第2話

文字数 4,592文字

「切られた」
〝何だ、圭吾か〟
 ため息のような声で、小さく呟く。一人言のつもりだったけど、返事があったのでそうではなくなった。
 声の主を確かめる必要もないほど、これまでの人生において一番聞き慣れた低音のそれ。親しみや慣れでというより面倒臭さが先に立って、恭介は押し黙った。ちらりと眺めたのは、自身の身長より二十センチ程度右上の空気。定位置と無意識に決めているだろうそのエリアに、彼が出現する確率は割合高かった。
 ゆらりと動いた影が、素早く形をつくる。ぴんと立つ、二つの耳。安物の膝かけに似た、ごわついた茶色い毛。触ってみると存外剛毛だということは、おそらく盟約主の自分しか知らないと思う。彼はこの世のものであって、この世のものではないからだ。
 その昔お互いの間でひとつの契約を交わしたことにより、マスターの恭介が望む時に好きなだけ姿を現し、その力を使うことが許された、所謂売約済みのような動物霊。気軽に触ることも、命を下せるのも、盟約相手の自分だけ。最近は望んでもいない時にひょこひょこ現れ普通に相槌を打ってくるので、特権自体のありがたみは最早ないに等しい。
 盟約の条件は、体の一部を相手に差し出すこと。既に恭介は片眼を支払っているので、その権利は半永久的に持続するということになる。
 勝手に現れたくせに、退屈そうにあくびをするその相棒をぼんやりと見上げた。まるで寝起きの人間のように顎の下を掻きながら、くるりとこちらに向ける双眸には意外にもそれなりの愛嬌がある。ぎょろりとした目は、鋭さを残しながらも丸っこい。自分が命じればどんな敵にも臆さない癖に、普段の彼は理由もなく、毛を逆立てるような真似はしないのだ。
 人間二人くらいは、容易く運べそうな大きな体。犬にも似たなりをしているが一応の犬神で、けれどやっぱり犬なのだと思う。神だと思えるような、神々しさは欠片もない相棒だ。
 圭吾か、と聞かれていたことをふいに思い出す。ゆるく首を振って、違うということだけを伝えた。手元にある携帯は、もう繋がっていない。用件だけを伝えて早々に切られたそれを見つめ返しても、折り返してくれる筈もないことは分かっている――まして、期待した相手から、かかってくる訳などないことも。
「依頼人だよ。前に決めた日程早めてくれってさ……ったく、好き勝手言いやがって」
〝徐霊すんのに、今日も明日も変わンねえだろ〟
「今回はちょっと、特殊なケースなんだよ。俺もあんまり知らねえことが多いから、もうちょっと調べる時間が欲しかったんだけど」
 溜息をつく。今日は徹夜かもしれない。昨日三、四時間は寝たから、まだ体はもちそうだけれど。こんな生活を送っていたらまた、口うるさい雇いバイトに怒鳴られるに違いない。
(……しばらくは、その心配もねェだろーけど)
 自分でそう考えてから落ち込んだ。いつになく打たれ弱くなっていると思う。圭吾と出会ってから――いや、圭吾を自分に巻き込んでしまってからは、特に。
〝圭吾、呼ばねェの〟
「いちいち呼ばなくたって、来る時は来るだろ」
〝全然来てねえから、聞いてンだろ〟
「……」
 週に四日は何だかんだで足を運んでくれていた後輩が、ぴたりと来なくなってもう五日。さすがに何かしら揉めていることは、もう隠しきれないだろう。喧嘩をした、とは思えない。かといって、いつも通りでは勿論ない。揉めている。そう表現するのが一番合っている気がしたが、言葉にしたら微妙だった。自分たちが今どういう状態なのか、結局のところわからなくなってしまう。
「……鳴海は、行きたくなかったから行かないって」
 声が揺れてしまうのは、そこに迷いがあるから。蛇霊の一件以来、自分の判断にめっきり自信がなくなってしまった。
