第2話

文字数 5,209文字

 土屋恭介。都立日崎高校二年五組。早生まれなので満十七歳。制服はブレザーで、白いシャツの上から羽織るジャケットは、ダッチアザーの明度を少し落としたような色。カーマインのネクタイを首に通し、グレンチェックのスラックスを履いて学び舎に通っている。成長期をあらかた済ませてしまった割にはいまひとつ伸び切らなかった両腕と両足を包む制服は、購入時に迷ったけれど、ぴったりと体にフィットするサイズにしている。袖や裾を余らせたまま卒業を迎える自分の姿が、容易く想像出来たからだ。
 柔らかいくせっ毛は、フライパンを焦がしたような黒。美容院に行く手間と金を惜しみ自分でカッティングしているので、前髪は少しだけ眉毛の上。今は辛抱強く伸びるのを待っているところだ。身長は四捨五入で百七十センチ。現在は人里離れた神社に一人暮らしをしており、家族は、居ない。
 勿論、最初から両親が居ないという訳ではない。土屋という一族は、言わば神主業の老舗みたいなもので、地元ではそれなりに名を馳せていた。
 この一族は、強力な神力、或いは霊力のどちらかが、常に生まれる子供に天賦の才として授けられるのが特徴だ。そんな事情で当然のように期待された第一子の恭介にはしかし、どういう訳か碌な霊力も神力も宿されてはいなかった。辛うじて、動物霊を視る力が異常に強かったのだけれど――そんな偏った能力など、胸を張って誇れる才にはなり得なかった。
 それでも、生まれくる子が自分のみであったなら、重宝されなくとも保険としてそれなりの扱いはされていただろう。しかしながら同刻に生まれた双子――妹の存在が、恭介を追い詰める結果となった。
 彼女は生まれながらにして、並外れた神力も霊力も、両方が授けられた赤子であった。〝自分の分〟が彼女に吸収されてしまったのではないかと思えるくらい、その力には底がなく、溢れる生命エネルギーには畏怖すら覚えた程だ。恭介とはまるで、反対の意味を持つ異端児。あまりの圧倒的な存在感を目の前にして、彼女を羨む気持ちすら萎えた。憎らしいと、そこが自分の場所だったのならと――そう願い、妬むには、余りにもレベルが違い過ぎたのだ。
 彼女のような跡継ぎがいるのなら、偏った霊としか限定で話せない自分など、お払い箱になるのは時間の問題だ。一族の間で忌み子として蔑視、嫌悪され、お前の存在は恥だと言われながら育てられたから、生きるのに最低限必要な衣食住を与えられたからといって、恭介が思い上がることはなかった。
 当たり前で、仕方がないことだ。何せこの家には彼女が居て、そして自分のような存在が居るのだから。そんな二つが揃ってしまったら、悪い方を責めたくもなるだろう。
 悲しいかなその心理は、幼い恭介にも理解が出来た。彼は殊勝に罵詈荘厳を受け取りながら、周りの言葉を噛み砕き、自分を静かに責めた。これ以上何も望まないと、低い位置でボーダーラインを引くことを早くに学んだのだ。
 そんな恭介が、十歳を迎えた晩秋の夜。
 ――ある事件が起きた。
 それ以来恭介は本当の意味で勘当され、少しの金と、自宅となる神社を与えられた以外は何も持つことを許されず、春を迎える前に土屋の屋敷を追い出されたのだ。
 朝夕の空気が、きりきりと冷たい時期だったのでよく覚えている。義務教育を終えるまでは自分を置いてくれるだろうと何の根拠もなく思っていたその家は、存外容易く恭介を突き放した。
 期待しないよう、物事に対して低めに線を引いたのは、ある意味保身のためでもあった。
 けれど、その低いボーダーラインでさえ、自分には高望みだったのだ。
 泣く前に、両足に力を篭めた。踏みしめて前に進もうとする度、つま先から伝わってくる冷たい土の感触が堪らなかったけれど。不思議と、気持ちはすぐに落ちついた。
 仕方のないことだ。
 恭介は振り向かずに黙々と歩いた。改めてショックを受けることではない。ああ、来るべき時が来たのかと。そんな妙な納得さえあったくらいで。
 とは言え、自分を最低限食わせて行かなければならないのが現状だ。特技もなく、年端もいかない子供が、選ぶことの出来る職種なんて数える程もなかった。唯一の得意分野は、動物霊と話が出来ることくらいで――当時の恭介に許されたのは、選択ではなく消去法。お祓い屋などという自由業を選んだのもそのためだった。
