第6話 夢と現実
文字数 3,292文字
「それで、その……聞きたいことがあるんですけど」
恋 の真剣な眼差しに、蓮司 が静かにうなずく。
「うん……なんでも聞いて」
「あの、蓮司 さん……工場で働いてるってことですけど、その……小説の方は……」
「……だよね」
笑顔のまま、蓮司 が麦茶を口にする。
「やっぱりまだ、デビュー出来てないんでしょうか」
勇気を振り絞り、恋 がその言葉を口にした。
蓮 は子供の頃から、本を読むのが好きだった。
低学年の頃は童話や偉人の本、高学年になると歴史物を夢中になって読んでいた。
中学に入ると図書館に通い詰めるようになり、純文学から大衆文学まで、幅広く読むようになっていた。
そんな中、彼の中でひとつの夢が芽生えていった。
自分にこれほど感動を与えてくれる文学。与えられる側でなく、自分も創り出す側になりたい。そんな思いが日に日に強くなっていった。
それから蓮 は手帳を持ち歩くようになり、ひらめいたこと、面白いと感じたことを書き残すようになっていった。
いつか自分で物語を書くんだ。
目を輝かせて夢を語る蓮 に、恋 はときめいたのだった。
高校に進学すると、蓮 は本格的に執筆活動を始めた。
これまで集めたたくさんの言葉、たくさんの思いをまとめ上げ、二年の内に数本の小説を完成させた。
完成するたびに、蓮 は嬉しそうに恋 に報告した。蓮 の初めての読者は、いつも恋 だった。
――口下手な蓮 くんが、小説だとこんなに自分の思いを表現出来るんだ。
もっと知りたい、もっと蓮 くんの世界を感じたい。
蓮 の作品に魅了された恋 は、彼の創作活動を心から応援した。
そしてそんな励ましに、蓮 の中でいつしか『作家になりたい』といった夢が生まれていったのだった。
「デビュー、ね……」
蓮司 が囁くようにそう言い、小さく笑った。
「蓮 くんも、その……毎日頑張ってます。今書いている作品も、新人賞に出すんだって張り切ってて」
「頑張ってるんだね、10年前の僕も」
「はい。でも……10年経ってもまだ、夢は叶えられていないんでしょうか。それで蓮司 さんは、働きながら書いてるのかなって」
「小説はやめたよ」
「え……」
突き放されたような気がした。
蓮司 との距離が、急に遠くなったように感じる。
蓮司 に対して、怖さすら感じる。
彼の放った言葉は、恋 にとってそれぐらい衝撃的なものだった。
「やめたって……どういうことですか」
「言葉通りだよ。もう書いてないんだ」
「どうして」
「今の恋 ちゃんには受け止められないかもしれない。まだまだ夢を追ってる年齢だからね。未来は明るいに違いない、頑張ればきっと結果が出る、そう信じてると思う。
でもね、大人になっていくってことは、それがただの夢なんだって認めることでもあるんだ。いつまでも夢に酔いしれて、現実を見ないで生きていく……そんなことを続けていても、何も得られないんだ。
夢はあくまでも夢だと自覚して、捨てる勇気も必要なんだ。何より僕は社会人だし、自分の食い扶持は自分で稼がないといけない。
恋 ちゃんが言ったように、働きながら創作している人もいるだろう。でもね、それは大変な情熱と労力を必要とするんだ。仕事をしながら続けるなんてこと、並大抵の覚悟で出来るものじゃない。僕はね、恋 ちゃん。自分の限界を知ったんだ。自分には才能がない。続けていくだけの情熱も持っていない。だから諦めたんだ」
蓮司 の言葉。
その一つ一つが恋 の胸に突き刺さっていった。
心が痛い。壊れそうだ。
私の前で夢を語っていた蓮 くん。
あんなに輝いた瞳、見たことがなかった。
夢を語っている蓮 くんは、本当に幸せそうだった。
その横顔にときめいた。蓮 くんのことが好きなんだ、そう思い知らされた。
その蓮 くんが今、無残に砕け散った夢を淡々と語っている。
優しい笑顔で。
でも、その笑顔が痛々しかった。辛かった。
いつの間にか恋 の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
その涙に気付くと、一気に感情が溢れてきた。
ひっく、ひっくと肩が揺れる。
蓮司 がタオルを差し出し、「ありがとう、恋 ちゃん」そう優しく囁く。
その言葉に、恋 の感情は暴発した。
「やだよ……なんで、どうして……」
タオルに顔を押し付け、肩を震わせる。
哀しみが止まらなかった。
蓮司 さんはきっと、いっぱい悩んだのだろう。
いっぱい泣いたんだろう。
夢に破れる人がほとんど。そんなこと、高校生の私にだって分かってる。
でも、それでも……蓮 くんには叶えてほしかった。
蓮 くんの唯一と言っていい、自分が自分でいられる世界。それが創作の世界だった。
その世界と決別する為に、どれだけの涙を流したことだろう。
どれだけ悩み、どれだけ苦しんだことだろう。
そしてきっと、今も辛いはずだ。
だって蓮司 さん。もう覚えてないかも知れないけど、あなたは私にこう言ったんですよ。
夢っていうのは、ある意味呪いみたいなものなんだって。
叶うまでずっと、僕はその呪いから逃れられないんだって。
だったら今、あなたの心はどうなってるんですか?
