第12話
文字数 7,286文字
溢れて止まない涙が、温かいことが何故だか不思議だった。ゆっくりと首を擡げて、すっかり閑散とした神楽の間を見渡す。まだ、少しだけ喉が痺れていた。それが毒の効果なのか、喉が嗄れるまで泣いたせいなのかは判別出来ない。こめかみに走る、鈍い痛み。過呼吸寸前まで泣き喚いて、その結果手元に残ったのはただの事実だった。
「いつまで、そうやって拗ねてるんですか」
早すぎる寿命宣告が下された後とはとても思えない、普段通りの緩やかな声。憎らしい程冷静な彼は、意識の戻った依頼人相手に会計を済ませ、家まで送り届けたようだった。その他雑務をてきぱきとこなし、自分が呆けている間に、あらゆる書類の処理が有能な彼の手によって全て片付けられた。まるであっけない、あっという間の出来事だった。
泣き腫らした顔を今更隠す気持ちはなかったけれど、力の抜けきった首から上の神経に、持ち上げろと命令するには少しだけエネルギーが足りないようで。視界に映るのは、毛羽立った畳と、蚊取り線香の灰で付いた、小さな焦げ痕。無意識に、指を添えて撫でる。
がさ、という感触が、恭介に嫌と言う程この悪夢へ現実感を与えてくれた。
「……別に、拗ねてねぇよ」
やっとの思いで、言葉を返す。この現実が、喉が痛くて。うまく喋ることが出来ない。
「へぇ。なら、その態度の悪さは何なんですか」
「脱力だ脱力。どっかの馬鹿バイトが、馬鹿過ぎで途方に暮れてるところだからほっといてくれ」
「それ、先輩に言われたくないですね」
咎める声が、恭介を責めた。いつもの軽口を装った、けれどいつもよりはそっけなく冷たい口調。断罪される前の被疑者のような気分で、恭介はのろのろと首を動かす。目を見て話を聞く度胸はなかった。
「一緒に居たって、いつも先輩は上の空でした。かなり強引に生活圏内に入ったつもりだったけど、それもあまり意味なかったみたいですね。先輩は、いつも自分を一人にしようとしてたから。結果、あんたの傍に居る時は僕も一人だった」
「…………」
「あんな風に冷たく受け入れられるくらいなら、突き放された方がまだマシだ」
「……なら、俺のことなんてほっときゃ良かったろ」
実際、こんなことになるのであれば放っておいて欲しかった。恨みがましい気持ちを隠しきれずに言葉に乗せて、ぼそりと反論する。掠れた声で放ったそれは、不正解だったよう。まるで世界一の馬鹿を見るような蔑んだ目つきで、圭吾にギロリと睨まれる。
「ほら、すぐそれだ。あんたはいつだって、自分で勝手に線を引いて、僕にとって何が良いことなのか勝手に決めて離れていくんですよ。ずっと、それがもどかしかったんです。僕にとって必要なものも、不必要なものも、先輩に勝手に決めて欲しくなんかない」
逃げ道を埋められている。そう思った。言葉の檻で、体を囚われたように動くことが出来ない。
「正直僕は、思い知って欲しかったんで。たとえ命とひきかえにしたって、手に入れたものを後悔したりしませんよ」
「何、言ってんの……お前」
「僕がどんなに欲しがっても絶対ゆるしてくれなかった、先輩が背負っている過去や覚悟みたいなものを全部。僕に受け渡してくれるんなら、命くらい何十年切り取られても構わない。さっきからそう言ってるんですよ」
吐き捨てられるように言われ、簡単に血が昇る。恭介にとってかけがえのない圭吾へ無常にも短命宣告を下す方法を選んだ当の本人に対する怒りも、充分過ぎる燃料だった。
「ふざけんじゃねぇよ!!」
弾けるように立ち上がり、胸倉を掴む。
上背が負けている分、やや不安定な体勢だったけれど。構わずに拳を振り上げた。どこから込み上げてくるのかも分からない力は、全て怒りへと昇華される。一発食らわせて吹っ飛ばしただけでは飽き足らず、また圭吾の胸倉を掴み上げた。もう一度拳を振り上げ、けれど再び振り下ろすことは出来なかった。彼の、口の端が切れている。滲んでいる血液は、一種類ではない。
ついさっきのことだ。彼から口づけを受け、噛みつかれ、舐め取られた、忌まわしい、土屋のそれ。
(――こいつの綺麗な顔を、穢したのは間違いなく、俺だ)
