第24話

文字数 4,310文字

 浴槽に湯は張られていなかった。寛二は残念そうだった。
 「なんだあ、からっぽか」
 「そうだよ、今はだれも入らないんだから。お湯が無駄になっちゃうよ。掃除もできないし」
 と言いながら令は、湯のない、タイルのむき出しになった巨大な四角い穴を眺めた。
 壁の上部に大きな硝子窓が並んでいるものの、この天気だからか採光に乏しく、かと言って電灯も点いていないので浴場は全体に薄暗かった。そこだけ時が止まったかのように、白っぽく、あるいは灰色に空中の浮遊物を際立たせて、冷たい空気に満たされていた。
 令は浴槽の奥の壁、ほとんど天井近くに取り付けられている時計を見た。水泳場によくあるような、存在感のある白い丸型で、目を凝らすと秒針はしっかり動いていた。
 令はズボンの裾と、袖口をまくり上げた。すでに上衣を脱ぎ始めている少年もいた。
 榊原から、浴場掃除の方法に関する特別な指導があるのかと思いきや、彼はまったくの無関心だった。今日だけのことだから、まあなんでもいい、好きなようにやれという気持ちの表れだろうか。なので少年たちは用具入れからめいめいに持ち出したデッキブラシや雑巾や、スポンジやたわしを相棒に、除菌用洗剤を至るところにばらまいたり、吹きかけたりしながら掃除を始めた。令は寛二に背を押されて、とりあえず浴槽の中をこすることになったのだが、一方では景明が気になって仕方なかった。景明は布巾を手に、何人かと連れ立って洗い場の奥へと姿を消した。そちらには確か色つき硝子の埋め込まれた巨大な窓があるので、そのほうを拭いていくつもりらしかった。
 洗剤の強い匂いが、あたりに漂い始めた。水浸しになった床や浴槽に、白いふつふつとした泡の塊が流れていく。
 令は手を休め、デッキブラシの柄に突いた両手に顎を載せ、息を吸った。
 少し、吸いづらかった。空気まで消毒されている気がした。
 落ち着いて見回してみると、なかなかに雰囲気のある浴場ではあった。白い柱もただの柱ではなく彫刻のように凝った装飾がなされてあるし、洗い場を区切る壁はわざわざアーチ形にくり抜かれてあるし、洋風のデザインと言っても今どきのものではなく、なんだか大昔のヨーロッパの神殿を思わせた。ほかに、柱と同じ色をした何かの彫像でも置いてあれば、ますます古代の神殿らしくなるかもしれない。
 普段、入浴日が回ってくると、令はここへ来てこの浴槽に浸かるが、そのときはとてもこんなふうに悠長に周りを眺めていられない。場内にはもうもうと湯気が立ちこめ、夜、窓硝子は電灯を反射して黒光りし、水滴がしたたり、洗い場からは慌ただしく湯の流れる音が聞こえ続ける。まったく荘厳な神殿とは似ても似つかない様相だし、何より急いでいる。脱衣場からその日の監督教官の「あと5分!」とか「あと3分!」とかいう叫び声が響いてくるのだから、そんな細かい造作を観察している暇があるなら一秒でも長く身体や髪を洗っていたいし、湯の中に入っていたいというのが正直なところだった。
 彼は洗剤に裸足を取られそうになりながら、しばらく槽内の床をこすった。やり始めると無心になって、ひたすら床のタイルの継ぎ目ばかり見ていたが、ふと話し声がして顔を上げると、景明たちが戻ってきた。彼はほかの少年と一緒に、何枚かの布巾を洗い場でゆすいでは、絞っていた。
 令が背筋を伸ばして見つめていると、滑るように寛二がやってきた。
 「令。なに見てる?」
 令は唇に指を当て、景明……と囁いた。すると寛二は目を輝かせて「景明」という言葉に反応した。彼は顔を寄せ、小声に、
 「景明か。景明がいるのか、お前がよく言ってる奴……どれだ? どいつが、そうだ?」
 「そっか、寛二、まだちゃんと見たことなかったね。あの子だよ……」
 「どれだあ?」
 「静かに。ほら、あれ……今、ちょうど蛇口をひねったばっかの子……色白の……」
 「ああ、分かった。あいつか……やっと分かったぞ……そうか、あいつが景明っていうのか……そうか……」
 と、ひそひそ交わしながら、ふたりは景明のほうを盗み見ていたが、やがて彼が蛇口の前から立ち上がったのでふたりとも目を逸らし、掃除へ戻った。寛二が硬いスポンジを使っていて大変そうだったので、令は自分のデッキブラシと交換してやった。そして時間を確認し、今度は槽内の壁に取りかかった。
 磨き終えるころ、令は自身の内側から発する熱で暑さを覚えた。しかし汗はそれほどかいていない。腰を上げると一瞬、立ちくらみがした。見渡すと、やはり暑いのか、上衣を脱ぎ去り腰に巻いている少年たちが目についた。開始前に榊原の言ったことが思い出された。
 使ったスポンジを洗おうと、令は浴槽を出た。ついでに寛二にひと言、声をかけていこうかと探した。すると彼は時計の下で、デッキブラシに身を預け、令の知らない少年と何やら話し込んでいた。つまりは榊原がいないのをいいことにさぼっているわけだが、監視がないのだからつい休みたくなるのも分かる。
 令はそのまま洗い場へ向かった。
 浴槽からなるべく近い列を選んで――そういう列は、実際の入浴時にも人気があるので取り合いになるのだが――蛇口をひねってスポンジを洗った。