 与えられることに慣れる機会もなかった、幼少の頃を思い出す。今更寂しいも空しいもないけれど、こんな時だけは歯がゆく思う。相手の欲しいもの、与えるべきものは何なのか。想像するしか、方法がないのだ。殆ど一人遊びのような感覚で、必死に探ろうとしたけれど。それさえも空振りのような気がして仕方ない――まさか、あんなに怒らせてしまうなんて。
「俺は、また何か間違えてんのかな……」
〝人間の常識なんか、俺に聞くなよ〟
 まいったというような口調で、溜息交じりに返された。はっきりと形をもったそれが、ゆるゆると気体に戻る。
「おいこら、逃げんな」
〝……っつーか恭介〟
 掴もうとする恭介の手をうまく避けながら、犬神は触れない程度の高さまであがってから靄を回収した。何だか拗ねているような顔の恭介をちらりと眺めながら、しゃがれた声で問いかける。
〝本来の目的はどうしたんだよ〟
「ばか、あれだけのことで怒らせたんだぞ。もっと怒らせる確率の高ェことなんか、言えるわけねーだろ」
 子供のようにむきになって言い返す恭介を、感慨深い眼差しで見遣る。圭吾に出会ってからどんどん、マスターは子供っぽい表情を見せるようになった。悪い変化ではないのだと思う。自分が与えたくて仕方なかったそれを他の人間からやすやすと受け取っているさまを見るのは、何だか少し複雑な気もするけれど。
「……今は、タイミングを見計らってんだよ」
 見計りすぎて毎回結局、一番タイミングの悪い時に白状する羽目になっていることに気が付いていないのか。最後の靄を回収して犬神は、途方に暮れたように宙を仰いだ。

 発端は、五日前のことだった。
「先輩。僕、来月半ばに三日間、泊まりに来ても良いですか」
 密かに片想い中の後輩から毒とも甘味ともとれる突然の申し出を受け、恭介の頭は一度わかりやすく固まった。
 無茶すぎる。週に四日の逢瀬だって、贅沢に耐え切れず心臓が止まりそうなくらいなのに。それでも夜になれば帰ってくれるので、のぼせあがった頭や心を休めることはどうにか出来た。それが、三日間ずっと会いっぱなし? だめだ、心臓がもたなすぎる。
(いやいやいや、待て待て俺!)
 最初に突っ込むべきところはそこじゃない。浮かれかけた頭を抑え込んで、どうにか切り替える。
 そもそも、だ。そもそも。
「何で三日も、泊まるなんて言い出すんだよ。真ん中に連休とか、ねえだろ。五月」
 言いながら、ちらりと壁を見遣る。古い土壁の横柱へ無理矢理画鋲で留めたそれは、記憶の通りに飾ってあった。 ごまかしごまかし使っていた電子レンジがとうとう潰れ、だから早く買い換えろってあれほど言ったじゃないですか等々文句を言われながら圭吾に連れていかれた年の瀬の家電良品店で、下から二番目に安いレンジを購入した時に何故か店員から笑顔で押し付けられたのがそのカレンダーだった。
 二日前まで丸めたまま壁に立て掛けていたそれを、何でこういうものをすぐに処理しないんですか、壁に立てるくらいなら吊した方が邪魔にならないでしょう等々これまた同じ後輩にちくちく小言を言われ、涙目で飾ったばかりのせいか端に少しだけ丸み癖が付いている。
 人差し指と中指で、形状記憶を辿ろうとするそれを軽く抑えながら、そもそも一月二月のページになっていたそれを、二枚一気にビリビリと破る。デザインされていた犬と犬がじゃれ合う写真を見るとはなしに見ながら、左側――五月の歴を確認した。
 企業によって開始日が前後するGWは、そのくせ終わる日にちだけはしっかり固定されており、全国一律で五日までとなっている。記憶の通り並んだ赤色の数字は、六から黒に切り替わっていた。左側縦一列が、日曜を示す赤。右の一列は、土曜の意を示す水色。その他に色の変わった箇所は確認できず、彼の言う「三日間」と推測される連休は見つけられなかった。
