国家のない社会(2)

文字数 3,221文字

そうだな、国家のない社会、国家を立ち上げなかったアメリカ先住民について、まずは定番でもある、フランスの人類学者ピエール・クラストル(1934-1977)『国家に抗する社会』(渡辺公三訳、水声社、1989)から入ってみるとしよう。
あ、その人の名前、聞いたことがあるような・・・・・・大学の講義で。
その道では有名だからな。
さて、アメリカ先住民の共同体について、クラストルはまず、その中心的存在である首長について分析しているぞ。王国には王様という中心がある。王国について知りたければ王様について調べてみるのも一つの方法だ。同様にして、先住民たちの社会を知りたきゃ、まずはその中心をみてみるのもアリだろう。
どんなボスがいて、どんなふうに共同体を仕切ってるか、ってことですね?
まぁそんなところだ。

で、この首長というのが、じつにユニークなんだ。

まず、首長は独裁者ではないのよ。どこかのゲームにでてくる王様のようにさ、一方的な強権発動はしない、というか、できないのだ。逆らうことを一切許さず、下々を従わせている、というよりは、むしろみんなに気配りし、仲間割れしないよう調和をもたらすのが首長の仕事らしい。

潤滑油になってたみたいな感じですか?
そういう側面がある。子どもは夫婦のかすがい、なんて言うが、さしずめ首長は共同体のかすがい、だろうな。
具体的にどんな仕事をしてたんですか?


たとえばメンバー間でもめ事が生じた際、それを調停する。

調停といっても裁判官のように上から目線で行うのではないぞ。法に基づき裁く、というのでもない。お互いの言い分をよく聞きながら、まぁまぁまぁと、ゆるい感じで手打ちにしていく。裁くのではないぞ。手打ちにするのだ。

オレがバイトしてた居酒屋に、そんなオバチャンいましたね。バイト同士で喧嘩になると、絶妙な感じで間に入ってくれる。適度にジョークも交ぜながら。
そうそう、ユーモアね。機転がきかないと調停役など務まらんだろう。お堅い法知識を武器にしてる弁護士とは違い、かける言葉の柔軟な巧みさ、もっと言うと人格的な要素が重要だったろう。

だからこそ、首長はな、話し上手なヤツじゃねぇと務まらんらしい。これが二つ目の特徴になる。
たいてい明け方とか夕暮れ時とかにみんな集まり、首長の話を聞くことになる。ここで素晴らしきトーク力を発揮できない首長は首長の役目を果たせない。

時には歌や踊りも披露せにゃならんという。歌や踊りができないと人気もでない。

みんなを楽しませないといけないわけだ? 大変ですね。なんかクラスの人気者って感じ。
付け足すと、みんなで集まり首長の話を聞く、っていうのは、共同体の凝集力を高める効果があるんだ。そもそも共同体ってなんだと思う?
ん~・・・・・・なんでしょうね。いきなり問われると・・・・・・
一つには、広い意味での〈物語〉を共有してるってことだよ。まとまった共同体には必ず〈物語〉の共有がある。首長の語りは、そのような〈物語〉を補強したろう。

首長は、いわゆる神話についても語った。しかし神話というのは狭い意味での物語だな。広い意味での〈物語〉というのは神話だけに止まらず、じつに多岐にわたる。
ただ、結局のところ首長の〈物語〉、それは「我々の祖先たちは幸福であった。だから我々もまた同じように暮らそう」とかいうスローガンに収れんしていくものらしいね(2)


居酒屋では店長の訓示がありましたよ。会社でも社長の訓示とかあるんでしょ? それと似てますね。〈物語〉を共有することで、一致団結を煽るんだ。
ほぅ、五楼座、あいつ訓示とかするんだ、偉そうに。とはいえ、訓示の類とはちょっと違うぞ。
たとえば社長の訓示をシカトしてたらさ、ブッ殺されるだろう。しかし首長の話はワンパターンなのか知らんが、マトモに聞かれてなかったりする。でも聞いてなくても罰せられたりしない。
どこがポイントかというと、社長の訓示を拝聴することはな、命令なんだよ。だから従わないといけない。一方、首長の語りは命令ではないんだ。

