第12話 ナカアキセツコと閉じた世界➁

文字数 3,247文字

「ごめんね、急に」
 中学二年の秋、学校全体が文化祭に向けて浮つく中、私はクラス担任の小巻先生から呼び出されていた。初めて足を踏み入れた生徒指導室はテーブルとロッカーくらいのシンプルな造りで、その空気感は刑事ドラマにある取調べの始まりのようだった。
「いま一番忙しいでしょ」
 テーブルを挟んで小巻先生が前のめりになる。つい私は後ろに引いて、パイプ椅子が軋んだ。本当はたいして忙しくない。けれども、素直にそう言うと自分がクラスで浮いているのを認めるようで、かといって適当に合わせるのも気が引けてしまう。
「もう明後日は文化祭当日だ。ほんと早いよね」小巻先生は笑いかける。「今日はあなたとちょっと話がしたいと思ったんだ」
 若くて美人な小巻先生から気にかけられて悪い気はしなかった。それからとりとめのない、好きな科目とかスポーツとか、大人にとってはいわゆる世間話というものが続いた。
 彼女は私の目を見つめながら語りかけてくる。いかにも気さくなお姉さんという感じで皆に慕われていて、きっと先生になる前から人気者だったのだろう。中学時代はどんなふうに過ごしてたのかなとぼんやり想像していると、小巻先生は苦笑いして姿勢を正した。
「クラスの中にナカアキさんのことを心配している子がいるんだ」
「・・・心配ですか?」
 やや緊張した面持ちで、それからおずおずと、小巻先生は私の左手について尋ねてきた。そこには直線状の白い縞模様が幾重にも重なって、いわゆるリストカットの跡がある。
 クラスメイトが私のリストカットの噂話をしてるのは知っていた。ほとんどは面白半分で、メンヘラ女とかパパ活してるとか好きなことを言ってる。
 私が左手を見せるのを躊躇っていると、それを察した小巻先生は無理強いしようとせず、代わりにまた世間話が始まった。
 今度はもっと私の内面を探るような話題だった。仲の良い友人や、休憩時間の過ごし方、そういった心の防波堤に迫る、胸の奥がひりつく質問が続いた。私はいつのまにかゆるんだ愛想笑いを浮かべていて、こういうときは必ず曖昧な答えをして受け流そうとする。そうして心の中で自分に言い訳をしているのだ。

 私がリストカットを始めたのはずいぶん昔、といっても1年くらいだろうけど、それに深い理由なんてなかった。重い生理痛のときに落ちてた髪の毛を古いストーブで焦がすとか、自分でもわけの分からないことをしてた時期があって、リストカットもそういった行動の延長線だったのだと思う。
 どんより頭痛まであって特に苦しい日だった。独り炬燵の中でお腹を抱えていたら、私の目線の先にテーブルに放置されたカッターがあった。几帳面な祖母がたまたま片付け忘れたものだ。気を紛らわそうと、私はそれを手に取って刃を出したりひっこめたりなんかしていた。
 私には自殺願望とかそんなものはない。死にたいって思うことはあっても、それは路地裏に漂う土埃のようなもので、すぐに雲散霧消してしまう。ただの気分なのだ。なのに、そのときの私は、左手首の外側に軽く、ほんとに軽く刃先を滑らした。
 一瞬で身体が凍りついた。表皮が裂け、血が滲むのを見ると不意に泣きそうになって、固く身体を強張らせる。おそるおそる息を吐いているうちに思わずかすれたような声が漏れ、その声で少しだけ自分が取り戻せた気がした。落ち着いてみると傷もたいしたことなく、けれども神経はショートしたみたいにぐったりして、その日はもう何もする気はおきなかった。
 それ以降も私は何回かリストカットを続けてしまっている。繰り返すうちに痛みに慣れ、次第にそれがゲシュタルト崩壊していく感覚に陥っていった。どんどん傷は深く出血も増えていったが耐えられないことはなく、これならば死ぬときの痛みも案外たいしたことはないかもしれないとさえ思ったりもした。
 ただ、その頃にはもう兄や祖母の知るところとなっており、二人に心配をかけないよう、今ではちゃんとやめている。
 時間も経ち、私の中でリストカットにまつわる血や体液やその他もろもろの生臭さはもうなくなっているはずだ。それでも面白がる人たちは何を言っても分かろうとしないし、善意で心配する人の大半も私をきちんと見たりしない。だから、どれだけ真面目に説明しても伝わらないから、私は何を聞かれても話そうとは思わなくて、それが正解だと信じていた。

