穀物国家の誕生(2)
文字数 2,548文字
つまり簡単に言うとだ、そいつらを襲って捕まえて、奴隷にしてしまうのさ。農耕とかいう苦役は奴隷にでもやらせておいて、自分たちはタダ飯食らえばよい、と考える輩がでてきても不思議じゃないだろ。
メソポタミアで国家と言えそうなものがでてくるのは紀元前3千年も昔のことで、農村がみられるようになってからだと2千年も経ってから後のことなんだが、出土した粘土板にな、戦争捕虜やら奴隷のことがでてくるんだ。その存在が確認できる。
ちなみに後の世の古代ギリシアだと、たとえばアテナイ全人口の過半数が奴隷だったと言われてるし、初期ローマ帝国でも3分の1ないし4分の1は奴隷がいたらしい。メソポタミアでは、ここまで大規模な奴隷制があったとする証拠はないらしいが、だからといって戦争捕虜が穀物生産にまわされていない、ということにはならな。
めんどくさい仕事を担ってくれる捕虜を連れてくることがな、間違いなく、戦争する目的の一つではあったろう。
繰り返しになるが、農耕はコスパが悪かったけれど、戦争捕虜を使うこともできた。戦争というのは、定住による縄張り争いや、略奪動機からも生じたろうが、そこで得られた奴隷は連れて帰って生産労働に充てることができる。そうなると自然、共同体内には支配する側と支配される側、といった階層秩序が生まれてくることになるだろう。それに穀物は課税システムの構築に適合的だからさ、富を収奪したい支配者には好都合だわな。
たしかに、狩猟でゲットした獲物に税をかけるのはムズイですね。穀物のほうが課税しやすいのは間違いない。
それに獲物を追いかけながら住んでるところまで移っていってしまったら、それはもう税をとろうにも、とりようがないですね。どこかへいっちゃうんですから。
そういう人たちを「穀物国家」の内側から眺めるとだ、野蛮人、ということになるんだが、というのも、たびたび略奪しにやってくるからね。
でも野蛮人とレッテルを貼られた側からするとだ、そこは草原地帯やら山岳地帯やらで「穀物国家」を育む土台がなかったわけで、別様の生存戦略をとってきたにすぎない。
定住して農耕して「穀物国家」ができて、とかいう、単線的かつ普遍的な発展段階を夢想しちゃいけない。その土地その土地にあったライフスタイルがあり、その中の一つからたまたま「穀物国家」が生まれてきたんだ。
たまたま、と言ったのは、「穀物国家」ですら、その誕生までには随分と時間がかかっているし、いろんな要因が重なった結果なんだってことを示しておきたいわけ。
そんな不幸の拡大再生産装置とも言える国家に、なんでまた人は暮らすようになったのか。そんな国家がなぜ増えていくのか。一考に値するし、国家嫌いなアナーキストの気持ちもわかるってもんだ。一方で、支配者からしても、そんな国家を持続可能なものにしていくのは骨の折れる仕事だろうよ。
とはいえまぁ、この話題はいったんここで区切り、また後からじっくり考え直してみることにし、ちょっと視点を変えてだ、そうだな、改めて社会哲学からもアプローチをしてみようじゃないか。というのも、我はな、今村仁司さん(1942-2007)の〈第三項排除〉という図式が大変気に入っているのだ。出典は、『暴力のオントロギー』(勁草書房、1982)と『排除の構造 力の一般経済序説』(ちくま学芸文庫、1992)だぞっと。
それと、国家の定義をスッ飛ばした状態で、安易に「穀物国家」がどうの、なんて語ってきたがな、まぁあんまり気にするな。まだまだ導入だからな。後でキッチリ議論していくつもりだ。
3 『反穀物の人類史』:P145