3 今村仁司・第三項排除モデル
文字数 4,678文字
学校時代、どの教室でも大なり小なりイジメはありましたし、いろんなバイトをしましたが、どこでもイジメありましたし、なんつーか、人のいるところイジメあり、って感じで・・・・・・
いつ自分がイジメられるかわからないという恐怖感があるとだ、いっそイジメに加担してしまうか、助けようとするよりはむしろ放置してしまうものさ。人は弱い。誰かが代わりにイジメられていると、むしろ安心してしまうところがある。
誰かが犠牲になることで、みんながまとまる。これをな、今村さんは〈第三項排除〉、もっと細かく言うと〈下方排除〉と名づけている。生贄は〈第三項〉の一種であり、みんなから一斉に踏みつけられてるんだからさ、明らかに〈下方排除〉だろう。
そうだな、学園ドラマかなんかでさぁ、そういう類のしょぼい委員長がだ、なにかの拍子で、まぁ事件とかあったりしてね、ガチのリーダーっつうか、みんなに担ぎ上げられてさ、一時的に正真正銘のヒーローになっちまうシーンとか、あるじゃん。みたことない?
つまり共同体を今度は〈上〉から吊り支えるガチのリーダーになってしまうことがあるんだ。こうなるともう、〈下〉であったり〈上〉であったりという、両義的な感じだな。
ただ、最初はそんなパターンのリーダーであっても、そうこうするうち、だんだんと真のリーダーっぽくなっていくものさ。いつの間にか〈上〉から統率するリーダーに変貌している。これってまさに〈下方排除〉からの〈上方排除〉だろう。
だからこそ、ときにそういう「オレたちとは違うリーダー」がさ、熱すぎて暴走なんかしちゃうとだ、途端にメンバーから「ついてけねぇ」って、そっぽ向かれちゃったりして、「あとは独りで勝手にやってろ」なんてことが発生してしまうわけ。〈上方排除〉はすぐさま〈下方排除〉へ回帰する。
そもそもなんで今村さんの〈第三項排除〉を我が持ち出したのかというと、さっきも言ったとおり、このロジックを応用すればな、国家論について見通しがよくなると思ったからなんだ。
ただし、A.M.ホカート(1883-1939)『王権』(橋本和也訳、岩波文庫、2012)なんて本を読んでみると、王もまた少なくとも潜在的には〈下方排除〉を通過してきているような気がしなくもない。王の根本的な特徴は、太陽であり、かつ神であるところだ、とホカートはみなしているが、それはさておき、そんな王の戴冠式(即位式)においてはだ、一般論として、死と再生の物語が内在しているという。人としては死に、神として再生するのだ。
こう考えてみてはどうだろうか。王とは、我々の共同体を救済するため、神々の世界へ捧げられた生贄Xである、と。で、そのXが、神として我々の世界へ回帰してくるのだよ。〈下方排除〉からの〈上方排除〉だ。
ただし、そうだな、これは〈上方排除マイナス(-)〉とでも呼んでおこうか。そんな使い方を今村さん自身はしておらんのだが、我はべつに今村信者ではないからさ、自由にカスタムさせてもらうとしよう。劣化カスタムにならぬことだけを祈るわ。
なにが〈上方排除〉で、なにが〈下方排除〉か、厳密には分類できないんじゃないですか?
で、どんな運動かというと、共同体を〈上〉から、あるいは〈下〉から支えて維持し、成立させている運動だ。そうだな、コマ回しみたいなもんだよ。回転するコマを真横からみるとだ、ちょうど菱形(◇)のようになるだろ。〈上方排除/下方排除〉の運動が絶えず共同体という名のコマを安定的に動かしている。
たとえばカバン持ち学級委員長が「もうヤだ、限界」なんて仕事を放棄しちまえば、途端にコマの回転は止まってしまう。代わりのヤツがみつかるまで。
いずれにせよ、安定している共同体には、〈上方排除〉ないし〈下方排除〉の運動が内在している、ってことだけ頭の隅に置いておいてくれよ。
もっと正確に言うと、共同体というのは静止態ではなく、つねに運動態であり、顕在的にせよ潜在的にせよ休むことなく〈上方排除/下方排除〉が作動してるってことさ。
グラスに口をつけると、やたらと濃い、配分間違えてねぇかと思われる水割りがオレの喉を熱くした。岬美佐紀はカカカと笑った。イタズラなんだろう。
可愛くないし、笑えない。
1 たとえば民俗学の赤坂憲雄さんもまた「潜在的なスケープゴートとしての王」という考え方を示されている。「王権とはいわば、共同体または国家に堆積する災厄・罪・穢れの浄化装置である。」「近親相姦その他のタブーの違犯をつうじて、王はもっとも極端な穢れを具有する存在と化し、そうして王国に堆積する災厄を一身に帯びることによって、原理的には祝祭における供儀の生け贄として殺害される宿命にある。」と語る。(引用文献:『結社と王権』講談社学術文庫、2007:P17-18)