第9話

文字数 3,439文字

 ひゅ、と喉を鳴らして、息継ぎをしてみる。呼吸を許す程横幅のない空間を通してでは、満足な酸素も供給されない。拘束された両手を見れば、くっきりとした蛇行の跡があった筈だけれど。それを肉眼で確認できたのは、もう何分も前の話だ。締め付けられる箇所が変わる度に蛇の数も増え、とうとう視界には指の先しか映らなくなった。
 徐々に強くなる、喉の圧力。運悪くも丁度急所を締め上げられ、咳をしたい衝動は、ひっきりなしに生まれてくる。けれど咳を一つするにも、相応の空気を肺に送る作業が必要で。鼻から体内に取り込まれる申し訳程度の酸素は、喉の堤防で簡単に跳ね返されてしまう。
 頭がぼんやりして、徐々に視界も鈍くなる。軽い貧血。ヘモグロビンに運搬して貰えるだけの酸素の確保は、既に出来ていない状態だった。
〝知ってるぜェ、お前、あの九尾と盟約を交わした土屋恭介だろう〟
 十のあの日から自分に従順な某動物霊のように、間延びした喋り方。けれど彼よりずっと、逆撫でするような言い回しに嫌悪感を覚える。
 いつブラックアウトしてもおかしくない状態でそれでも睨み返すことが出来たのは、恭介の持つ負けず嫌いが発揮された結果であった。自由に動かすことの許されたパーツは、最早眼球しか残っていない。
〝さすがの俺でも、狐なんか呼ばれちゃ敵わんからなァ……少しおめぇの体、弄らせてもらうぜェ?〟
 大きな体を持て余すようにくねらせながら、大蛇はきしゃしゃしゃ、と口を開けて豪快に笑った。喉を締め上げるだけだった白蛇が、急に牙を向ける。あ、と思う間もなく、喉仏に食いつかれた。
 焼けるような痛みと、痺れるような――覚束ない感覚。
〝九尾を呼ぶには、土屋の血の臭いと……その名を口にすることが決まりらしいな〟
 ぎょろりと動く、黄土色の眼球。向けられる視線は、憎悪というより好色に近い。口の端から漏れる唾液を舐め取りながら、蛇霊はゆっくりと恭介に顔を近づける。
〝悪ィな、ちょっとの間喋れなくさせてもらったぜ? 心配すんな、二十分も経たないうちに元に戻るさ。オレの毒は即効性がある分、長くはもたねェんだよ。ま、尤も……戻る頃にはてめぇ、あの世に逝っちまってンだろうけどよォ! ぎゃははははッ〟
 天を仰ぐようにして、大蛇は気持ち良さそうに笑った。睨むくらいの体力はまだ残されていたけれど、今更な気もして、力の緩んだ瞼に従って目を閉じる。
 喉を襲うピリピリとした痛みは大分和らいできたけれど、それが進歩だとは思えない。毒と言うより、痺れ薬に近いのかもしれない。まるで麻酔を打った直後のような、体の一部が認識出来なくなる感じ。声を出そうという気持ちにはならなかった。試さずとも、きっとまともに機能しないだろう。
 まるで感覚が、ない。
(……しくったな……)
 パターン化していた除霊を、なめていたのが一番の敗因だろう。動物霊なんて、邪霊の一種――低級霊ばかりだと、頭から決めてかかっていた。自分の仕事に絶対的な自信があるなんて、言い切れるほど自惚れている訳ではなかったけれど。この仕事を始めて七年。気の緩みが出てくるには、充分時間が経っていた。これまで祓ってきた動物霊は、文字通りの動物霊、或いは邪霊の成れの果て。だから今回も、きっと三十分足らずで片がつくだろう。そんな先入観がここへ来て、正確な判断を誤らせたのだ。強力な動物霊が――〝隠れ蓑〟として低級動物霊を装うことなんて、あり得ない理屈ではなかったのに。
 とうとう喉のみならず、指先、爪先の感覚さえなくなった。僅かばかり確保していた喉の軌道も、殆ど開かなくなっている。
(犬神は、ちゃんと逃げたかな)
 少し鈍くさいところのある彼だ。恭介が心配するのも無理はなかった。
 境内を出てしまえば、街は雑念に溢れているし。きっと幾らでも、気配を隠すことが出来るだろうけど。下手に恭介を心配して、まだこの辺りをうろうろしているのなら非常にまずい状態だ。碌に手足も動かせない自分には、彼を守ってやる術なんて何も残されていないのだから。
 せめて、うまく逃げて欲しい。大恩ある彼を、こんなことに巻き込みたくはない。
(どうせ……あと三年の寿命、だったし)
 この場合、九尾との約束はどうなるのだろう。屍となった心臓で良いのなら、与えることは難しくないけれど。生きたままの臓器を彼が好物とするのなら、この約束は一方的に破棄になる可能性がある。そうなった場合の特例で、また支払い方法が変わってくるのかもしれない――なんて。今考えても仕方のないことを、こんな時なのにぐるぐる考えてしまう。一種の現実逃避だという自覚はあった。

