第1話

文字数 3,129文字

「――犬神!」
 アルトより少しだけ低い声で、少年はそう叫びながら右手を振り下ろした。
 指先から僅かに滲み出る青白い光が、形の良い指に倣って綺麗な弧を描く。それを合図としているかのようなタイミングで、小さな竜巻が少年の体を包み込んだ。彼に関わるものを吹き飛ばすのではなく、彼自身を包み込むような、緩やかな風の流れ。目を閉じる必要はなかったけれど、少年は無意識に瞼を下ろした。
 余計な装飾がないと言うよりは、はっきり無地だと言ってしまって良いだろう、真っ白な布地のみで作られた仕事着の斎服。元々礼装として着用されるそれは唯一、身分に関係なく袖を通すことの出来る正服だった。確かこの服と対になる、帽子も付いていた筈だったけれど。見当たらないので被らないままにしている。なくても別段問題はなかった。
 帽子など所謂ファッションの一部だろう――なんて考えている程度には、少年はこの業界に垢抜けていなかった。
 少しだけ癖のある髪が、光の風に煽られる。やがて竜巻がぴたりと止んで、背後からのそりと現われたのは、大きな影。ゆるゆると集まる黒い靄は少しずつ様変わりをし、やがて意味のある集合体になった。
 ふかふかの茶色い尾、ぴんと立つ二つの耳。鋭い双眸は、片方だけ深いインディゴの瞳。大別するなら犬のようなものだと言ってしまっても差支えがないだろうその姿は、恭介の目にこそクリアに映っているけれど、一般人の目に留まることはない。彼はこの世のものであって、この世のものではないからだ。
 まるで寝起きのようなしゃがれた声を無理に張らせながら、犬神と呼ばれた物の怪は、億劫そうな態度を欠片も隠すことなく少年に話し掛けた。
〝なぁ、呼んでくれるのは構わねぇけどよォ……こないだっから酷い低級霊ばっかりだぜぇ? やり甲斐がないったらありゃしねぇ〟
 そう呟いた影より更に輪をかけてうんざりした態度を此方も隠すことなく、苛々した口調で少年が振り返る。
「馬鹿言え、こちとら仕事に生活掛かってんだぞ。どうせやるなら、なるべく簡単で、さくっと終わる依頼が良い」
 向上心の欠片も伺えないようなことを嘯くこの少年の名は――土屋恭介。
 お祓い業を生業として、七年目の春の日であった。