「いい加減にしろ! どこまでお前は勝手なんだよ! 俺は何にも欲しがっちゃいなかったのに! 同情してくれとか、同じところに来てくれとか、一つも頼んでねぇだろ……!? 俺は納得してたんだ。ちゃんとどういうことになるのか、何を犠牲に払うのか、頭で考えて、納得した上でこの結果を手に入れたんだ。俺が俺の勝手で死んだって、何したって放っといてくれよ。誰が助けてくれなんて言った。誰が俺と一緒に死んでくれなんてお願いしたんだ。勝手に残りの寿命丸めてゴミ箱に捨てやがって……ふざけんなよ、てめぇ一生許さねぇからな……!」
慟哭のように張り上げた声が、虚しく古びた家屋を軋ませて僅かに跳ね返る。繰り言だとわかっていても、言葉は止まらなかった。愛しい人の選んだこの現実への絶望は、どれほど嘆いても足らなかった。
「返せよ、しのの寿命! ちゃんと……元の通り、しのに……返してくれよ……!」
この腕を振りほどくこと、殴り返すこと。
どちらも実行するだけの腕力と権利のある筈の後輩は、どちらの選択肢も選んではくれない。先に力を失ったのは恭介の方だった。吊り上げていた胸倉を、ゆっくりと下ろす。倒れるようにして、圭吾の広い胸に顔を埋めた。
煙草の臭いと、蚊取り線香の僅かな香が鼻を掠める。滲みそうになった涙を堪える為には、瞼を強く閉じることが必要だった。
「土屋先輩に言われたくないです」
同じことを、もう一度言われる。けれど、まるで同じ口調ではなかった。
一回目の、投げやりな言い回しとは違う。その静かな問いかけは、黙殺を許さないだけの効力があった。
「……何」
「どうしてそんな盟約を交わしたのかという事情は、後で聞きます。どのみち理由なんて今聞いたところで、先輩の過去に関われなかった僕には、はいそうですかって納得することしか出来ないですからね。知識として知らせてほしいって気持ちはありますけど、それによって、僕の感情に変化があるかと言われればそうではないし……そんなことより今の今まで、僕に何も打ち明けてくれなかったことに腹が立つんです。いつか隠してる何かを話してくれるって、あてもなく待ってた僕の情けなさがあんたに分かりますか? 先輩にこんな酷い痕を残したあの蛇に、少しは感謝しないといけないなんて屈辱を噛み締めなきゃならない僕の気持ちは? 結局こんなことにならなけりゃ、話してくれる気なんてなかったんでしょう……やってられませんよ」
拘束された時についたであろう圧迫痕をそろりと指で撫でながら圭吾が、一息で恭介を責め立てた。話していなかったから圭吾のことを信用していなかったのかと聞かれれば、それは勿論違う。けれど、事情を一切知らされていなかった彼にしてみれば、それすら取ってつけたような言い訳に聞こえるだろう。
今はただ、そのことがつらいと思った。
「お前を信用してなかった訳じゃない」
そんな自覚がありながら、それでも口にしてみたけれど、
「そうは思えませんけど」
あっさりと否定されてしまった。
「二十歳に死ぬかもしれない、なんて事情を僕に話さない時点で〝二十歳以上一緒に居る気がなかった〟ってことでしょう。十九歳と十一ヶ月になったら、僕に見当もつかないようなどこかへ、ひっそりと姿を眩ます気だったんですか」
「…………」
図星を指されては閉口するしかない。この万能なバイトに比べ唯でさえ口が上手い方ではないのに、伝えたいことが自分の言語化能力を遥かに凌駕して、一つも形に変換されないのがもどかしかった。
無理に口を開いて、結局息を吸っただけでまた閉じる。唾と一緒に飲み込んだのは、ワンフレーズどころではない言葉の集合体。咀嚼された食事のように喉を嚥下させてしまえば、本来なら意味のあるそれらは、胃袋で簡単に死骸となって。
普段なら、そこで諦めていた。
命をも投げ出した恭介を、どんな時だって見失わずにいてくれた犬神と――目の前の、恋しい人。この一人と一匹に支えられた毎日は、ふとした瞬間に涙が溢れそうになる程、幸せに溢れた日々だった。
こんな分不相応な現実が、いつまでも続く訳がない。
幼少の頃に分不相応な物の怪と盟約を交わして、その結果ごっそりと奪われたものへの執着を、知っていたから。
「俺さ」
言葉にするのは、変わらずに難しいままだったけれど。伝わらなければ、いくらだって重ねよう。大量生産なら、努力次第で可能になる。長期戦を覚悟で、飾りのないただの想いを恭介は口にした。
「お前と犬神が居てくれたから、二十歳の寿命だって……構わないって思えたんだよ」
