案内人と管理人(四)

文字数 2,587文字

「くそっ」

 俺と管理人との距離は十メートル程だ。相手が軌道を読んだとしても、もう少し近付けば矢の速度に反応できなくなるかもしれない。
 だが……。

 俺は迷った。管理人の間合いの広さをまだ測れていなかったから。
 奴の鎌は刃も長ければ、柄も身長を超えるくらいに長い。フルスイングした際に、何処まで刃先が届くのだろう。
 うかつに近付いてしまったが最後、矢を放つ前に切り刻まれるかもしれない。

「キ、キミ……。ひっ!?

 俺は動けなかった。管理人の鎌が男の首に当てられても。

「お願い、助け……ぐびゃっ!」

 男は手を伸ばしたままのポーズで、管理人の鎌に首を刎ねられた。断面から噴き出した鮮血が周囲を赤く染めた。
 その光景は現世と変わらない。人が殺された瞬間だった。

「あ、ああ……」

 俺は男を見殺しにしてしまった。
 靴職人を目指していた名前も知らない青年。

!?

 首を無くして動きを止めた男の身体は、一瞬黒いモヤに包まれて、それから霧散した。
 後に残ったのはか細く光る球体。二、三度回転した球体は、男の血を吸ったはずの大地へゆっくり沈んでいった。赤い色はもう消えていたが。

 確実に死んだ魂は、地獄の下の階層へ落ちる。
 案内鳥に教えてもらったことだ。

 俺が居るここは地獄の入口。だからまだ現世に戻るチャンスが残っている。
 しかしあの男は、不安で押し潰されそうだった気弱なあの青年は、全ての望みを絶たれて完全に地獄へ落ちた。

「……ごめん」

 何に対して俺は謝罪したのだろう。
 見殺しにしたこと? 管理人に勝てなかったこと? 一緒に居るという約束を果たせなかったこと? 

 俺は(きびす)を返して走り出した。
 管理人は当然追い掛けてきた。俺のことも男と同じように殺したいのだろう。
 そうはいくか。やられてたまるか。
 俺や男は、戦争に参加したからここへ来たのか?
 人間同士で争うことはそんなに罪深いのか?
 だったらここは何だ。殺し合いですらない、管理人による一方的な狩りが行われているじゃないか。

 無数の小さな丘群が屋根の役割をしてくれて、空を飛べる管理人から俺の姿を隠してくれた。
 奴は手当たり次第に丘を破壊して俺を捜していた。ご苦労なことだ。その隙にできるだけ遠くまで逃げなければ。
 しかし、全力で走る俺の下の地面が急に消えた。

(崖っ!?)

 気づいたのが遅かった。直角ではなかったのが幸いだが、それでも六十度くらいの急斜面を俺は転がり落ちた。
 下へ、下へ。
 何度も天地が入れ替わり、激しく身体を打ち付けて、ようやく止まれた場所は大きな川の側の湿地帯だった。

「くはっ……」

 全身が痛かった。息もしにくい。魂に適用されるか知らないが、骨が何本か折れている感覚だった。
 草がクッションになってくれなかったら、管理人の鎌を待つまでもなく死亡していた。
 左手に握っていた弓はへし折れ、担いでいた矢筒の中身は途中で全部撒き散らしてしまっていた。
 絶体絶命だ。
 戦えない、逃げられない。
 崖を落ちたことで管理人との距離は開いたが、あいにく崖下は見晴らしの良い場所だった。
 空を制する奴にとっての絶好の狩り場だ。

 やられるのか? 俺。
 死んでいいのか? ここで?

「くぅっ……」

 諦め切れず、俺は悪あがきをした。
 唯一まともに動く右手を支えに、身体を起こそうとした。
 死んでたまるか。

「…………っ!」

 わずかに上半身が持ち上がったところで、俺の軍服の襟首を誰かが背後から掴んだ。

(は?)

 そのまま誰かは俺を後ろ向きに引き()り、背丈の高い草が生えている所へ連れていった。
 俺はそこに寝かされ、上から草を被せられた。
 一連の動作が素早く手際良く行われたので、俺は自分の置かれている状況が判らなかった。

「あ、あの……?」
「静かに。そこでじっとして、管理人をやり過ごすんだ」

 低い男の声がした。靴職人の青年とは違う、落ち着いた中年男性の声だった。
 ここで俺はようやく、この人物が俺を助けようとしてくれるのだと解った。
 しかし、それなら……。
 先程チラリと見えた男は鎧を装着しており、下の服は州央(スオウ)の軍服に似ていた。それも高官が身に着ける上等なものだ。
 州央(スオウ)の高官が、桜里(オウリ)下級兵の俺をわざわざ助けるだろうか?

 バサバサと音がした。男も自分の身体に草を撒き、俺の隣に寝転んだようだ。
 彼に聞きたいことがいろいろ有ったが、身体の痛みと緊迫した状況がそれを許さなかった。

「来たぞ……。決して動くなよ」

 草の隙間から外を窺うと、上空を旋回している管理人の姿が見えた。
 忌々しい、まさに死の神と呼ぶに相応しい存在。
 悔しいことに、たとえ身体と武器が無事だとしても、俺では奴に勝てそうにない。

「……………………」 

 俺と男はじっと待つことしかできなかった。
 大丈夫だろうか、草の間から身体が見えてしまっていないだろうか?
 たいした時間ではなかったはずだが、妙に長く感じた。
 必要が無いのに、思わず息を止めてしまった。

「……………………」

 管理人はしばらく付近を飛び回っていたが、やがて俺を捜すことを諦めたのか、遠い空へ去っていった。

「ぷはぁっ!」

 安堵感から俺は大きく息を吐き出し、反動でまた吸った。
 胸が痛んだ。絶対に肋骨が折れている。

「もう大丈夫のようだな」

 男が草を払い、起き上がる音がした。俺も続こうとしたが上手く払えず、もがいた。そうだ、右手しか使えないんだった。

「ああ、無理をするな。崖から落ちたのだから」

 男は俺の身体の上の草も払ってくれた。

「す、すみません……」

 顔の草が取り除かれて、久し振りに視界が広くなった。
 俺は命の恩人に礼を言おうと男を見て、息を呑んだ。
 管理人に遭遇した時以上の衝撃だったのかもしれない。

「傷が痛むんだな。しばらくそうして休んでいるといい」

 俺の固まった表情を、男は痛みから来るものだと勘違いした。
 男は手拭きを川の水で濡らし、俺に差し出した。

「魂となった身に効果が有るかは判らんが、これで痛む所を冷やすといい」

 何も知らない男は俺に親切だった。
 よりによって、どうしてあんたなんだよ。俺はこの巡り合わせを呪った。

「どうかしたのか?」
「……いえ、ありがとうございます」

 俺は言えなかった。言える訳がないだろう。

 俺が地獄で二人目に出会った男は、真木(マキ)イサハヤ。
 俺が討ち、地獄へ落とした敵の大将だった。
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