。令の襟もとは彼の涙に濡れ、草色が抹茶色に変わった。ふたりはしばし抱き合い、ゆっくりと呼吸をした。小川は相も変わらず、気ままなせせらぎの音を聞かせていた。
 やがて颯平は顔を離し、令を見た。つきものが取れたかのように、彼はぱちぱち瞬きをして、少し茫然としたふうに眼前の令を見つめていた。そして、恥ずかしげに笑った。令は心底から安堵した。だが、代わりに首の痛みが戻ってきたことに苦笑し、そこへ手をやった。颯平は、彼のその手に、自分の手の平を重ねて言った。
 「ごめんね」
 令は答えようと口をひらいた。だがそのとき、頭上の稲田からがさりと音が聞こえたので、ふたりははっとして緊張した。
 その音は彼らの真上からではなく、彼らも通ってきた細いあぜ道から聞こえた。だれか来た、と思う間もなくふたりは無言にそのほうを注視した。稲穂がたわむと、そこから少年の姿がちらと見えた。その顔をみとめたとき、そしてだれか分かったとき、令の目は丸くなった。
 長身の万李夢だった。肩に鍬をかついでいる。彼はすらりとした体躯を伸ばし、眼鏡の奥から、小川のそばに座り込んでいるふたりを斜めにうかがった。彼は、泣きはらしたような目をして着衣を乱した颯平と、その彼と至近距離に向き合っている令を見るなり、ぎょっとして、次には呆れた顔をした。だが、何やらただならぬ雰囲気も同時に察したようで、彼らしい、いかにも面倒くさそうな、気だるげな視線でふたりを見つめ、首をかしげた。喧嘩ならよそでやってよ、なんで今なの、とでも言いたげな表情だった。
 「万李夢……」
 令がつぶやいたとき、突然、教官の大声が、向こうから稲田を突っ切って響いてきた。
 「おい、そこ! どうした! 何かあったのか!」
 万李夢はくるりと振り返り、叫んだ。
 「いいえ先生! 何でもありません! 音がしたので猪かと思ったら、何もいませんでした!」
 万李夢は鍬をかつぎ直し、身を固まらせていた令と颯平を素早く見やり、「さっさと戻れ」と目顔で示した。そして自分は何食わぬ顔をして、あぜ道を走っていった。
 彼の足音が消えたあと、ふたりは互いを見つめ、大きくうなずき合った。そして斜面を這い登ると、身をかがめてあぜ道と稲田をうかがった。それから大急ぎに畑へ戻ると、万李夢にならい、何食わぬ顔をして作業を再開させた。ただし何事もなかったと言うにしては颯平の目は赤すぎたし、また令の首回りも同様、妙な具合に赤く色づいていたのだったが。
 教室へ戻ってから、令は不安そうにしている颯平の手を引き、自分の席まで連れていった。そして自分の代わりに彼をそこへ座らせ、自分はそばに立って彼の肩へ手を置いた。
 「颯平がね、もとに戻ったよ」
 令が言うと、教室内の多数の視線がその囁きをとらえ、颯平のほうを見た。近くで聞いた寛二は椅子から身を乗り出して、
 「治ったのか、颯平。治ったんだな、治ったんだな」
 と驚き顔に、同じことを幾度も言った。反対に、治は何も言わなかった。彼はただ、令と颯平を代わる代わる見つめ、ははあ、というような薄笑いを浮かべた。そして最後にひと言、「何よりだよ」と楽しそうに口走って、ふいに黙り、また笑った。
 禄太は久人とやってきて、どうして近ごろあんなに怒っていたのか、どうしていつものとおりに話してくれなかったのかと理由を尋ねた。颯平はどぎまぎして、頬を染め、えっと……とか、ちょっと……と肩をすぼめて言いよどんでいたのを、横から令が助けた。
 「急に心配になったんだって。これからも、ここで、ちゃんと暮らしていけるのかなって……ほら、納涼祭もあったし、夏も終わるし、ちょっと疲れて、それで心配になっちゃったんだよ。みんなと、これからも仲良くできるのかなって、そういう心配……ね? 颯平」
 颯平はますます頬を染め、うつむき、こくりと首を縦に振った。すると禄太は拍子抜けがしたように、特大のため息をついて、彼の両肩を背後から揺さぶりながら、馬鹿、と言った。彼はどうやら令の言葉を、言葉どおり素直に受け取ったようだった。