「ええ? じゃあ結局先輩だけで除霊しちゃったんですか?」
 開口一番楽しげな声を上げたのは、恭介より二つ下の後輩だ。嫌味な程長い足は、正座のスタイルを取っているので、今は綺麗に折り畳まれている。律儀に持って来たいまいち趣味の良くない土産を祭壇の上に並べながら、作り物めいた笑顔を崩すこともなく振り向いた。
 この明るい口調に、出会った当初は何度も騙されていた。顔を突き合わすのが週に三日の頻度になれば、今更丸め込まれたりはしないけれど。この男は怒り心頭な時程、柔らかく穏やかな声を出す。無意識なのか意図的なのかは判断しかねるが、その心地よい低音は、恭介を固まらせるには十分の威力があった。
 分かりにくいが、確実に怒っている。理由は無論、今回の突発的な依頼を承諾したせいだろう。
 最近になって感情こそ読めるようにはなったが、出会ってまだ日は浅い。後一週間と二日を足して、漸く三ヶ月経つという程度の関係だ。高校二年の恭介とは、当然制服も、現在通っている学び舎も違う。聞けば、偶然にも恭介が通っていた中学に在籍しているようだった。オフホワイトの学生服に入ったロイヤルブルーの学年ラインが三年生を示していることは覚えていても、恭介の母校となるその中学に籍を置いていた期間は、ろくに話した記憶もない。加えて二人の関係は、他と比べ少々複雑なのである――彼を友人と呼ぶより先に、自分たちの間柄は「雇用主」と「被雇用者」だという事実を、明記しておかねばならないだろうし。
 それはともかくとして、今はこの怒りに満ちた被雇用者を何とかしなければならない。恭介はそもそも、と心の中で呟いた。そもそも、上司である自分が部下の彼に仕事を押し付けたというのならまだしも、今回は迷惑を掛けずに、一人で厳かに片づけたというだけの話だ。何とも殊勝で、健気な話である。感謝こそすれ、低音で怒られる筋合いはない。
 怯む気持ちをねじ伏せ、恭介は喧嘩腰で怒鳴り返した。
「うるせぇよ馬鹿。どうせ自殺した霊しか見れないお前を連れてったところで、役に立たねぇ依頼の方が多いだろうが」
「それを言うなら、先輩だって動物霊しか見えないんでしょう。そんなんで、よく除霊師なんてやって来れましたね」
 皮肉めいた言い方で、恭介を揶揄するのはいつものことだ。彼と一緒にいると、自分の方が年嵩だということを忘れてしまいそうになる。反射で言い返そうとして、視線を合わせるように覗き込まれた。光をいくつか閉じ込めたような瞳は、ビー玉を思わせるような透明感がある。掌に転がせて遊んでいた小さな頃はいつまでだって眺めていられたけれど、探るような両目にギロリと睨まれては、いつまでも眺めるなんて恐ろしいことは出来ない。
 ああ畜生。
 情けない話、いつも簡単に折れてしまうのだけど。それでもせめて今日くらい、ギリギリ見せておきたい年上の威厳。
 ぐ、と視線に力を篭めて、恭介は自分より頭半分背の高い後輩を睨みつけた。
「大体除霊自体は全部物の怪がやってくれるんだから、俺がいちいち対象物を見る必要はねぇんだよ!」
「ほら、またそれだ。どうかと思いますよその認識の甘さ。対象物が先輩に向かって攻撃的な気持ちにならないなんて、どうして言えるんですか。見えないものからの敵意に対処出来る程、あんた器用な人間じゃないでしょう」
 尤もだ。尤もだが認めたくない。
 理論よりも意地が勝って、恭介は口を噤んだ。これだから、頭が良いのに嫌味な奴は困る。素直に頷くより仕方ない事実を、素直に頷くには抵抗があるような刺々しい言い回しで説教してくるのだから。
「……それが動物霊だったら見れるし」
 それでも、なけなしの反論を試みたけれど。
「僕が居れば、少なくとも動物霊と自殺霊の〝二種類〟見れますよ」
 淡々と正論を寄越されて、いよいよ返す言葉もなくなった。理屈の通っている意見を述べている人間と、それを正しいとは理解していながらも感情のみで反抗している人間とでは、初めから形勢なんて決まりきっているようなもの。
 あまつさえ、
「くれぐれも、一人で無茶しないでくださいね。バイトですけど雇っていただいている以上、僕も少しはあんたの役に立ちたいので」
 ――なんてことを念押しのように言われれば。
 もう反撃の余地はないだろう。普段は頭部と言わず胴部と言わずを躊躇いなく切り落とすレベルで毒舌の回る嫌味なこの後輩が、こんな時だけは何故だか優しい目で諭してくるのだから。相手を丸め込む言葉なんて、きっと彼の方がうんと良く知っているに違いない。妙な敗北感と疲労感で、恭介は重々しい溜息をついた。
 簡単にほだされてしまうのは、惚れた弱みだ。
 仕方ないと割り切るしかない。
「しの、業務報告するからついて来いよ。本殿に移動するぞ」
「了解です」
 〝しの〟と呼ばれたその後輩は、含み笑いを押し込みながらも素直に恭介の後に従った。従順な部下のその姿を視線の端で確認しながら、足を踏み出す。つま先を床に奔らせる度に、鴬張りでもないのにギイギイという音が響いた。構造上の細工ではなく、単に建築年の問題なのだ。
 この古いがそこそこ大きな神社は、恭介の持ち家――仰々しい言い方を選べば財産である。成人にも満たない身分で所有するには不相応に思えるが、どうか許して欲しい。
 恭介の持ち物といえば、事実上これだけだ。
 代わりに、家族も親族も――何もかもを失ってしまったのだから。
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