端正な眉が、露骨に皺を寄せる。言葉が足りなかったのか、単に意味が通じにくかったのか。少なくとも不快感以上のものを与えることは出来なかった結果を彼の表情から読み取りながら、めげそうな気持ちを奮い立たせて、恭介は一気に言葉を続ける。
「九尾や……蛇霊が言ったのは本当のことだ。オレの血はブランドなんだよ。昔っから、神道を重んじる神主の家系で有名だったんだ。生まれる子供だって、ずっと優秀だった。何回か連続で、とかのレベルじゃなく、歴代必ず神童が生まれたんだ。そうって毎年どころか先祖代々決まってたから、俺みたいな出来損ないが生まれた時、周りの落胆はそりゃあひでェもんだったさ。双子の……妹がいたんだけど。そいつはちゃんと期待通りだったのに。俺だけ全然、何も持たなくて」
恨んではいない。こんな話をしていても、気持ちは酷く穏やかに凪いでいて。
「赤ちゃんって、何も持たなくて生まれて来るのが普通でしょ? 育っていくうちに、手荷物が増えるんですから。僕だったら、最初から何か持ってる赤ちゃんなんて、怖いと思いますけどね」
「いや、手提げ鞄的な意味じゃなくてな」
「同じことですよ」
呆れたように、笑われる。少しだけ、心が軽くなった。
ああ、こいつに。届けたい。伝えたい。
面倒臭がりで、諦めの早い自分には慣れない衝動が込み上げる。恭介はぎゅっと目を閉じて、圭吾の肩に顔を埋めた。
「……信じてねぇ訳じゃねえんだよ」
繰り返しても白々しい、そんな言葉を。
それでも挫けずに、重ねて口にする。圭吾の顔を見る勇気はなかった。
「信じてない訳がねえだろ。仕事とはいえ、今まで会ってた回数を考えろよ。信頼も置けねぇやつとそんなに顔を突き合せるほど、俺は器用じゃねぇんだよ。寧ろすげえ頼ってたさ。お前自分で言うだけのことあって、頭良いし、優秀だし……時々そこがムカつくけど」
「あれ、ムカついてたんですか」
自分が優秀であることに自覚があるのかないのか、いや多分あるのだろう、きょとんとした顔で圭吾が突っ込む。いやそこはそんな重要なとこじゃねぇだろ、とがっくり項垂れながら恭介は、こんな尊大な態度をとられているとはいえ、仮にも想い人に結果どれだけカッコいいと思っているのかを正直に伝えてしまったというよく分からない現状からくる羞恥にただ耐え忍んだ。
「流しとけよそのへんは……とにかく、しのと出会ってから、嘘みたいに楽しかったんだよ。勿論犬神が居てくれた時点で、俺は充分救われたけど。そんな大事な存在が二人に増えたんだから、単純な掛け算だ。幸せだって二倍思うだろ。もう満足だった。このまま死んじまうのもいいなぁって、騙し騙し言い聞かせようとするんじゃなく本心で思った。お前に話さずにいたのは、信じてないとかじゃなくて」
息をつく。指が震える。絞り出すようにして、恭介は何とか言葉を繋げた。
「ただ、そういう日常を守りたかったんだよ……俺は。悪ィ、うまく言えないんだけど……」
「その頭の良い僕が」
短い言葉で遮られる。恭介から少し離れて、圭吾は曖昧に笑った。口に咥えていただけで吸うのも忘れ去られていた一本を、胸ポケットから取り出した携帯灰皿に押し付けて、強制的に吸殻にする。まるで動きに無駄のないそんな仕草に、ぼんやりと目を奪われた。立っているだけでも充分、絵になる男だ。それが動画になれば、まるで映画のワンシーンのよう。
視線を外し損ねたタイミングで、ゆっくりと振り向かれる。
しまった。顔を見られたくなかったのに。
「弱点を充分攻められて息も絶え絶えな物の怪を目の前に、先輩の喉が復活する僅かな時間を待てばそれで事足りる除霊作業を敢えて選ばずに――何の為に九尾をわざわざ呼び出して、僕自身が盟約を交わしたと思ってるんですか」
その声は僅かな時差を持って、恭介の脳内に届いた。確かにたった今目の前で無駄のない動きをしてみせた後輩としては、及第点さえ与えるにも難しい強引な解決方法を選択したようにも、思う。
言われて漸くそのことに気がついた。恐る恐るもう一度視線を圭吾に向ければ、想像と違わぬ不機嫌な顔。溜息をつかれた。重々しいそれではなく、まるで仕方がないなと甘やかしてくれるような、労いを込めた優しい溜息だった。
「先輩は、天邪鬼なんですよ」
畳に散らばっている蚊取り線香の残骸を綺麗な指先で摘みながら圭吾は、揶揄するような口調を崩さずに言葉を投げる。すっかり緩みきってしまった神経では、それらを受け取るだけが関の山で。ろくなリアクションを返すことも出来ずに、後輩の一連の動作を見遣った。