 かろうじて何年か、生きることの出来る金があればいい。どうせ、少しの間だけだ。そんな意識で淡々と依頼をこなしていれば、年月が経つのは愕くほど早かった。
 そんな時だった――紫野岡圭吾と出会ったのは。

 ボスボス、と奇妙な音が二回した後、返事を待たずに襖が乱暴に開かれた。いいか、入りますよいいですかというお伺いの意味合いを持つ行為の後は、応対を待つ程度のスパンを空けろ。そうでないとノックするという行為そのものが、何の意味も持たなくなるだろ。普段ならそう食って掛かるところだったが、如何せん今は眠気の方が勝っている。
 この時間にこのやり方で現れる、侵入者の見当はついていた。次に、カーテンを開けられるだろう。そう予測出来るくらいには日常の一部だったので、恭介は二枚重ねの毛布ごと、蒲団を一気に被る。多少息苦しいけれど、これで光を避けたい箇所の日光遮断対策は完璧である。
「甘いですよ」
 そう言うが早いか、声の主――圭吾は普段通りの手順を取らず、妙に紳士的な足取りで近づいてくる。楽しいことを前にした、子供のような軽やかなステップ。恭介は、寝具の中で密かに体を強張らせた。
 とりあえず、蒲団を剥がされては敵わない。両の手に力を篭めて、防壁を強化する。しかし、なかなか覚悟した引力はやってこなかった。
 不審に思い、そっと頭を出す。
 後輩の様子を窺おうとした――その瞬間。
「つっ、めてぇ!」
 予期せぬ彼の行動に、堪らず恭介は声を上げた。
「お早うございます、土屋先輩」
「お早うじゃねぇよ! そんな冷てェ手で足触んな! とっとと離せっ、この馬鹿!!」
 さっきまで表に居ただろう圭吾と蒲団の中でぬくぬくしていた自分の足とでは、当然のことながらすっかり体温が違う。まるで氷のような両手で体の末端を包み込まれれば、厭でも跳ね起きるしかないだろう。剥がされるまでもなく自ら蒲団を剥ぎ、囚われていた両足を振り払う勢いで壁まで後ずさりする。ごちん、といういい音がした。土壁が、衝撃でパラパラと砂を零す。
 ぶつけた頭と砂の入った目どちらから対処すれば良いのかも分からず、恭介は乱れた布団の上で一人、衝撃に悶え苦しんだ。
「つうかお前、何で毎朝異様に早く起こしに来んの……」
「先輩が、一人で起きることの出来ないヘタレだからでしょう」
「ちゃんと俺だって目覚まし掛けてんのに。意味ねぇじゃん」
「スヌーズ稼動回数の上限まで辛抱強くボタンを押し倒す先輩が設定する目覚ましにこそ、意味ないと思いますけど」
 冷ややかに返され、足に絡んでいた毛布さえ奪われる。寒さに耐え切れず掛け布団を探す手を、ぴしゃりと叩かれた。
「いいからさっさと支度して下さいよ。もう既に、あんたが設定した起床時間を十分もオーバーしてますよ。境内の朝掃除だって、満足にできないじゃないですか」
〝ははっ、情けねぇ。尻に敷かれてんじゃねェか恭介!〟
「うっせぇよ犬神……」
 耳元で、しゃがれた声が聞こえる。昨日仕事を、共に済ませた相方だ。そう説明してしまうには、仕事量に差があり過ぎるのだけど。とりあえず、二人のどちらかが欠けてしまえばお祓いは成り立たない。そういう意味では相方扱いをしても、あまり間違いはないのだと思う。
 恭介がやっているのは、簡単に言ってしまえばこの物の怪を呼び出すまでの作業だ。彼に仕事をさせている間はある程度の霊力を送り続けなければならないことも対象の大きさによってないことではないけれど、基本的に後のことは全てこの妖怪任せなのだから、お祓いないしは除霊時に自分が用意しなければならないのは、ある程度の精神力だけで充分という訳で。そんな彼を労う気持ちがない訳ではなかったが、それとこれとはまた話が違う。
 苛々に任せ睨むと、さっと圭吾の背中に隠れてしまった。はっきり動物の形を象っていた姿が、もやもやとした影に逆戻りする。図体の割に、鼠のような機敏さで動く相棒だ。
 恭介が犬神と呼ぶこの動物霊は、その名の通り犬神である。神様とつくと聊か仰々しいが、この場合の「神」は、単なる名前の一部という解釈で事足りるだろう。だってこいつが神々しいか。世間一般で言うところの犬神様がどんなものかは知らないが、少なくともこの物の怪に限っては、呼称の一種と捉えておいてまず間違いはないだろう。