 約束を――盟約を。
 取り交わした明くる日に、犬神は泣きながら恭介を説得しに来たことがあった。真っ白い蒲団で目を覚ました瞬間傍らに居たのは、家族でも親族でも命を助けたばかりの妹でもなく、七年共に居てくれた泣き虫の動物霊。彼の涙ならもういい加減見慣れている筈なのに、何度拝もうとその表情は、恭介の罪悪感を刺激するのだから不思議なものだと思う。
〝恭介、あのな。霊感を全て失っちまう可能性が高ぇんだが、盟約を解除する方法があるらしいンだよ。それを、一緒に探さねェか? ただの噂かも知らねぇけどよ……探したって、今より悪いことにはなんねぇだろ。何もしねえで、二十歳になってぽっくり逝っちまうよりかぁ、ずっとマシだぜ〟
 真面目な顔で、何て無意味なことを言うんだろう。
 心底おかしくなって恭介は、硬く冷たい蒲団の中で笑った。
「あはは、やだな。そんなことしないよ」
〝……何でだよ〟
 冗談や酔狂で、口にしたつもりではない。声を上げて笑われるのに釈然としない気持ちになって、犬神は憮然と言い返した。
「霊感をなくしちゃったら、犬神と会うことも出来なくなるじゃん。そんなの厭だ」
〝んなこたァどうでもいいだろ!? 命が掛かってンだぞてめぇ!〟
 食って掛かってくる犬神の怒りが何を心配しているのかはぼんやりと知れて、あの瞬間、恭介は少しだけ面映い気持ちになった。誰かに心配して貰える日がくるなんて、夢にだって思い描いたことはなかったからだ。
 結局頑として首を縦に振らない恭介に、犬神の方が折れた。その年の春には土屋の屋敷を後にしたけれど、犬神はもう二度と、その話題を蒸し返すことはしなかった。

(何だこれ。一種の走馬灯かな……)
 薄れゆく意識では、現実を把握しようという気持ちさえ萎えてしまう。
 全身の痺れたような感覚が、実際のものなのか、はたまた唯の錯覚なのか。そんな大雑把な区別さえも難しかった。
 ――ああ、死ぬのか。
 覚悟していた期限より、幾らか早かったけれど。
 死の宣告なら子供の頃にされていたのだから、心の準備なんてとうに出来ている。
 力を抜いた、虚脱のような状態で、ずっと生きてきた。自分で、自分にさえ何も期待しなくなって。両の手で持たなければならなかった責任も荷物も、その殆どを妹が背負ってくれた。残ったのは、愚鈍なこの体だけ。身軽な体で好きな場所へと、好きに移動出来る自由だけを――ただ幸いだと胸に抱きしめて。
(おれ、なんかが)
 支える柱がない代わりに、引き止める腕もなかった。誰にも掴まれていない不安定さは、悪いことではないのだと、何度も言い聞かせて。
 自分のようなものが、もう少し、だなんて。望むだけで罰当たりだ。周りの期待を裏切るような生を受け、ただ落胆だけを彼らに残してしまった。そんなどうしようもなく罪深い、自分のようなものが。

 生きたい、なんて。

 望まない。望まないから。絶対に。望んだりはしない、筈だったのに。
 犬神を。
 紫野岡を。
 もう自分は、知ってしまった。
 彼らに出会ってしまったせいで、こんな価値のない命さえ、簡単に捨ててしまえなくなってしまった。
(――死んで、たまるか!)
 あと三年、まだ許されている筈だ。こんな理不尽な形で取り上げられることに、どうしても納得がいかない。弛緩した両手に力を篭める。
 ぐ、と拳が作れることを初めて知った。
 ああ、何だ。
(握ろうと思えば握れるんじゃねえか)
「土屋先輩!」
 祭殿に響き渡ったのは、この三ヶ月で随分と聞きなれた、自分より少しだけ低い声。
 聞き間違える筈もない――どうして。
 どうしてここに、彼が。
 抱いてしまう微かな望みを断ち切ろうと視線を投げれば、嫌味な程長い足でしっかり畳を踏みしめた、二個下の後輩で且つ有能なバイト要員の圭吾が立っていた。
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