ゆらり。視界が僅かに歪んで。すっかり形を潜めていた犬神がその姿を象った。
「自分一人だと決してその場から歩こうとはしないのに、何か荷物を持たされたら、どうしてか立ち上がることが出来るんだ」
穏やかで、澱みのないテノール。
頭に響くのは、言葉ではなくただの文字列とリズムだけだった。まるで好きな音楽を、ランダムに聴いているような感覚。圭吾の声は恭介に、どこまでも優しく響いて聞こえた。
〝よくわかってんじゃねえか、圭吾〟
満足そうに、傍で犬神が笑う。やや語尾の掠れた、圭吾より少し低い声。
「伊達に先輩のとこで働いてませんからね……まぁ、ろくに給料貰ってませんけど」
「すみませんでした」
反射的に謝ってしまう恭介を見て、圭吾が目を細めて笑う。屈託のない笑みを浮かべながら、圭吾はゆっくりと言葉を紡いだ。
「いいですよ、出世払いで」
「出世って……これ以上有名になることがあると思うのか。こんな自由業」
「まあ、まずないでしょうね」
「…………」
即答か。やっぱりどうにも、どう考えても、雇われている側の態度じゃない。
「将来、うんと先に……大学卒業してそれなりの職について、そこそこ儲けられるようになったら返してください」
「……そりゃ無理だ」
「ねぇ先輩。本当に無理なことだけ無理って言いましょうよ、今度から」
だって、本当に無理じゃないか。そう続ける前に肩を掴まれた。強く食い込む指が、恭介に生きているが為の痛みを教えてくれる。
「……痛ぇよ、しの」
「僕が。あんたの荷物になります。先輩がもっと生に執着して、死を恐れてくれるのなら、僕は幾らでもあんたに鉛をつけて、足手纏いになって、どんな時でも立ち上がらせることの出来る〝障害〟になってみせます――だから」
「もっと拘ってください。先輩がここに生まれてこうして生きていることは、先輩が思っている以上に、ずっと尊い奇跡なんです」
呼吸をするタイミングを間違えた。息苦しいのに、何故だか空気を肺から出す作業すらままならない。いや、タイミングを間違えたのではなく、まるで呼吸の仕方さえ忘れてしまったかのよう。
「……ばかじゃねぇの」
ずっと無理に蓋をして閉じ込めようとしていた感情か、いつの間にか熱を孕んで恭介に主張を始めていた。取り乱さずにいようと、これ以上を願わずにいようと――吐き出してしまいたかった言葉を、噛み殺しては飲み込んで。
許されないことだと、力を入れることを避けようとして。脈打つ心臓が、恭介にただその存在を訴えても、いずれなくなるものだからと、気付かないふりをして。
いつでも死ねると思える強さこそが頼りで、その実死ぬという単語には他の誰よりも敏感だった。だって仕方ないじゃないか。打ち消してしまいたかった感情は、普通なら当たり前に許される筈の欲望ばかり。
本当はまだ、諦めたくなんかないのに。
「言っておきますけど僕、二十歳で死ぬ気なんかありませんから」
抑えたテノールか、追い打ちのように恭介に投げられる。その先に続くだろう言葉を、聞いてしまうことは躊躇われて。
それは甘くて残酷な誘惑だった。
「一緒に、盟約を解除する方法を探してもらえませんか」
イエス以外の返答を許さない柔らかな命令は、簡単に恭介の首を縦に動かしてしまうだけの力があった。頭で考えるより前に首を動かしてから、遅れて彼の命に従うことの深刻さに我返る。
ただ残された月日を淡々と辿れば良かっただけの今までとは、違う。全力で死を畏れ、あがいて、もがいて、生き抜く方法を最期まで探さなければならないのだ。
――瞬間。
捨て置いてしまおうと思っていた自分の命に、重さが加わった。今までまっとうに成人した自分の姿など、考えたこともなかったのに。
大切な人を助けたいと願うなら、その先を思い描かなくてはいけない。たとえ、それがどんな夢物語だろうと。
まるでアルコール成分の高いお酒を飲んだ後のような、鈍い重みのある幸福感。ゆらゆらとぼやける意識の中、それでもちゃんと、自分の意志で恭介はもう一度首を振った。
――縦に。
(何てこった)
(これで俺は、二十歳で死ねなくなっちまったじゃねぇか)
一度だけうつむいて、けれど恭介すぐに顔をあげた。その双眸に、圭吾が小さく目を瞠る。常にどこか脱力し、ゆるやかな流れにさえも抗おうとはしなかったこれまでの恭介からは、まるで想像出来ない程力強い眼差しだった。