「修学旅行ですよ」
 簡潔に、圭吾が答える。瞬間震えた指先は、自分の体で影になったので見られずにすんだ。
「なので、三日間フリーと思ってもらって大丈夫ですよ。家事や雑務は全て僕が担当しますので、先輩は調べものに集中してください」
 まるでそうすることが当たり前かのように話す、圭吾が信じられなかった。瞬きをしても、手を握りしめても、込み上げる衝動を抑えることができない。
「もう僕も、犬神さんを認識できるようになりましたし……白虎だっているし。先輩さえ指示を出してくだされば、簡単な依頼くらいは」
「だめだ」
「……先輩?」
 自分でも驚くほどに、強い声だった。震えの止まらない指先を黒袴に隠しながら、恭介は畳み掛けるように言葉を続ける。
「それは、絶対にだめだ。修学旅行は、ちゃんと行け」
「でも」
「どうしても行かないっていうなら、俺も今後のこと考えさせてもらう」
 冷たく言い捨てて、言葉を切った。理不尽な物言いにおとなしく従わず、すぐさま圭吾が切り返す。
「今後って、何ですか」
「……」
「……先輩。同じことを僕、あと何回言わなきゃならないんですか?」
 うんざりしたような口調が、静かに恭介を責めた。うまく言葉が続かず、唇を噛む。
 押し黙る恭介に時間を与えることさえ許さず、圭吾は僅かに声を張り上げた。
「もうそんなことで揉める時期じゃないって、いい加減わからないんですか? 時間なんて、いくらあっても足りないんですよ。本当なら今、学校に通ってる時間さえ惜しいくらいだ」
「――しの」
「っていうのを僕が言い出したらあんたが困るから、何とか言わないよう我慢してるってどうしてわからないんだ!」
「……っ」
 怒鳴る声が、耳を震わす。小さく息を飲む恭介に構わず、圭吾は言葉を重ねた。
「先輩がお門違いな罪悪感を抱かないよう、勉学で手を抜いたりはしていません。順位のひとつでも下がったら、自分のせいだとか馬鹿なことを考えて落ち込みかねませんからね」
「馬鹿ってお前……」
「でもそれならせめて、こっちに割いても問題のない時間なら、自由に使ってもいいでしょう? 修学旅行に行かなくたって、僕の進路に響くことは何もない」
「……そういう問題じゃないだろ」
「なら何が問題なんですか。全然わからない」
 言い放って、圭吾は疲れたようにため息をつく。手にしていた書類を持ち替えて、利き手でゆるく首裏をなぞった。二つ歳下のはずのその男は、ときどき不相応な色気を出すから正直困る。一瞬囚われそうになった気持ちを押し隠すように、恭介は声を荒げた。
「お前の権利を全部、必要不必要で取り上げるつもりはねぇんだよ」
「そんな悠長なこと、言ってる場合じゃないでしょう。必要不必要で物事を考えなくて、どうやって優先順位を決めるんですか」
「……まだ五年ある」
「…………」
「それまでに、どうにかなるよう頑張るつもりだけど……もしも」
「呆れたな」
 ゆるく首を振って、圭吾が小さく笑った。力のないその仕種は、どこか弱々しく見えて戸惑う。
「……しの?」
「よくわかりました。何だか僕は、色々履き違えてたみたいだ……さっきは、怒鳴ってすみませんでした」
「……や、俺も悪かったし」
 柔らかく微笑まれ、心臓が跳ねる。優しい口調で続く言葉を聞くまでは、圭吾の心境にかけらも気づいていなかった。
「正直」
 ラブソングでも口ずさみそうな凪いだ声で、紡いだ言葉を唐突に切る。一瞬だけ恭介を見てから、圭吾はそっと目を伏せた。確かに笑顔だった筈の口角が、僅かに歪む。
「話にならないですね」
 言い放った彼の言葉は、不自然なほどの穏やかさと、桁違いの冷徹さの両方を匂わせていた。
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