権力とはなにか?(2)
文字数 4,340文字
たとえば極端な話、我らは異星人とコミュニケーションできると思うか?
たとえばさ、我はいきなりきみから殴られたりはしない。そういったことが普通に前提されている。コミュニケーションというのは、こうしたら、こうなるだろう、とか、こうなることはないだろう、とか、お互いに行動パターンがある程度想定できないとさ、そもそも成立困難だろう。
だから異星人とコミュニケーションするというのはハードルが高すぎる。
ちなみに、この類の議論に興味をもったなら、柄谷行人さんの『探求Ⅰ』(講談社学術文庫、1992)とか超オススメだぞ。あわせて読んでみるとよい。
要するに、相手がなにしてくるか完全に予測不能な人とは関係しずらく、逆に普通は、日常的にはね、みなさんなんつーか、ある程度の幅の中で関係しあってる、ってことでしょう。
もっと言うと、その「コミュニケーション・メディア」が、いくらでもあり得る可能性の範囲をな、ある程度狭めてくれるからこそ、だからこそ、コミュニケーションが成立する、ということでもある。
でな、「権力」もまたそのようなメディアの一つなんだとよ。
「権力」は「コミュニケーション・メディア」として、潜在的には無数にあり得る関係性の幅を狭めてくれるのだよ。
たとえば芸術家と弟子がいる。そこには〈権力〉関係がある。
で、その芸術家が新しく弟子を追加し、また弟子をとり、また弟子をとり、と繰り返していくうちにさ、たくさんの弟子に囲まれるようなったとしよう。
弟子が一人だった頃は、その〈権力〉関係は個人的で、都度都度、臨機応変、いろんな関わり方に開かれていたとしても、大所帯になると違ってくるだろう。
先生である芸術家がなすべきこと、あるいは弟子の務め、等々、お互いの仕事が定まり、関係性がルール化されていったりするだろう。
弟子が一人ならルールなきルールでもいいでしょうが、増えてくると、みんなでシェアできるよう、ある程度ルールを決めてくれないと困ります。
〈権力〉はそのように制度化されていくことで、一つにはコミュニケーションの幅がより明確になり、明確になるからこそ、安定的に作用するようになる。
また、制度化されることで、いわば特定の文脈から離れて一般化していく。先生と、ある弟子との間でしか通用しない個人的ルールではなくなり、弟子一般に通用するようになる。いわば固有名による関りから匿名的なものへと変わる。
これが、我の言う〈権力の制度化〉の一側面。
ここでも、じつは〈第三項〉がキーなんだ。〈第三項〉が二者関係に割り込んできたとき、〈権力〉の作用は一般的に、社会的になる。やはり人間社会に安定と秩序をもたらすものは、〈第三項〉なのだよ。
たとえば芸術家と一番弟子が蜜月な関係で、いつまでも二人だけの宇宙に留まっていたのであれば、新しくきた弟子は邪魔者以外の何者でもない。芸術家が一番弟子に「わしが認めているのは、おまえだけ」なんて言ったりして、新しい弟子を一番弟子と一緒になって踏みつけるなら、これってまさに〈下方排除〉の一形態だろう。
一方で、新しい弟子がさ、「平等に扱ってくださいよ~。ボクも同じ弟子なんですから」ってな具合にさ、それでもやはり、師匠と一番弟子との間に割って入ろうとするなら、楔を打ち込みなら、この場合、新しい弟子の目は、いわば「裁きの目」となる。師匠は師匠らしくふるまうべきであり、一番弟子だけと優遇しちゃならん、そんなんであれば師匠とは言えない、と圧をかけてくる、「裁きの目」だ。
一方で、代わりにね、今度は師匠のほうが〈上方排除〉されるようになる。
これで、〈上〉にいる師匠と、その下で横並びになる弟子たち、っていう小さな社会ができたぞ。
どうだ、ほら。力学的には、やはり新しくやってきた弟子は〈第三項〉なのだよ。ただ、そのポジションに、遅れて師匠がな、入ることになる。
このとき、暴力は〈奪う権力〉へスライドしていくのだよ。
このへんの話はもっと後でもう少し詳しくふれたいとは思うが、まぁ要するに〈奪う権力〉もまた、なんだかんだで共同体内で作用するようになる、ってこと。
一方で、〈与える権力〉のほうが外へ向くこともある。共同体から共同体への贈与、がそれだ。現代でも、たとえば先進国から途上国への援助があるくらいだからね。
奪い、かつ与える。強引に表記するとするなら、〈奪う権力⇒与える権力〉かな。
1 ニクラス・ルーマン『権力』長岡克行訳、勁草書房、1986