それは、今以上の幸いを渇望する瞳。
アンセルフィッシュだった彼が、漸く何かを欲しいと願っている、そんな眼差しだった。
「いつまで、そうやって拗ねてるんですか」
早すぎる寿命宣告が下された後とはとても思えない、普段通りの緩やかな声。憎らしい程冷静な彼は、意識の戻った依頼人相手に会計を済ませ、家まで送り届けたようだった。その他雑務をてきぱきとこなし、自分が呆けている間に、あらゆる書類の処理が有能な彼の手によって全て片付けられた。まるであっけない、あっという間の出来事だった。
泣き腫らした顔を今更隠す気持ちはなかったけれど、力の抜けきった首から上の神経に、持ち上げろと命令するには少しだけエネルギーが足りないようで。視界に映るのは、毛羽立った畳と、蚊取り線香の灰で付いた、小さな焦げ痕。無意識に、指を添えて撫でる。
がさ、という感触が、恭介に嫌と言う程この悪夢へ現実感を与えてくれた。
「……別に、拗ねてねぇよ」
やっとの思いで、言葉を返す。この現実が、喉が痛くて。うまく喋ることが出来ない。
「へぇ。なら、その態度の悪さは何なんですか」
「脱力だ脱力。どっかの馬鹿バイトが、馬鹿過ぎで途方に暮れてるところだからほっといてくれ」
「それ、先輩に言われたくないですね」
咎める声が、恭介を責めた。いつもの軽口を装った、けれどいつもよりはそっけなく冷たい口調。断罪される前の被疑者のような気分で、恭介はのろのろと首を動かす。目を見て話を聞く度胸はなかった。
「一緒に居たって、いつも先輩は上の空でした。かなり強引に生活圏内に入ったつもりだったけど、それもあまり意味なかったみたいですね。先輩は、いつも自分を一人にしようとしてたから。結果、あんたの傍に居る時は僕も一人だった」
「…………」
「あんな風に冷たく受け入れられるくらいなら、突き放された方がまだマシだ」
「……なら、俺のことなんてほっときゃ良かったろ」
実際、こんなことになるのであれば放っておいて欲しかった。恨みがましい気持ちを隠しきれずに言葉に乗せて、ぼそりと反論する。掠れた声で放ったそれは、不正解だったよう。まるで世界一の馬鹿を見るような蔑んだ目つきで、圭吾にギロリと睨まれる。
「ほら、すぐそれだ。あんたはいつだって、自分で勝手に線を引いて、僕にとって何が良いことなのか勝手に決めて離れていくんですよ。ずっと、それがもどかしかったんです。僕にとって必要なものも、不必要なものも、先輩に勝手に決めて欲しくなんかない」
逃げ道を埋められている。そう思った。言葉の檻で、体を囚われたように動くことが出来ない。
「正直僕は、思い知って欲しかったんで。たとえ命とひきかえにしたって、手に入れたものを後悔したりしませんよ」
「何、言ってんの……お前」
「僕がどんなに欲しがっても絶対ゆるしてくれなかった、先輩が背負っている過去や覚悟みたいなものを全部。僕に受け渡してくれるんなら、命くらい何十年切り取られても構わない。さっきからそう言ってるんですよ」
吐き捨てられるように言われ、簡単に血が昇る。恭介にとってかけがえのない圭吾へ無常にも短命宣告を下す方法を選んだ当の本人に対する怒りも、充分過ぎる燃料だった。
「ふざけんじゃねぇよ!!」
弾けるように立ち上がり、胸倉を掴む。
上背が負けている分、やや不安定な体勢だったけれど。構わずに拳を振り上げた。どこから込み上げてくるのかも分からない力は、全て怒りへと昇華される。一発食らわせて吹っ飛ばしただけでは飽き足らず、また圭吾の胸倉を掴み上げた。もう一度拳を振り上げ、けれど再び振り下ろすことは出来なかった。彼の、口の端が切れている。滲んでいる血液は、一種類ではない。
ついさっきのことだ。彼から口づけを受け、噛みつかれ、舐め取られた、忌まわしい、土屋のそれ。
(――こいつの綺麗な顔を、穢したのは間違いなく、俺だ)
「いい加減にしろ! どこまでお前は勝手なんだよ! 俺は何にも欲しがっちゃいなかったのに! 同情してくれとか、同じところに来てくれとか、一つも頼んでねぇだろ……!? 俺は納得してたんだ。ちゃんとどういうことになるのか、何を犠牲に払うのか、頭で考えて、納得した上でこの結果を手に入れたんだ。俺が俺の勝手で死んだって、何したって放っといてくれよ。誰が助けてくれなんて言った。誰が俺と一緒に死んでくれなんてお願いしたんだ。勝手に残りの寿命丸めてゴミ箱に捨てやがって……ふざけんなよ、てめぇ一生許さねぇからな……!」