夢に破れた人間として、敗北感と罪悪感を背負ってるんじゃないんですか?
なのに、なのに……
あなたは今、私を慰めてくれている。
穏やかに微笑みながら……
やるせない気持ち。哀しみの感情が恋 の心を支配する。
恋 は何度も蓮司 に、「ごめんなさい、ごめんなさい」そう言った。
「……失礼しました、取り乱しまして」
落ち着きを取り戻した恋 が、涙を拭きながら頭を下げた。
「僕こそごめんね。ここまで泣かれるとは思ってなかったけど、でも……嬉しかったよ。ありがとう」
そう言って笑顔を向ける蓮司 に、恋 はまた赤面して視線をそらした。
「それでその……蓮司 さんの今の状況は理解しました。蓮司 さんは今、工場で頑張ってるんですね」
「まあ、頑張ってるのは間違いないけど、でもほら、僕って不器用だろ? 中々うまくいかなくってね、苦労してるよ」
ははっと笑う蓮司 の笑顔は爽やかだった。
「蓮司 さん、実家を出られたんですね」
「うん。三年くらい前になるかな。親父が死んでしばらくして」
「えっ! おじさん、亡くなられたんですか!」
「ああ、うん……ほら、恋 ちゃんも知ってるだろ? 親父、いつも調子が悪いって言ってて」
「そう、ですね……休みの日はいつも、家でゆっくりされてます」
「ちょうどいい。僕からも一つ質問、いいかな」
「はい、何でしょう」
「恋 ちゃんはどの頃の恋 ちゃんなのかな。10年前ってのは分かってるんだけど」
「あ、はい、蓮 くんと付き合い出したばかりです」
厳密に言えば付き合って半年、しかも今日、初めてキスしたんです。本当ならそこまで言うべきなのかもしれないが、恥ずかしくて言えなかった。
「そっか。僕が一世一代の告白をした、その頃の恋 ちゃんなんだね」
「はい……やだもう。蓮司 さん、真顔でそんなこと言わないでください」
恋 が両手で顔を隠すと、蓮司 は「ごめんごめん」と笑った。
「その頃ならもうすぐだね。親父はもう少ししたら検査をする。結果は胃がん、ステージ4だった」
「……」
「放射線治療を受けながら頑張っていたんだけど、それから4年ほどで亡くなったんだ」
「そう……なんですね」
「まあ、ステージ4なら5年生存率が10パーセントもないらしいからね。そういう意味ではよく頑張ったと思うよ。
その後しばらく母さんと二人で暮らしていたんだけど、半年ぐらいして兄貴が戻って来てね、奥さんと一緒に住んでくれることになったんだ」
「智兄 、結婚されたんですか」
「うん。奥さんもいい人でね、母さんと一緒に住みたいって言ってくれたんだ。で、それを機に僕は独立、会社に近いこのアパートに引っ越したんだ」
「そうだったんですね……ほんと、色々あったんですね」
「10年だからね」
「それで蓮司 さんは、ここで生活しながらお金を貯めてるんですね」
恋 が照れくさそうに言った。
「私との結婚資金を貯める為に今、頑張ってくれてる」
その言葉に、蓮司 はまた穏やかな笑顔を向けた。
「恋 ちゃん、ごめんね」
「何がですか」
「僕はね、いや、僕たちはね、恋 ちゃん……もう付き合ってないんだ」
「うん……なんでも聞いて」
「あの、
「……だよね」
笑顔のまま、
「やっぱりまだ、デビュー出来てないんでしょうか」
勇気を振り絞り、
低学年の頃は童話や偉人の本、高学年になると歴史物を夢中になって読んでいた。
中学に入ると図書館に通い詰めるようになり、純文学から大衆文学まで、幅広く読むようになっていた。
そんな中、彼の中でひとつの夢が芽生えていった。
自分にこれほど感動を与えてくれる文学。与えられる側でなく、自分も創り出す側になりたい。そんな思いが日に日に強くなっていった。
それから
いつか自分で物語を書くんだ。
目を輝かせて夢を語る
高校に進学すると、
これまで集めたたくさんの言葉、たくさんの思いをまとめ上げ、二年の内に数本の小説を完成させた。
完成するたびに、
――口下手な
