第14話 ナカアキセツコと閉じた世界④

文字数 3,974文字

 うたた寝から目覚めれば布団には私一人だけだった。汗ばんだ肌がべとついて、手探りで見つけたスマホは午前一時を表示していた。早く兄の部屋から出ないといけない、私は眠気を振り払うと浴室に向かった。
 熱いシャワーを浴びているとさっきまでの記憶がよみがえってくる。それは重い後悔の感情を伴っていた。抱きかかえられ、赤んぼうのようにすがりついた。すりついて、さすられて、口づけされるうちに、難しいことが考えられなくなる。拙い言葉で甘えたりして、バカみたいだ。
 小さい頃からずっと、私は子どものように可愛がられることに淫している。
 もともと私は兄が自分だけを見てくれれば、その関係性だけで十分だった。なのに、いまでは身体が頭を追い越している。うずくような、苦しいような反応がおきて、どうにかしようとすればするほどそれは熱を帯びて溢れ出す。そうして、世界の果てで唯一輝いている太陽のような、切なく、まばゆい喜びが私を満たして、私の心を溶かしきってしまう。
 このままだと取りかえしがつかなくなるのに、このことをお互いに口に出すことができなかった。罪悪感を形にするのが怖かったのだ。かといって割り切って一線を超えることもできない。
 いつのまにか、私の反応が鈍くなると兄はいなくなって、その間に私が部屋に戻るというようになっていた。朝になって自分の部屋で目覚めるとまるで全てが夢だったような気がして、何もなかったかのように当たり前の関係を装う。臆病で責任をとれない私たちは自分自身を誤魔化し続けた。
 浴室を出ると廊下は静まり返っていた。兄はいつも知らないうちに戻り、私はその姿を見たことがない。真っ暗な廊下を息をひそめて、音を立てないよう私も移動する。自分の部屋に着けば少し安心できて、テーブルのコップに飾った小さな花を見つめていたら、幾分か救われる気がした。
 牧瀬は私と仲良くなりたいと言っていた。彼女は私のことをほとんど知らない。考えだすと不安が肉付けされていくようで、私は電灯を消すと頭から布団にもぐりこんだ。

 あの森林公園で話した日から、私は牧瀬と一緒に帰るようになっている。
 相変わらず牧瀬は社交的で、積極的にクラスのイベントに絡んでいた。そういったことから距離を置きたかった私は教室内で彼女と話すことはほとんど無い。けれども、放課後に私が教室を出ると、彼女は子犬のようについてくるのだ。学校のこと、家族のこと、あるいは、将来のことも、牧瀬は自身の感情や価値観を包み隠さず話してくる。二人きりになるとたまに私を「君」と言ったりして、それはオタクくさいなと思ったけれど、独特な口調やリズムも含め私は彼女の個性が好きだった。
「明日のクリスマス会に行く?」
 牧瀬が弾んだ声で尋ねてくる。二学期の終業式の日の帰りだった。商店街にはクリスマスソングが流れ、クラスメイトたちも有志でイベントを企画して盛り上がっていた。
「ボーリングとかカラオケとかでしょ。私は行かない」
「そうだね」牧瀬はワンテンポおいて続けた。「なら、私も行かない」
「別に気を使わなくてもいいよ」
「そんなんじゃないよ。クリスマス会も楽しいと思うけど、せっかくだし二人でどっか行ってみたいんだ」
「クリスマスに女二人で?」
「ヨーロッパではクリスマスを家族と過ごすのが一般的って言うよ。恋人でも、家族でも、大切な人と過ごす日なんだよ」牧瀬はにっこり笑う。「もしかして家族で食事に行く予定とかあった?」
「そういうのはない」
 クリスマスと言えば、子どもの頃はコンビニチキンを買ってそれらしい気分に浸るくらいで、いまは祖母が浮ついた風潮が嫌いだから話題に出すこともなかった。
「キリストの誕生に思い入れがないのに、大切な人と過ごしたいと思うのはおかしいよ」
 私の発言を聞いて牧瀬は楽しそうに笑う。
「真面目なんだね」
「真面目?」
「そう。君のそういうところが好きだよ」牧瀬は私の手を握る。「そうだよね。