慟哭のように張り上げた声が、虚しく古びた家屋を軋ませて僅かに跳ね返る。繰り言だとわかっていても、言葉は止まらなかった。愛しい人の選んだこの現実への絶望は、どれほど嘆いても足らなかった。
「返せよ、しのの寿命! ちゃんと……元の通り、しのに……返してくれよ……!」
この腕を振りほどくこと、殴り返すこと。
どちらも実行するだけの腕力と権利のある筈の後輩は、どちらの選択肢も選んではくれない。先に力を失ったのは恭介の方だった。吊り上げていた胸倉を、ゆっくりと下ろす。倒れるようにして、圭吾の広い胸に顔を埋めた。
煙草の臭いと、蚊取り線香の僅かな香が鼻を掠める。滲みそうになった涙を堪える為には、瞼を強く閉じることが必要だった。
「土屋先輩に言われたくないです」
同じことを、もう一度言われる。けれど、まるで同じ口調ではなかった。
一回目の、投げやりな言い回しとは違う。その静かな問いかけは、黙殺を許さないだけの効力があった。
「……何」
「どうしてそんな盟約を交わしたのかという事情は、後で聞きます。どのみち理由なんて今聞いたところで、先輩の過去に関われなかった僕には、はいそうですかって納得することしか出来ないですからね。知識として知らせてほしいって気持ちはありますけど、それによって、僕の感情に変化があるかと言われればそうではないし……そんなことより今の今まで、僕に何も打ち明けてくれなかったことに腹が立つんです。いつか隠してる何かを話してくれるって、あてもなく待ってた僕の情けなさがあんたに分かりますか? 先輩にこんな酷い痕を残したあの蛇に、少しは感謝しないといけないなんて屈辱を噛み締めなきゃならない僕の気持ちは? 結局こんなことにならなけりゃ、話してくれる気なんてなかったんでしょう……やってられませんよ」
拘束された時についたであろう圧迫痕をそろりと指で撫でながら圭吾が、一息で恭介を責め立てた。話していなかったから圭吾のことを信用していなかったのかと聞かれれば、それは勿論違う。けれど、事情を一切知らされていなかった彼にしてみれば、それすら取ってつけたような言い訳に聞こえるだろう。
今はただ、そのことがつらいと思った。
「お前を信用してなかった訳じゃない」
そんな自覚がありながら、それでも口にしてみたけれど、
「そうは思えませんけど」
あっさりと否定されてしまった。
「二十歳に死ぬかもしれない、なんて事情を僕に話さない時点で〝二十歳以上一緒に居る気がなかった〟ってことでしょう。十九歳と十一ヶ月になったら、僕に見当もつかないようなどこかへ、ひっそりと姿を眩ます気だったんですか」
「…………」
図星を指されては閉口するしかない。この万能なバイトに比べ唯でさえ口が上手い方ではないのに、伝えたいことが自分の言語化能力を遥かに凌駕して、一つも形に変換されないのがもどかしかった。
無理に口を開いて、結局息を吸っただけでまた閉じる。唾と一緒に飲み込んだのは、ワンフレーズどころではない言葉の集合体。咀嚼された食事のように喉を嚥下させてしまえば、本来なら意味のあるそれらは、胃袋で簡単に死骸となって。
普段なら、そこで諦めていた。
命をも投げ出した恭介を、どんな時だって見失わずにいてくれた犬神と――目の前の、恋しい人。この一人と一匹に支えられた毎日は、ふとした瞬間に涙が溢れそうになる程、幸せに溢れた日々だった。
こんな分不相応な現実が、いつまでも続く訳がない。
幼少の頃に分不相応な物の怪と盟約を交わして、その結果ごっそりと奪われたものへの執着を、知っていたから。
「俺さ」
言葉にするのは、変わらずに難しいままだったけれど。伝わらなければ、いくらだって重ねよう。大量生産なら、努力次第で可能になる。長期戦を覚悟で、飾りのないただの想いを恭介は口にした。
「お前と犬神が居てくれたから、二十歳の寿命だって……構わないって思えたんだよ」
端正な眉が、露骨に皺を寄せる。言葉が足りなかったのか、単に意味が通じにくかったのか。少なくとも不快感以上のものを与えることは出来なかった結果を彼の表情から読み取りながら、めげそうな気持ちを奮い立たせて、恭介は一気に言葉を続ける。