もっと知りたい、もっと
そしてそんな励ましに、
「デビュー、ね……」
「
「頑張ってるんだね、10年前の僕も」
「はい。でも……10年経ってもまだ、夢は叶えられていないんでしょうか。それで
「小説はやめたよ」
「え……」
突き放されたような気がした。
彼の放った言葉は、
「やめたって……どういうことですか」
「言葉通りだよ。もう書いてないんだ」
「どうして」
「今の
でもね、大人になっていくってことは、それがただの夢なんだって認めることでもあるんだ。いつまでも夢に酔いしれて、現実を見ないで生きていく……そんなことを続けていても、何も得られないんだ。
夢はあくまでも夢だと自覚して、捨てる勇気も必要なんだ。何より僕は社会人だし、自分の食い扶持は自分で稼がないといけない。
その一つ一つが
心が痛い。壊れそうだ。
私の前で夢を語っていた
あんなに輝いた瞳、見たことがなかった。
夢を語っている
その横顔にときめいた。
その
優しい笑顔で。
でも、その笑顔が痛々しかった。辛かった。
いつの間にか
その涙に気付くと、一気に感情が溢れてきた。
ひっく、ひっくと肩が揺れる。
その言葉に、
「やだよ……なんで、どうして……」
タオルに顔を押し付け、肩を震わせる。
哀しみが止まらなかった。
いっぱい泣いたんだろう。
夢に破れる人がほとんど。そんなこと、高校生の私にだって分かってる。
でも、それでも……
その世界と決別する為に、どれだけの涙を流したことだろう。
どれだけ悩み、どれだけ苦しんだことだろう。
そしてきっと、今も辛いはずだ。
だって
夢っていうのは、ある意味呪いみたいなものなんだって。
叶うまでずっと、僕はその呪いから逃れられないんだって。
だったら今、あなたの心はどうなってるんですか?
夢に破れた人間として、敗北感と罪悪感を背負ってるんじゃないんですか?
なのに、なのに……
あなたは今、私を慰めてくれている。
穏やかに微笑みながら……
やるせない気持ち。哀しみの感情が
「……失礼しました、取り乱しまして」
落ち着きを取り戻した
「僕こそごめんね。ここまで泣かれるとは思ってなかったけど、でも……嬉しかったよ。ありがとう」
そう言って笑顔を向ける
「それでその……
「まあ、頑張ってるのは間違いないけど、でもほら、僕って不器用だろ? 中々うまくいかなくってね、苦労してるよ」
ははっと笑う
「
「うん。三年くらい前になるかな。親父が死んでしばらくして」
「えっ! おじさん、亡くなられたんですか!」
「ああ、うん……ほら、
「そう、ですね……休みの日はいつも、家でゆっくりされてます」
「ちょうどいい。僕からも一つ質問、いいかな」
「はい、何でしょう」
「
「あ、はい、
厳密に言えば付き合って半年、しかも今日、初めてキスしたんです。本当ならそこまで言うべきなのかもしれないが、恥ずかしくて言えなかった。
「そっか。僕が一世一代の告白をした、その頃の
「はい……やだもう。
「その頃ならもうすぐだね。親父はもう少ししたら検査をする。結果は胃がん、ステージ4だった」
「……」
「放射線治療を受けながら頑張っていたんだけど、それから4年ほどで亡くなったんだ」
「そう……なんですね」
「まあ、ステージ4なら5年生存率が10パーセントもないらしいからね。そういう意味ではよく頑張ったと思うよ。
その後しばらく母さんと二人で暮らしていたんだけど、半年ぐらいして兄貴が戻って来てね、奥さんと一緒に住んでくれることになったんだ」
「
「うん。奥さんもいい人でね、母さんと一緒に住みたいって言ってくれたんだ。で、それを機に僕は独立、会社に近いこのアパートに引っ越したんだ」
「そうだったんですね……ほんと、色々あったんですね」
「10年だからね」
「それで
「私との結婚資金を貯める為に今、頑張ってくれてる」
その言葉に、
「
「何がですか」
「僕はね、いや、僕たちはね、