国家のない社会(4)
文字数 2,914文字
そもそも首長制社会における戦争とはどんなものだったと思う? 戦争と聞いて現代人がイメージするようなものとは違うってことくらいは察しがつくだろう。
あるいは、そもそもどういう理由で戦争になったと思う?
まず、①動物へ向けられた暴力ともいえる狩猟が反転し、それが人間へ向けられるようになった、という考え方は違う、と。
また、きみが言うように②貧しさから略奪という戦争が生まれた、とする考え方も違う、と。
そもそも技術的に遅れている社会だから貧しい、と思い込んでしまうのはとんだ先入観なんだ。実際には貧しいどころか豊かだったりする。
これも余談だが、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者で有名な水木しげるさん(1922-2015)の『ラバウル戦記』(ちくま文庫、1997)を読んだことあるか?
水木さんはそこで現地の人たちと交流してるんだが、そうこうするうち、どっちがよい暮らしなのかわからなくなり、「文明なんてなんなのだ」って思ったらしい。
なんというか、ゆるふわな生活が広がる世界の片隅で、近代兵器を駆使した殺戮が行われている。
そのドンパチが文明の進歩なのか?
水木さんと仲良くしていた部族の人たちは時間をたっぷりもっており、一日に数時間の畑仕事をするだけで後はおしゃべりしたり踊ったりして遊んでいたという。
むしろそれが人間本来の生活じゃないかと思うようになった、と水木さんは書いている。
いくら自然が豊かでも、そこから利益を得ようと考えて、得たものを売り、得たものを売り、さらに自然を開拓していき、もっと得てもっと売り、さらに開拓して、なんてやってれば働きづめになる。
これについては資本主義というものについて考える際にな、つっこんで議論しようじゃないか。今夜のテーマは資本主義ではなく、国家だからな。
ちなみに宗教学の中沢新一さんは、アメリカ先住民において、戦争の原因はたいてい自分の部族、とりわけ女や子ども、老人に対して加えられた侮辱に対する報復だった、と語っている。
つまり戦争とは報復であり、傷つけられた「我々」の威信、その回復さ。
その結果、戦争がいわば遠心分離機のような作用をしてしまい、それぞれの「我々」たちが適度な距離をおいてバランスよく離れて暮らし、分散し、棲み分けていくようになる。
クラストルは言う。普段は首長同士がお互いに贈り物などをし、平和裏に交流して暮らしているが、そういった関係性が壊れたときにこそ戦争が勃発する、というわけではない、と。あらかじめ平和な交際があり、その破綻が争いを生むのではなく、逆に争いの中から交際が芽生えてくる、と言う。敗者からの貢物がそうだろうし、あるいは目の前の敵と戦うとき、後ろから襲われるのヤだからさ、第三者的な立ち位置にいる部族と同盟関係をつくりたいとか思うだろう。そういうときにこそ、贈り物が必要になる。
ちなみに贈り物というのはモノだけじゃないぞ。女たちも贈られる。これまた余談だが、16世紀、スペイン人は新大陸を侵略していったんだが、友好を求めているのか、あるいは欲しいものをやるからとっとと帰ってくれと厄介払いしたいのか、現地の首長たちは贈り物をたくさん渡している。その中になんと、たくさんの女たちがいた。
話を戻すが、戦争というのはなによりまずは報復であり、一過性のものであり、それが片付いたら戦士の仕事はいったん終了。前面にでていた〈軍事的権力〉は再び後景に退き、首長の〈政治的権力〉が回帰する。
あるいはこう喩えてもいい。〈軍事的権力〉と〈政治的権力〉は、いわばコインの裏表、通常状態すなわちコインが表を向いてるとき、首長はその中心にいるが、例外状態すなわちコインが裏返ってダークな戦争状態へ至ると、戦士が顔を出す、ってわけ。
7 中沢新一『熊から王へ』講談社、2002:181-182頁
8 増田義郎『アステカとインカ』講談社学術文庫、2020