「九尾や……蛇霊が言ったのは本当のことだ。オレの血はブランドなんだよ。昔っから、神道を重んじる神主の家系で有名だったんだ。生まれる子供だって、ずっと優秀だった。何回か連続で、とかのレベルじゃなく、歴代必ず神童が生まれたんだ。そうって毎年どころか先祖代々決まってたから、俺みたいな出来損ないが生まれた時、周りの落胆はそりゃあひでェもんだったさ。双子の……妹がいたんだけど。そいつはちゃんと期待通りだったのに。俺だけ全然、何も持たなくて」
恨んではいない。こんな話をしていても、気持ちは酷く穏やかに凪いでいて。
「赤ちゃんって、何も持たなくて生まれて来るのが普通でしょ? 育っていくうちに、手荷物が増えるんですから。僕だったら、最初から何か持ってる赤ちゃんなんて、怖いと思いますけどね」
「いや、手提げ鞄的な意味じゃなくてな」
「同じことですよ」
呆れたように、笑われる。少しだけ、心が軽くなった。
ああ、こいつに。届けたい。伝えたい。
面倒臭がりで、諦めの早い自分には慣れない衝動が込み上げる。恭介はぎゅっと目を閉じて、圭吾の肩に顔を埋めた。
「……信じてねぇ訳じゃねえんだよ」
繰り返しても白々しい、そんな言葉を。
それでも挫けずに、重ねて口にする。圭吾の顔を見る勇気はなかった。
「信じてない訳がねえだろ。仕事とはいえ、今まで会ってた回数を考えろよ。信頼も置けねぇやつとそんなに顔を突き合せるほど、俺は器用じゃねぇんだよ。寧ろすげえ頼ってたさ。お前自分で言うだけのことあって、頭良いし、優秀だし……時々そこがムカつくけど」
「あれ、ムカついてたんですか」
自分が優秀であることに自覚があるのかないのか、いや多分あるのだろう、きょとんとした顔で圭吾が突っ込む。いやそこはそんな重要なとこじゃねぇだろ、とがっくり項垂れながら恭介は、こんな尊大な態度をとられているとはいえ、仮にも想い人に結果どれだけカッコいいと思っているのかを正直に伝えてしまったというよく分からない現状からくる羞恥にただ耐え忍んだ。
「流しとけよそのへんは……とにかく、しのと出会ってから、嘘みたいに楽しかったんだよ。勿論犬神が居てくれた時点で、俺は充分救われたけど。そんな大事な存在が二人に増えたんだから、単純な掛け算だ。幸せだって二倍思うだろ。もう満足だった。このまま死んじまうのもいいなぁって、騙し騙し言い聞かせようとするんじゃなく本心で思った。お前に話さずにいたのは、信じてないとかじゃなくて」
息をつく。指が震える。絞り出すようにして、恭介は何とか言葉を繋げた。
「ただ、そういう日常を守りたかったんだよ……俺は。悪ィ、うまく言えないんだけど……」
「その頭の良い僕が」
短い言葉で遮られる。恭介から少し離れて、圭吾は曖昧に笑った。口に咥えていただけで吸うのも忘れ去られていた一本を、胸ポケットから取り出した携帯灰皿に押し付けて、強制的に吸殻にする。まるで動きに無駄のないそんな仕草に、ぼんやりと目を奪われた。立っているだけでも充分、絵になる男だ。それが動画になれば、まるで映画のワンシーンのよう。
視線を外し損ねたタイミングで、ゆっくりと振り向かれる。
しまった。顔を見られたくなかったのに。
「弱点を充分攻められて息も絶え絶えな物の怪を目の前に、先輩の喉が復活する僅かな時間を待てばそれで事足りる除霊作業を敢えて選ばずに――何の為に九尾をわざわざ呼び出して、僕自身が盟約を交わしたと思ってるんですか」
その声は僅かな時差を持って、恭介の脳内に届いた。確かにたった今目の前で無駄のない動きをしてみせた後輩としては、及第点さえ与えるにも難しい強引な解決方法を選択したようにも、思う。
言われて漸くそのことに気がついた。恐る恐るもう一度視線を圭吾に向ければ、想像と違わぬ不機嫌な顔。溜息をつかれた。重々しいそれではなく、まるで仕方がないなと甘やかしてくれるような、労いを込めた優しい溜息だった。
「先輩は、天邪鬼なんですよ」
畳に散らばっている蚊取り線香の残骸を綺麗な指先で摘みながら圭吾は、揶揄するような口調を崩さずに言葉を投げる。すっかり緩みきってしまった神経では、それらを受け取るだけが関の山で。ろくなリアクションを返すことも出来ずに、後輩の一連の動作を見遣った。
ゆらり。視界が僅かに歪んで。すっかり形を潜めていた犬神がその姿を象った。