だからクラストルは、首長の言葉は権力の言葉ではない、と言っている。

服従を強いる訓示とは違う、ってことですね?
そういうことだ。さて、首長の特徴三つ目だが、それは気前のよさ。首長は自分がもってるものを惜しむことなくメンバーに与えないといけないのだ。ケチでは務まらん。悲惨なケースだと、首長が大盤振る舞いしすぎて誰よりも貧しくなってしまうこともあるらしい。
我はな、これを〈与える権力〉と呼んでみたい。
〈与える権力〉ですか・・・・・・なんか、売上がよかった月にね、店長がみんなを引き連れ、大盤振る舞いしてくれたのを思い出しました。
五楼座、あいつはただ単に金銭感覚がマヒしてるだけだろう。
でもね、意外と面倒見がいいんですよ。
ふ~ん。
おごる、というのはリーダーのたしなみだ、って言ってましたよ。ケチくさい先輩に後輩はついてこん、って。
気前よく与えることができる、ってのは〈力〉の象徴でもあり、そのような〈力〉があるからこそ、下々がついてくる。世の常だ。
でも〈与える権力〉ってのは、なんか語呂的にヘンじゃないですか。権力っていうと、〈与える〉よりはむしろ〈奪う〉のほうが言葉的にフィットするような・・・・・・
イイところを突く。我は権力に2種類あると思う。〈与える権力/奪う権力〉という2種類が。
しかしなんだ、いつの頃からか〈与える権力〉が後景に退き、〈奪う権力〉が前面にでてくるようになった。目立つようになった。〈力〉とは与えることではなく、奪うことだ、って広く思われるようになっちまった。
あの、ふと思ったんですが、もし〈与える権力〉が語呂的に間違ってないとするなら、究極の〈与える権力〉って、神、かもしれませんね。神ってのは、ただただ与えてくれる存在なわけで、それこそ〈与える権力〉の権化?
神様にもいろんな種類があるから一概にそうは言えんが、まぁ、おおむねそのように考えてもよいだろう。最高の〈与える権力〉とは、たしかに神だろうよ。
さて、〈与える権力/奪う権力〉についての話は、この程度で止めておこう。今は首長の話をしてるんだからな。

とはいえ、せっかくだから一つだけ、歴史学的な事例を挙げておこう。日本史の授業で百姓一揆を習ったろ?

習いましたね。
どんなイメージ?
飢饉とかで食えなくなった農民が、各々武器を手にしてね、大挙して暴れまわる、みたいな・・・・・・
ただの暴動って思ってる?
う~ん・・・・・・ぶっちゃけ、そうでしょ。


いや、百姓一揆って偶発的な暴動、ってわけじゃないぞ。実際、半ばルーティーン化してもいたんだ。
まず最初に、正規の手続きでさ、年貢減免とかを要求する。それが通らないといよいよ一揆になる。ただし、一揆はアナーキーな暴動と違い、遵守すべき掟があった。たとえば放火などはタブー視されていた。お家に刀や鉄砲があっても持ち出さず、あえての農具、あえての農作業姿で行った。
なんでかっつーと、そもそもお殿様は仁君であるべきであり、百姓の生業維持を助けるのが当然の責務だ、とする通念があったわけで、一揆することでな、そういった責務を果たせよと、アピってるんだ。要するに、こういうときは年貢をおまけするのが筋だろ、ってね。これを近世史家は「仁政イデオロギー」と呼んでいる(3)
つまり昔の強面幕藩領主ですら、単純に〈奪う権力〉一辺倒だったわけじゃないんだ。百姓一揆は領主から「お救い」を引き出すためのデモンストレーションという側面があり、逆から言うとだ、領主には「お救い」をしなければならぬ、という〈与える権力〉的側面があったわけだ。
なるほど。お殿様にも〈与える権力〉の片鱗はあるわけですね。
(註)


2 上記ピエール・クラストル『国家に抗する社会』第七章


3 藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』中公新書、2020:序章


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登場人物紹介

岬美佐紀(38)

 某国立大の大学院で哲学を研究していたが(専門はニーチェ)、遊びすぎて研究者レースからドロップOUT!

 現在、岐阜柳ケ瀬の一角で、潰れたラウンジを譲り受け、哲学バー「ツァラトゥストラ」を開店している。

 未だ独身。彼氏イナイ歴?年。特技はバドミントンで、奥原希望選手の大ファン。

我聞太一(23)

 岐阜大学で留年中。

 キョーレツに結婚を意識していたカノジョにフラれてしまい、自暴自棄中。

 のちに在野の哲学徒として覚醒?していくのだった・・・

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