第10話 ナカアキセツコと閉じた世界①

文字数 2,183文字

 昔、住んでいた町の葬儀場には社員寮のような離れがあって、その一室に母の遺体が置かれていた。それは毒気の抜かれた人形のようで、もう下品な笑い声や憎まれ口を発することなく、くすんだ陶磁器みたいに固まっていた。
 このとき祖母は泣いてなかった、と思う。全ては事務的に淡々と進んでいき、テレビや冷蔵庫のある生活感溢れた空間に母は祀られ、家族だけで見送った。
「ほら、手を合わせなさい」
 気づくと祖母が位牌に手を合わせて拝んでいた。言われるまま、見よう見まねで目を瞑るも何も頭に思い浮かばず、『こんなとき何を考えるんだろう』というクエスチョンがぐるぐるうずまく。横目で見ると兄も一生懸命目を瞑っていて、でも、きっと私と同じように何も考えてない。彼女は私たちのあずかり知らないところで死んだのだ。
「ちゃんと勉強せんで、だらしない生活してたからこんなことになる」
 祖母が誰ともなしに呟いた。
 父親不明の子を2人も産み、あげくの果てに睡眠薬で自殺する。救急車を呼んだ男の方はそのまま雲隠れして全ての後始末を祖母に押し付けた。子供でも分かるクズに母はすがって、もっと賢かったら『こんなこと』にならなかったかもしれない。
「子どもの頃のお母さんはかわいかった?」
 突然の私の質問に祖母が目を丸くする。
「素直だったよ。いまよりかは全然」
「いい子だった?」
「そうだね。小さいころはかわいかったね」
 そう言うと、祖母は棺桶の中の母の顔を覗き込んだ。つられて私も覗き込む。そこには死化粧を施された母がいた。いつもコテコテメイクだった母にナチュラルメイクのそれが意外なほど普通に似合って、初めて彼女の素顔を見た気がした。穏やかな表情が、死んでようやく彼女の緊張が解けたようで、その瞬間、なぜか栓が外れたみたいに涙が溢れてくる。ぽろぽろ零れる涙はすぐには止みそうになく、目元を右手で抑えていると、兄が無言のまま優しく頭をなでてくれたのだ。おかげでさらに泣くことになった。
 火葬場に移動する頃にはいちおう気持ちも落ち着いてきて、炉の前で簡単に別れの式をすると皆で棺が納められるのを見守った。
 母が死んだ年は冷夏で例年より人も虫も少なかった。その日もセミの声は聞こえず、郊外の山際に位置するのに火葬場周辺はひっそりと静まり返っている。火葬が完了するまで時間が空いて、兄と敷地を散策してると、やたらに広い駐車場に辿り着いた。
 誰もいない空間に木漏れ日だけがゆらめいていた。私たちは隅のコンクリートブロックに並んで腰かけてサイダーを半分こにする。まず私が一口飲む。白い日差しのもと、私の舌の上でパチパチはじける炭酸がいつもの夏を思い起こさせた。続いて兄が瓶に口をつける。喉が渇いていたのか、勢いよく飲んでむせてしまい「大丈夫?」と声をかけると、片手をあげて大丈夫と返してきた。そんな強がっている姿がおかしくてクスクス笑ってると、兄も一緒になって笑うのだった。そうやって気持ちが触れ合うことでじんわりと身体の芯が痺れていく。たかぶって、うわずって、どこかくすぐったい心もちで私は話し続けた。昨日のテレビのこと、学校で失敗したこと、他愛もない話をしながらかわりばんこにサイダーに口をつける。
 母の骨上げは始まらない。日差しはさらに高く、太陽光に照らされたアスファルトが水面のようにゆらめき始めていた。

 曖昧で自由な母のもとから規則正しい祖母の家へ。そこには覚えきれないほどのルールがあった。門限はもちろん、日々の作法、はては会話内容にまで地雷がある。
 食事中、恋愛ドラマの話題を出して祖母に火がついたこともあった。「くだらない」という小言から始まって「お母さんのようになる」と徐々に熱がこもり、最後にはご飯を片付けられてしまったのだ。このときの祖母の様子が男のことで荒れる母とそっくりで、ああ、これは理屈じゃないんだと、嵐が過ぎ去るのをただ待つのだった。
 目立たないように、もともと引っ込み思案な性格なのに、祖母の家に来てから人と関わるのが怖いと感じてますます引き籠り気質となる。
 そんな私を見て、祖母は思春期を迎えた私が母と似てきたという風に捉えたようだ。私は私で祖母が母に似てると思っている。だから、不本意ながら、結局、私たちはみな似てることになる。母は男に依存して、祖母は正しい人生にこだわって、二人とも何かにすがって渦巻く不安に栓をする。私もそうだ。不安で夜を過ごせないときは兄のもとに行く。そうやって二人でいれば安心して朝まで過ごせた。
 私のその習性は中学生になっても変わらないままだ。むしろ、成長して心が複雑になるにつれて、さらに根深く、がんじがらめに私の感情を縛っていく。
 兄が友人付き合いをしたり、将来の進路に悩んだり、そんな当たり前のことすら、私は許せなくなっていた。思いのままに感情をぶつけ、しばらくして落ち着くと後悔して自己嫌悪する。決まって私は二度と繰り返さないと心に誓う。けれども、どうしようもなく、兄が学校の話をするだけで負の感情が止まらくなってしまう。
 どうしたら幼稚な私を変えることができるのか。一生懸命部活をすれば、クラスメイトと仲良くなれば、将来の夢をもてば私は変わるのだろうか。あれこれ考えるもしっくりこず、最後はいつも同じ結論に行きつくのだ。ああ、これは理屈じゃないんだと。
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