第1話 ファーストキス

文字数 2,394文字

「私……キスしたんだ……」




 夢の中にいるようで、頭がふわふわしていた。

 ――胸の鼓動がおさまらない。

 泳いだ後の様に重い体。脱力感が半端ない。
 それなのに足取りは軽やかで、そのまま宙に浮いてしまいそうな……不思議な感覚だった。




 赤澤花恋(あかざわかれん)。高校2年の17歳。

 夏休み前、終業式の今日。
 いつものように幼馴染の同級生、黒木蓮司(くろきれんじ)と寄り道をした。

 子供の頃からずっと一緒だった二人。名前に「レン」が入っている二人は、互いのことを「レン」と呼び合い、その仲睦まじい姿は近所でも有名だった。

 近所にある人気のない神社。
 付き合い始めて半年になる二人は、学校帰りにいつもここに来ていた。
 他愛もない日常の出来事や愚痴を話し、互いの気持ちを共有する。
 とは言え、話すのはいつも(れん)の方だった。
 無口な(れん)(れん)の話を聞き、静かに笑ってうなずいていた。

 しかし今日。
 (れん)の様子が少し違っていた。
 いつもの様にオチのない話を続ける(れん)も、その様子に気付き声をかけた。

「ちょっと(れん)くん、聞いてる?」

「う、うん、聞いてるよ」

「ほんとに? だったら京ちゃんが何したか言ってみてよ」

「……ごめん、分からない」

「ほらー。もう、どうしちゃったのよ。今日の(れん)くん、ちょっと変だよ。もしかして具合でも悪い?」

「そんなことは」

「ほんとに?」

 そう言って(れん)の額に手を当てると、少し熱く感じた。

「もしかして熱あるの? 帰る?」

 心配そうに(れん)の顔を覗き込む。
 その時だった。
 額に当てられた手を(れん)がつかみ、そのまま握り締めた。

「……(れん)くん?」

 (れん)は大きく息を吐くと(れん)に向き合い、肩に手をやった。

 いつも物静かで穏やかな(れん)
 ずっと想ってきた初恋の相手。
 半年前、泣きそうな顔で告白してくれた、気弱でかわいい幼馴染。
 しかし今の(れん)は、何かを決意したような強い視線で(れん)を見つめていた。



 こんな(れん)くん、見たことがない。



 ゆっくりと(れん)が近付いてくる。その時初めて、(れん)は何をされるのかを悟った。

 夢にまで見た、(れん)とのキス。

 人気のないこの神社に来ていたのも、その為だった。
 いつなんだろう。今日だろうか、明日だろうか。
 ずっと思っていた。
 しかし女の自分から言える訳がない。
 こういうことは男からするものなんだ。そう思い、ずっと待っていた。

 ついに、ついに(れん)くんとキス、するんだ……

 (れん)が静かに目を閉じる。
 (れん)の息が間近に迫る。

 そして。

 (れん)の唇の感触が伝わってきた。

 その瞬間、(れん)は全身に電気が走るような感覚を覚えた。
 待ち望んでいた瞬間。
 それなのに心の中には、満足感と同時に「怖い」という気持ちが生まれていた。
 歯がカチカチと音を立てる。



 ――初めての経験って、こんな感じなんだろうか。



 しかしやがて、その感情は静かに消えていった。

「……」

 頬に伝わる一筋の涙。
 それは(れん)の中に生まれた、満ち足りた幸福感だった。

 ああ、私は幸せだ。
 もう何もいらない。
 私には(れん)くんがいる。
 それだけでいい。

 唇が静かに離れる。
 (れん)がゆっくりと目を開けると、涙のせいで(れん)の顔が歪んで見えた。
 その時初めて、自分が泣いていることに気付いた。

「あははっ……ごめんね、私ったら」

 そう言って涙を拭う。

「……ご、ごめん……」

 涙に動揺した(れん)が、囁くようにそう言った。

「え? あ、あははっ、何謝ってるのよ。そんなんじゃないから」

 (れん)の手を握り、(れん)が微笑む。
 しかし(れん)はいつもの様にうつむくと、小声でもう一度「ごめん……」そう言った。




「きゃーっ!」

 枕に顔を埋め、身をよじらせる。
 体を振る度に、腰まである長い髪が揺れる。
 あの時のことを思い返すと、体が燃えるように熱くなった。
 足をばたつかせ、枕に顔を押し付け、何度も「きゃーっ、きゃーっ」と声を上げる。

「……」

 しばらくしてようやく落ち着いた(れん)は、枕を抱き締めたまま起き上がった。

(れん)くん、(れん)くん……」

 (れん)とのキスは、想像していた以上に(れん)の心を乱していた。

 明日から夏休み。
 学校があれば毎日(れん)くんと会える。一緒に登校出来る。
 しかし休みになると当然、会う機会は減ってしまう。
 それは嫌だ。
 毎日(れん)くんと会いたい。
 私にはもう、(れん)くんしかいない。(れん)くんと一緒にいたい。
 (れん)くんだって、きっとその筈だ。
 そうだ、毎日一緒に宿題をしよう。
 そしてその後で遊びに行く。うん、これなら自然だ。

 そんなことを考えていると、口元が緩んできた。

「ふっ……ふふふっ」

 二人きりの部屋で勉強会。そして勉強が終わったら……
 妄想が止めどなく広がり、(れん)はその度に枕を抱き締めて声を上げた。




「え? 何の音?」

 妄想が広がる(れん)の耳に、何かを叩く音が聞こえた。
 慌てて枕を置き、耳を澄ませる。
 音は窓の方からしていた。

「……何の音? ここ、二階なんだけど……」

 ゆっくりと立ち上がり、窓の方へと進む。
 そして小さく息を吐くと、勢いよくカーテンを開けた。

「……え?」

 窓の外にいたもの。
 それは白い子猫だった。

「……子猫? どうして子猫がこんな所に……あ、ひょっとしてあなた」

 そう言って窓を開けると、子猫はかわいい鳴き声をあげて部屋に入ってきた。

「やっぱり! あなただったのね」

 頭を撫でると、子猫は嬉しそうにもう一度鳴いた。

「元気になったみたいだね。よかった」

「ありがとう、(れん)ちゃん」

「いいのよ別に。それよりこんな時間にどうしたの?」

(れん)ちゃんにどうしても、お礼がしたくてね」

「お礼だなんて、そんなのいいってば。気にしないでよ」

「そんな訳にはいかないよ。受けた恩はちゃんと返さないとね」

「恩って、ふふっ、おませな子猫ちゃんだね。困った時はお互い様で………………え?」

「どうしたの、(れん)ちゃん」

「……」

(れん)ちゃん? おーい、聞こえてる?」

 (れん)が目をパチパチさせて子猫を見る。
 そして叫んだ。

「ええええええええっ? 猫が、猫が喋ってるうううううっ!」
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