 洗いながら、彼は景明のことを考えた。榊原の目がないのなら、見つけて、そばへ行って、残りの時間を一緒に掃除しようと誘ったらどうだろう。迷惑だろうか。邪魔になるだろうか……でも……と思案を重ねながら、令はすぐにでも振り向いて彼の姿を探したいのをこらえ、水を止めた。景明のこととなると、なぜか令は、いつもより慎重になる。
 立ち上がると同時に、寛二に呼ばれた。彼は先ほど話していた相手の少年を連れていて、ふたりは令のそばまでやってきた。
 こちらを見てほほえんでいる、もうひとりの少年は、令にはまったく覚えがなかった。
 背が高い。たぶん万李夢ほど長身ではないが、高いほうだろう。やや茶色がかった髪は軽そうで、うっすらウェーブしていて、それが肩のあたりまで伸びている。毛束が緩くウェーブしている、作ったようなこの髪質は令と似ていた。令の場合は生まれつきで、特に何をしているわけでもなかったが、外地では周りの人間から「セットしてあるのか」と訊かれたり、からかわれたりして、それが彼は嫌だった。
 少年は、からのバケツを持っていたが、もう一方の手で額から髪をかき上げる仕草をした。
 寛二が言った。
 「令、こいつは成明だ。景明じゃないぞ」
 すると少年が苦笑し、令を見た。
 「そう。景明じゃなくて、成明。ちょっと惜しかったね。こんにちは、令。きみのこと、寛二から部屋で聞いてたよ。きみら、同じクラスなんだよね」
 「う、うん……そうだけど……えっと……」
 「僕のこと、知らない? や、知らないか」
 「いや……えっと……成明……成明、って……」
 「いつだったっけ、『お前は景明じゃないな。成明だな?』って、寛二に訊かれたときがあって。どうしてそんな分かりきったこと訊くのかって言ったら、同じクラスの令って子が、景明を探してるから……成明じゃなくて、景明、ね」
 「あ……あっ、分かった! 分かったよ」
 「令。お前、忘れてたのかあ」
 「いやいや、忘れてない、忘れてないよ寛二。きみ、すごい考えてくれたしね、あのとき……似た名前の子が部屋にいるって……」
 令は慌てて取り繕い、記憶を整理した。そして、そうか、この少年が成明……寛二と、第4棟の居住部屋を共有している少年のうちのひとりかと理解した。振り返れば数ヵ月前、令が初めて景明と話した神社の清掃日、令は教室へ戻ってから、治と寛二に「第3棟の景明を知らないか」と尋ねた。その際、治は第3棟に部屋があるのでいいとして、寛二は棟番号からしてすでに違うのに「自分は知っている」と得意の見栄を切って、そのとき彼の口から挙がった少年の名が成明だった。なるほど確かに似てはいたが、もちろん景明ではないことに変わりはなく……。
 「寛二ね、部屋にいると寝てばっかりのくせにさ、そのときに限って急に話しかけてきて、『お前は成明だな。景明じゃないな』って放してくれなくて。もうびっくりしたし、大変だったよ、どういうことか訊き出すの……だから、きみと景明の名前は自然に覚えちゃったんだ。しかもさっき話してたら、今日はたまたまそのふたりが、ふたりともここにいるって言うから」
 「そっか、成明。よろしくね。年は?」
 「きみたちより、ひとつ上だよ」
 「あっ、じゃあ広和とか義正と同じだね。クラスも一緒かな」
 「広和……義正……うーん、どうだろう? 聞き覚えがないから違う気がするな。でも僕も全員の名前を知っているわけじゃないから、もしかしたら同じかもね」
 「お、景明……いた、いた。お前、景明ぃ、ちょっと来い」
 寛二がうれしそうに呼んだ先に、景明が立っていた。洗い場の、隣の列から出てきたところだったらしい。彼は上衣を脱いではいなかったが、ボタンをすべて外し、前をあけていた。膝下までまくられたズボンの裾が濡れていた。
 景明は不思議そうな顔で応じたが、そこに令がいるのを見ると、三人へほのかな笑みを向け、こちらへと歩いてきた。
 「令。ふたりは、きみの……?」
 「うん。こっちは俺と同じクラスの寛二。それでこっちは、俺も今、初めて話したところなんだけど、寛二と同じ部屋の、あのね、名前が成明っていって……」
 それから令と寛二が交代で事情を説明し、成明があいさつをした。聞いているあいだ、景明は面白そうにくすくす笑い、聞き終わると言った。
 「僕の知らないうちに、いろいろなところで、友人が増えていくね。楽しいよ……」
 四人は話を続けようとしたが、そのとき出入り口の戸が引きあけられた音がしたので榊原かと思い、彼らを含めほかにも無駄話を繰り広げていた少年たちが皆ぎくっとしてそちらを見た。しかし入ってきたのは脱衣場の掃除を先に終えたらしい、数人の少年たちだった。
 成明が持っていたバケツを掲げ、年長らしく、「気づかれないうちに戻ろう」と笑った。それから寛二をうながした。このあと何人かでバケツやホースを使って、浴槽の泡を流すのだという。
 令はとっさに、
 「じゃあ俺、こっちのほう、洗い場を手伝うよ。景明の……」
 と勢いで言ってしまってから、景明を見た。
 景明は微笑し、ゆっくりうなずいた。
 水ではなく、湯を使って作業をしている少年もいるのだろうか。
 ホースを取りに行きがてら、寛二が「暑いぞ暑いぞ」と言い、上衣を脱ぎ去って、それを天井へ向け高くほうったのを、令は視界の端でとらえた。
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