「先生が一番悩んでいたのは人間関係かな。そういうのも誰かに相談すると気持ちが楽になったよ。すぐに解決方法が見つかるわけじゃないけど、共感してくれる人がいるだけで全然ちがう」
「共感ですか」
「そう。悩みを話すことが大事なんだよ」
 言葉だけならいくらだってよいことが言えるのに、と心の中で秘かに思う。けれども、いま必要なのは小巻先生に安心してもらえる振舞いなのだ。
「私のこと心配してる子がいるんですね」
 さりげなく先生に問うと、ちょっとだけ間をおいてあっさり名前を明かした。
「そうだね。牧瀬さんとか心配していたよ。ナカアキさんが悩んでるんじゃないかって、先生も気にしてほしいって」
 牧瀬と聞いて意外に思った。
 クラス内のポジションで言えば牧瀬は特定のグループに属していない不思議な立ち位置で、かといって浮いているわけでもない。ファッション・メイクにも詳しく周囲に気遣いもできる、皆に一目置かれている子だ。ただ、私自身は牧瀬とほとんど話したことがない。夏休みに一度だけ、兄と買い物に行った先で彼女の方からひと言声をかけられたくらいだった。
 それから少しだけ文化祭のことを話して私はその場から解放された。結局、左手のことはうやむやなままで済んだけれども、水底から上がったような気だるさが身体に残った。
 私たち二年一組の企画はショートムービーだ。教室に戻ると完成した動画をお披露目するためクラスメイトたちが集まっており、プロジェクターを中心に思い思いの席に着いている。無邪気な男子の連帯が、からみつく女子の結束が教室内のあちこちに繰り広げられ、時に男女の幼い駆け引きもあったりして、そこには文化祭当日に向けた熱が溢れていた。
 私もパイプ椅子を持ち出しそっと端に加わる。携帯を開いたり閉じたり、座る位置をずらしたりしてるうちにスクリーンに光が灯った。
 転校生が学校を見て回るというだけのシンプルな作品のはずだった。文化祭のオープニング的な意味合いが強く、私も含め皆が教育テレビ的な仕上がりを想像していたのだ。けれども、その予想は良い意味で裏切られた。
 誰もいない教室、雨上がりの校庭、夕方の部活動、そういったドキュメンタリータッチの映像がドラマ仕立てのパートの合間に巧みに編集され、凝ったカメラワーク、青みがかった質感とあいまって私の目からも一個の作品として成立しているのが分かるものとなっていた。その切り取られた一瞬はまるで心に抱く青春を純粋なまま形にしたようで、退屈な日常との繋がりを故意に断ち切った人工物なのに、あたかもこちらが私たちの現実であるかのように訴えかけてくる。
 最初、友達や小巻先生が出るだけで湧いていた生徒たちも、徐々に言葉少なくなる。一番前に座ってる男子が「ほんとのCMみたいじゃん」と言った。確かにそうだ。胸の高鳴りが恥ずかしくて、私たちは軽口を言うしかできない。
 教室の電気がついて、興奮さめやらぬまま皆が一斉に帰り支度を始めた。口々に感想を述べあうクラスメイトをしり目に動画編集メンバーはプロジェクター脇でまだ打ち合わせをしているようで、その中に牧瀬もいるのに気づいた。牧瀬は先生にどんなことを話したのだろう、そう思っていると彼女と不意に目が合ってしまい、私も慌てて立ち上がって帰り支度を始める。そんな私の様子を気にすることなく、牧瀬は他のメンバーにひと言告げて私の方に向かってきた。
 「動画どうだった?」彼女はにこやかに笑いかけてくる。それはイヤらしい感じは全くない、自分の笑顔を知っている人の笑い方だった。
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