国家のない社会(2)
文字数 3,221文字
さて、アメリカ先住民の共同体について、クラストルはまず、その中心的存在である首長について分析しているぞ。王国には王様という中心がある。王国について知りたければ王様について調べてみるのも一つの方法だ。同様にして、先住民たちの社会を知りたきゃ、まずはその中心をみてみるのもアリだろう。
で、この首長というのが、じつにユニークなんだ。
まず、首長は独裁者ではないのよ。どこかのゲームにでてくる王様のようにさ、一方的な強権発動はしない、というか、できないのだ。逆らうことを一切許さず、下々を従わせている、というよりは、むしろみんなに気配りし、仲間割れしないよう調和をもたらすのが首長の仕事らしい。
調停といっても裁判官のように上から目線で行うのではないぞ。法に基づき裁く、というのでもない。お互いの言い分をよく聞きながら、まぁまぁまぁと、ゆるい感じで手打ちにしていく。裁くのではないぞ。手打ちにするのだ。
だからこそ、首長はな、話し上手なヤツじゃねぇと務まらんらしい。これが二つ目の特徴になる。
たいてい明け方とか夕暮れ時とかにみんな集まり、首長の話を聞くことになる。ここで素晴らしきトーク力を発揮できない首長は首長の役目を果たせない。
時には歌や踊りも披露せにゃならんという。歌や踊りができないと人気もでない。
首長は、いわゆる神話についても語った。しかし神話というのは狭い意味での物語だな。広い意味での〈物語〉というのは神話だけに止まらず、じつに多岐にわたる。
ただ、結局のところ首長の〈物語〉、それは「我々の祖先たちは幸福であった。だから我々もまた同じように暮らそう」とかいうスローガンに収れんしていくものらしいね。
たとえば社長の訓示をシカトしてたらさ、ブッ殺されるだろう。しかし首長の話はワンパターンなのか知らんが、マトモに聞かれてなかったりする。でも聞いてなくても罰せられたりしない。
どこがポイントかというと、社長の訓示を拝聴することはな、命令なんだよ。だから従わないといけない。一方、首長の語りは命令ではないんだ。
だからクラストルは、首長の言葉は権力の言葉ではない、と言っている。
我はな、これを〈与える権力〉と呼んでみたい。
しかしなんだ、いつの頃からか〈与える権力〉が後景に退き、〈奪う権力〉が前面にでてくるようになった。目立つようになった。〈力〉とは与えることではなく、奪うことだ、って広く思われるようになっちまった。
さて、〈与える権力/奪う権力〉についての話は、この程度で止めておこう。今は首長の話をしてるんだからな。
とはいえ、せっかくだから一つだけ、歴史学的な事例を挙げておこう。日本史の授業で百姓一揆を習ったろ?
まず最初に、正規の手続きでさ、年貢減免とかを要求する。それが通らないといよいよ一揆になる。ただし、一揆はアナーキーな暴動と違い、遵守すべき掟があった。たとえば放火などはタブー視されていた。お家に刀や鉄砲があっても持ち出さず、あえての農具、あえての農作業姿で行った。
なんでかっつーと、そもそもお殿様は仁君であるべきであり、百姓の生業維持を助けるのが当然の責務だ、とする通念があったわけで、一揆することでな、そういった責務を果たせよと、アピってるんだ。要するに、こういうときは年貢をおまけするのが筋だろ、ってね。これを近世史家は「仁政イデオロギー」と呼んでいる。
つまり昔の強面幕藩領主ですら、単純に〈奪う権力〉一辺倒だったわけじゃないんだ。百姓一揆は領主から「お救い」を引き出すためのデモンストレーションという側面があり、逆から言うとだ、領主には「お救い」をしなければならぬ、という〈与える権力〉的側面があったわけだ。
2 上記ピエール・クラストル『国家に抗する社会』第七章
3 藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』中公新書、2020:序章