が欠けているかもしれない。確かに、私にとって君の誕生日の方が大事だし、その日に君が生まれたことを想いながら一緒に過ごしたいよ」
「よくそんなこと言えるね」
 これぞ歯の浮くようなセリフというやつだろう。唖然となる私に対し、牧瀬は平然として照れている様子もない。
「本心なんだよ。でも誕生日はまだ先だしね」牧瀬は続ける。「考えてみると私もクリスマスの意味ってよく分かってない。でも、世の中の大半は意味が分からないことだらけだよ」
 牧瀬は再び私に微笑む。
「どれだけ親しい相手だって分からないことの方が多いと思う」
 商店街のスピーカーから「恋人たちのクリスマス」が聞こえた。サンタクロースの衣装に扮した店員、プレゼントを選ぶ恋人たち、手提げ袋にケーキを持ち歩く母親、クリスマス色に染まった雑踏の中を私たちは歩いていく。そうして、ふらりと寄り道してはとりとめのない話で笑いあった。
「クリスマスは二十四日の夜から二十五日の日没までなんだよ。夜から一日が始まるんだって」
「昔の人は夜中に起きてたのかな」
「どっちかというと聖書の教えが関係してるみたい。闇から世界が始まりそこから光が生まれる的な」雑貨屋で食器を手に取りながら牧瀬は話をする。「中二病だよね。でも、それを信じてくれる誰かがいるなら現実になるんだよ」
「現実?」
「そう。神様の存在だって信じられる」
 牧瀬の横顔はどことなくこわばったような表情で、反射的に私は展示されているカップを手に取った。彼女に言葉を返そうと思ったけれど、なんて言えばよいか頭の中がまとまらなかった。しばらく考えるも言葉は浮かばず、次第にどうでもよくなってきて、だから、私はとりあえず笑顔で彼女に頷き返すのだった。

 家に辿りついたのは門限の五分前だった。店を出るともう日が暮れ始めていて、私は牧瀬に別れを告げると急ぎ足で帰宅した。
「ただいま」
 いつものように祖母は返事をすることもなく、夕食の準備をしている。部屋着に着替えた私は洗濯物の片付けを始めた。
 古い価値観の祖母は女子が家事をすべきと考えている。洗濯物の片付けが終われば、次はお風呂掃除、その後は夕食の手伝い。ただ、綺麗に片づけることはそれだけで充実感があり、私自身は家事がそんなに苦ではなかった。一方、兄が手伝うことはほとんどない。彼には門限も決められておらず、最近は部活の練習が長引いて、一緒に夕食をとることもあまりなかった。
 この日も私と祖母で二人きりの夕食だった。
「ちゃんと一つずつ交代で食べなさい」
 言われたとおり主菜、副菜を交互に食べる。焼き魚の骨は散らばらないように、ご飯の分量は一口サイズで、マニュアル作業のようにとり行う。不器用な私と違って、祖母は早く上手に食事ができる。祖母の食べる様子はお世辞にも楽しそうには見えないけれど、その箸の使い方や佇まいは映画の登場人物のように洗練されていた。
「おばあちゃん」私は上目遣いで祖母に尋ねる。「明日の夜に学校のみんなが出かけるんだ。クリスマス会をするみたい。私も行っていい?」
「夜に出るの?」
「そう。でもみんなと一緒だよ」
 祖母が無言で箸を置く。数秒くらい、溜めの時間があった。
「あんたのお母さんもそうだったよ。夜中にふらふら出て行って」
 母を引き合いに出す、それは考えうる限り最悪の反応だった。祖母は品定めするような視線で私を見つめる。目もとを、口もとを、身体つきを、きっと比較している。私は俯いてやり過ごそうとするけれど、火は燻ぶったままでは終わらなかった。
「似てきたね。お母さんに」祖母は続ける。「相手に媚びるような、あんたのお母さんもそんなだった。いくら注意しても直らない。陰でみんなから笑われているだろうに顔色ばっかり伺って、それで周りに都合よく乗せられてたんだ」「あんたも心配だよ。ちゃんとみんなと仲良くできてるの?」
 祖母の発言を否定するとさらに激しく燃え広がってしまう。だから私は正直に「仲良くできてない」と言う。事実といえば事実なのだ。祖母はそれ見たことかと言わんばかりに芝居がかったため息をつき、なぜ私がこうなっているのか、その理由を繰り返し伝えてくる。
「あんたは『あのだらしないお母さん』の子だから、普通の人ができることができない」祖母が私を引き取ったときはひどかったらしい。汚れた服装にデリカシーの無い振舞い、それはまるで動物のようで、中学生になったいまでも、きちんとした人が私を見ると品のなさを敏感に感じとるという。「でも、そういうのは気づいても本人には言わない。だから私があんたに言ってあげているんだよ」
 祖母の言うことは間違っていない。実際に私はクラスメイトの輪に入ることができないし、私の振舞いにみな困惑しているように感じる。心のうちに酷薄さがあるから?他者への思いやりに欠けるから?もしかしたらそれが祖母のいう『品のなさ』につながっているのかもしれない。いや、何より普通の人が兄とあんな異常な関係になることはありえない、口に出さずともみんなが私を汚いと感じているのだ。
 もし生まれてからずっと正しい生活をしていたら、そんなことにならなかった。
 ひとしきり祖母の説教は続いた。時おり、ちゃんと聞いているのか尋ねられ、私は何度も頷く。身体は熱がこもって風邪を引いたときのようで、薄い膜がはったように感覚が鈍かった。
 祖母がダイニングから出ていった。私は独りで食べ続けている。私は冷めたお味噌汁を、ぼそぼそした焼き魚を口に運んでいる。食事の片付けが終わったら明日はダメになったと牧瀬に連絡しよう、とぼんやり考えていた。彼女に申し訳ないという想い、彼女が変わってしまう不安、水中に垂らした絵の具のように気持ちは混じり合い、私の心を濁った灰色に染めていった。
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