 圭吾の横顔をぼんやりと見遣りながら、残された敷布団に伸ばす手を足で踏まれた。あまりの痛さに一瞬涙さえ浮かんだが、踏んだ本人はけろりとしたものだ。
「犬神さん、おはようございます」
 当然のことながら、土屋一族の血も流れておらず、視える霊の範疇外な動物霊は、圭吾の目には留まらない。辛うじて、声だけは聞こえるようだけれど――靄はおろか、気配さえ感じ取れないらしい。恭介の視線を辿るように眺めながら、居るだろうと推測出来るその場所へ向けて圭吾は独り言のように呟いた。
「さん、なんていちいち付けなくていいぞ……ったく、こっちから呼ぶ時にだけ出て来いっつの」
「また勝手なこと言って……あれ、先輩どうしたんですか? その肘」
「え?」
 圭吾に言われて漸く気が付いた。指摘された箇所を確認すると、青紫に腫れあがった皮膚の表面からうっすらと血が滲み出ている。打撲痕の上から、猫に引っ掻かれたような掻き傷をつけてしまったようだ。振り向けば蒲団にも、何箇所か血痕が染み付いていた。
 人に言われるまで気づきもしなかった怪我を今更認知したところで、シーツの洗濯面倒だなという感想以外特に浮かびようもない。恭介の視線が赤い染みを辿るのとほぼ同時に、首筋に張り付くような勢いで犬神が再び姿を現した。
〝間抜け、どうせ昨日ヘマしたんだろ〟
「あ……そうか。そういや、昨日」
「へえ、昨日ヘマしたんですか。それは間の抜けた話ですね」
 顔を上げた恭介を制すような勢いで、圭吾が右の二の腕を鷲掴んだ。左よりもうんと視力の弱い右側では、反応が追いつかずに腕を引かれるのを許してしまう。
 称賛しても良い程の、素早い動きで袖を捲くられる。警戒する間もなく、負傷部分を舌で舐められた。
「いってェ……!」
 ときめいてしまうよりは幾分かマシだったが、それでもこの痛みは耐えがたい。振り放そうにもきっちり捕獲されている両腕は、悔しくもやや体格の良い圭吾の方に分があるのが現実だった。
「……先輩の血って、何か変。水みたい? まったく味がしませんよ」
「へ、変なのはお前の頭だ! 良いから離せ!! 今すぐ離せ!!」
「そうは行きませんよ、どうせあんたまともに手当てもしないで放っておくんでしょう。膿んでからぎゃーぎゃー騒がれても煩いんで、今のうちに応急処置でもしておきませんか」
「ぎゃーぎゃーなんて言わねーよ馬鹿!」
〝ほっとけ圭吾。どうせ今治療したところでどのみちこいつぎゃあぎゃあ騒ぐぞ。うるせえことに変わりはねえよ〟
「お前は黙ってろ犬神!」
 何に腹を立てているのか、圭吾は持参して来たらしい救急箱を蹴飛ばすように開け、その肘へ向けて、あろうことか一番滲みると噂されているシリーズの消毒液をひっくり返した。声にならない痛みで恭介が呻いている間に、慣れた手付きでガーゼを当て、テープを縦の方向に一、二、十字にクロスさせるように横方向へ三、四。きっちり八箇所を止めた後は、くるくると包帯で巻き上げる。
 その完成度は見事なものだったが、それにしたって最初にぶっかけられた消毒液の乱暴さは頂けない。睨んで良いのか感謝していいのかを一瞬悩んだけれど、悩んでいる間に出来の良い部下は、さっさと片付けに取り掛かっていた。お陰で、こっちは消化不良のときめきがぐずぐずと胸に溜まる一方だ。
「ああ、まだ時間ありますね。境内全体は無理でも、拝殿くらいは掃除できそうですよ」
 違和感のない穏やかな口調で、次の指示を与えてくる。素直に従いそうになったが、一瞬で我に返る。おいちょっと待て。確か俺の方が年上じゃなかったか。それ以前に、雇用主じゃなかったのか。
 そんな疑問を口にする前に――被雇用者の手によって、恭介が普段着にしている黒袍黒袴が顔面に投げつけられた。
「外で待ってるんで、十秒以内に着替えてとっとと出て来てくださいね」
 甘い笑みを浮かべながら、頑張ればギリギリクリア出来そうな難題を朝から吹っ掛けてくるこの意地の悪さを何とかして欲しい。
 ぴしゃりと締められた襖をぼんやり見遣って、恭介はがしがしと頭を掻きながら立ち上がった。
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