 「心配すんな、馬鹿、俺も心配になるじゃあねえかよ。仲良くできるかって、そんなもん、お前もここにいるんだから、できるに決まってんだろ、馬鹿、余計なこと考えるから心配になるんだ」
 と叱りつける彼の隣で、久人は静かに微笑していた。彼は令と目を合わせ、それから禄太を押しとどめると、颯平の頭をそっと撫でた。
 気がついていたのか、違うのか、颯平の不自然に赤い目と令の赤い首について、触れようとするクラスメイトはいなかった。ふたりのあいだに流れる空気を感じ取って、触れづらかったのかもしれない。しかし全員が着席し、本鈴が鳴る直前、令は治の視線を首もとに察知したので、彼の耳にはこう囁いておいた。
 「喧嘩して、仲直りしたんだよ。ちょっと泣いちゃった。部屋で万李夢に言っといて、俺と颯平から……ありがとうって」
 治はほほえみ、了解、と言った。
 翌朝、治はこんな返答を持って令のもとへやってきた。早速、伝言を果たしてくれたらしい。
 「あのときは、たまたま。次は助けてやらないから。……だそうだよ。きみたち、田んぼの土手に隠れていたんだって? 気にかかって見に行くまでは、ほんとうに猪かと思ったって話だよ……」
 治は、手紙の件から始まって、令の頼みを聞いているうち、いつしか万李夢が、共有する居住部屋でもっともよく話す少年になってしまったという。
 颯平は、ひと晩、またひと晩と経つうち、一週間も過ぎたころには以前とまったく変わらない調子で過ごすようになった。ただし、心なしかクラスメイトとのスキンシップが増えた。彼はこれまで、だれかと話すにも一定の距離を保ったし、必要に迫られたときや、感情が高まったときを除けば、自ら積極的にほかの少年の身体に触れようとはしなかった。ある意味で彼はフラットであり、ある意味でドライだった。
 それが、相手と何気なく手をつないだり、肩を寄せ合ったり、腕を絡ませたりするようになった。肉体的に甘えたがるそぶりを、見せるようになった。そして、防御壁の取り除かれたようなその親密な傾向は、そういった些細な変化を得た彼のようすに比例していくかのように、クラス全体に波及し、また定着していくようでもあった。令の場合は、何かの折に、椅子に座る自分の膝に彼を引き寄せて載せたり、背中から抱きしめたり、そういうことを、平然とやって、それを当たり前と思うようになった。ほかのクラスメイトも同様だった。
 朝、あるいは夕、皆それぞれに、囁き合いの節々で、自分より体格の良い少年に抱きつく。寄りかかって身を預ける。または自分より小柄な少年を腕に収める。その状態で会話を続ける。まるで、触れ合っていると安心できる。眠いとき、疲れているとき、なんとなく気持ちが明るくなれないとき、あるいは泣きたいとき。たとえ小指の一本でもだれかと密着していると、それだけで身体が軽くなり、楽になるとでも言うように、彼らは日常を送った。だがそれが、事実、颯平がきっかけとなって起きた変化なのかどうかは定かでない。もしかすると、単純に季節が移ろい始め、ひやりとした涼しい風の吹きつけることが、増えてきたせいなのかもしれなかった。
 月の下旬にさしかかると、聞いていたとおり、稲穂は自重でしなるほど頭を垂れ、見るからに重そうに、ふさふさと実った。稲田は一面、黄金に色づいた。
 刈り取りは、主に年長者の担当だった。少年の手だけでちまちま刈っていては、一日にまとまった収穫を上げられないので、日時を決め、居住区Cからも応援が来るという。広和や義正が、令へそう教えた。
 労働の終わり、あぜ道を歩いて居住棟へ戻りながら、夕焼けに照らされた金色の稲田に、時折、目がくらむことがあった。綺麗だね、と少年たちは列の前後に言い合いながら、そういうときは大抵、汗と土とにしわくちゃになった相手の袖を引く。
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