「自分一人だと決してその場から歩こうとはしないのに、何か荷物を持たされたら、どうしてか立ち上がることが出来るんだ」
穏やかで、澱みのないテノール。
頭に響くのは、言葉ではなくただの文字列とリズムだけだった。まるで好きな音楽を、ランダムに聴いているような感覚。圭吾の声は恭介に、どこまでも優しく響いて聞こえた。
〝よくわかってんじゃねえか、圭吾〟
満足そうに、傍で犬神が笑う。やや語尾の掠れた、圭吾より少し低い声。
「伊達に先輩のとこで働いてませんからね……まぁ、ろくに給料貰ってませんけど」
「すみませんでした」
反射的に謝ってしまう恭介を見て、圭吾が目を細めて笑う。屈託のない笑みを浮かべながら、圭吾はゆっくりと言葉を紡いだ。
「いいですよ、出世払いで」
「出世って……これ以上有名になることがあると思うのか。こんな自由業」
「まあ、まずないでしょうね」
「…………」
即答か。やっぱりどうにも、どう考えても、雇われている側の態度じゃない。
「将来、うんと先に……大学卒業してそれなりの職について、そこそこ儲けられるようになったら返してください」
「……そりゃ無理だ」
「ねぇ先輩。本当に無理なことだけ無理って言いましょうよ、今度から」
だって、本当に無理じゃないか。そう続ける前に肩を掴まれた。強く食い込む指が、恭介に生きているが為の痛みを教えてくれる。
「……痛ぇよ、しの」
「僕が。あんたの荷物になります。先輩がもっと生に執着して、死を恐れてくれるのなら、僕は幾らでもあんたに鉛をつけて、足手纏いになって、どんな時でも立ち上がらせることの出来る〝障害〟になってみせます――だから」
「もっと拘ってください。先輩がここに生まれてこうして生きていることは、先輩が思っている以上に、ずっと尊い奇跡なんです」
呼吸をするタイミングを間違えた。息苦しいのに、何故だか空気を肺から出す作業すらままならない。いや、タイミングを間違えたのではなく、まるで呼吸の仕方さえ忘れてしまったかのよう。
「……ばかじゃねぇの」
ずっと無理に蓋をして閉じ込めようとしていた感情か、いつの間にか熱を孕んで恭介に主張を始めていた。取り乱さずにいようと、これ以上を願わずにいようと――吐き出してしまいたかった言葉を、噛み殺しては飲み込んで。
許されないことだと、力を入れることを避けようとして。脈打つ心臓が、恭介にただその存在を訴えても、いずれなくなるものだからと、気付かないふりをして。
いつでも死ねると思える強さこそが頼りで、その実死ぬという単語には他の誰よりも敏感だった。だって仕方ないじゃないか。打ち消してしまいたかった感情は、普通なら当たり前に許される筈の欲望ばかり。
本当はまだ、諦めたくなんかないのに。
「言っておきますけど僕、二十歳で死ぬ気なんかありませんから」
抑えたテノールか、追い打ちのように恭介に投げられる。その先に続くだろう言葉を、聞いてしまうことは躊躇われて。
それは甘くて残酷な誘惑だった。
「一緒に、盟約を解除する方法を探してもらえませんか」
イエス以外の返答を許さない柔らかな命令は、簡単に恭介の首を縦に動かしてしまうだけの力があった。頭で考えるより前に首を動かしてから、遅れて彼の命に従うことの深刻さに我返る。
ただ残された月日を淡々と辿れば良かっただけの今までとは、違う。全力で死を畏れ、あがいて、もがいて、生き抜く方法を最期まで探さなければならないのだ。
――瞬間。
捨て置いてしまおうと思っていた自分の命に、重さが加わった。今までまっとうに成人した自分の姿など、考えたこともなかったのに。
大切な人を助けたいと願うなら、その先を思い描かなくてはいけない。たとえ、それがどんな夢物語だろうと。
まるでアルコール成分の高いお酒を飲んだ後のような、鈍い重みのある幸福感。ゆらゆらとぼやける意識の中、それでもちゃんと、自分の意志で恭介はもう一度首を振った。
――縦に。
(何てこった)
(これで俺は、二十歳で死ねなくなっちまったじゃねぇか)
一度だけうつむいて、けれど恭介すぐに顔をあげた。その双眸に、圭吾が小さく目を瞠る。常にどこか脱力し、ゆるやかな流れにさえも抗おうとはしなかったこれまでの恭介からは、まるで想像出来ない程力強い眼差しだった。
それは、今以上の幸いを渇望する瞳。
アンセルフィッシュだった彼が、漸く何かを欲しいと願っている、そんな眼差しだった。