第6話

文字数 5,109文字

 白い布地に、袖を通す。仕事の際にこれを着用することをマイルールにして何年か経つけれど、目立った染みは見られなかった。
 思えば、苦戦するほどの依頼など、今まで一度も受けたことはない。差はあるけれど、一つの案件に対し、十五分から四十分あれば充分だ。週一のスポットで放映されるドラマを、一話分観るのにだって足らない時間。その間につく汚れなんて、自分の汗程度のものだった。
 白い着流しと、白袴。誂えた様な正装は、引き出しを全部開けて探しても、この一着だけだ。他に予備はない。年間を通して多いとは言えない仕事量は、どれだけ短くても間に三日のスパンが空くから。儀式の服が一張羅でも、特に困ったことにはならないのだ。
〝恭介、ほんとに圭吾呼ばなくって良いのかよォ〟
 姿は見えなかったけれど、すぐ後ろで聞こえる情けない声。昔を振り返ることなんて、滅多になかったのに。どうして今更になって、七年も前のことを思い出してしまったのだろう。
 トリップした脳を現実に引き戻すのに、多少のタイムラグが必要だった。頭を軽く振って、瞼に残る残像をやり過す。あの時の犬神の泣き声だけはそれでも、耳にこびり付いて離れなかった。
「何だよ、俺一人じゃ不安だってのか」
〝そうは言ってねェけどよ〟
 即答は図星の証拠。犬神と恭介の一匹と一人では全く歯が立たなかったいつぞやの霊鳥のことを恭介よりも頻繁に思い出しているのだろうこの動物霊は、ゆるゆると靄を集めて、自身の姿を犬の形に具現化させる。真剣な会話をする時の、彼なりのサービスだろうか。確かに気体や靄を相手にするよりは、うんと独り言のような感覚が薄れるけれど。
〝念のために圭吾呼んどいても、悪かねぇだろ、別に〟
「そりゃあそうだけど……」
 自殺した霊しか視えないことを力不足のように圭吾は話すし、自分だって何度も揶揄の延長で貶したりはするけれど。口で言うほど役立たずとは思っていない。
 現に、未だ成仏も出来ずにこの世に停滞しているような幽霊は、悲しいかな殆どが自殺志願者の末路だ。自縛霊や事故死等、無念の思いでこの世に執着を見せる霊も数多いけれど、半分以上は圭吾の〝得意分野〟の依頼が多い。これまでだって何度も、自分にはないその能力に助けられた自覚はある。
 何より圭吾自身、能力以上に機転も利くし、サポートの仕方も申し分ない。彼という存在は、そこに居ればそれだけで強力な保険になるのだ。その事実を、認めていない訳ではないのだけれど。
「依頼者の下見は、昨日しただろ。明らか低級の動物霊。俺が見えねェ訳じゃねえし、わざわざあいつ呼び出すまでもねーよ」
 簡潔に答えて、早々に会話を切り上げる。犬神の言い分も分からないではなかったが、出来る限り彼の負担になりたくないのも本音だった。ただでさえ、二つも歳が離れている自分相手に、同学年の友人が山といる王子様を縛り付けるのも可哀想な話だ。どうしても無理な問題に直面しているのならいざ知らず、今回は手に余るという系統の依頼ではない。それならば忙しい彼に、わざわざ声を掛けるのは忍びなかった。
 振り向くと、不安そうな顔で犬神がこちらの様子を窺っている。
 思わず溜息を、一つ。元から、過保護なきらいはあったけれど。十歳のあの一件以来、拍車がかってしまったようで。
「――動物霊の基本要項」
 低い声で、そう切り出してやる。ぴんと背筋を伸ばした犬神が、殆ど反射で提示された言葉に答えを返した。
〝動物霊とは、その名の通り動物が霊となっていることは殆ど稀。大抵は人間の思念体や邪霊が、悪ふざけないしは無意識的に動物のような形を装っていることが多い〟
「合格。次は、俺の能力について」
〝恭介には動物霊という枠で括れるもの――所謂、『動物を装っている時点の姿』しか、視ることは出来ねェ〟
「けど?」
〝動物霊の真似事をするような霊は、人間にしろ邪霊にしろ低級のものばかり〟
「だから?」
〝元の姿に戻られる前に除霊しちまえば、取り立てた問題はねェ〟
「よって?」
〝……圭吾を呼ばなくても、解決出来る依頼と言える〟
「分かってんじゃねーか」
 ニヤリと人の悪い笑みを浮かべて、恭介が緩んでいた襟元を正す。理論を正されれば反論の言葉も呑み込まれるのは必然で、犬神は悔しげな顔で恭介を睨みつけた。
 尤もらしい理由を付けて丸め込もうとする主人の性格は、短くない付き合いで熟知している。YESかNOで言えば明らかにNOの部類に入るような事柄を、力技でYESと言わされたことなどこれまでに何度もあった。
 しかしここで大人しく引き下がる程、無能ではないつもりだ。突かれたら一番痛いであろう弱点は容易に想像がついて、犬神は切り札とばかりに言葉を投げ遣った。
〝こないだ一回本気で圭吾を怒らせただろうが。その直後にこそこそ依頼受けたのがばれてみろ、おめぇ殺されるぞ〟
「…………」
 分かりやすく、恭介が固まる。笑みの形に上げられた、口の端はそのままに。予想通り、圭吾の名前は効果てきめんだったようで。
 無意識に動く彼の片手が、覚束ない手付きで肘をなぞる。恭介にとって、キレかけた後輩に滲みると評判の消毒液をぶっかけられた思い出は、まだ久しくない。久しくないと言うより、ほんの一昨日の出来事だ。記憶力が一般より劣っていると自覚のある恭介ですら、その一件は圭吾を怒らせるとどうなるか身を持って知らされた経験であり、刷り込まれた恐怖でもあった。キレかけただけであの始末だ。本当に怒らせたらどうなるか、想像するだけで身震いがする。唯でさえ恭介に関してだけは、やたらキャパシティエリアの狭い彼だ。二度目の牽制を無視して、無事でいられるとは思えない。
「……いや、でもさ。もう依頼主来てるし」
 言い訳にもならないただの事実を口にして、ぼそぼそと逃げ口上を述べる。勿論、来ているので何の報告もなく予定通り実行しました、なんて。何の理屈も通っていない。
 そんな恭介を咎めるかのようなタイミングで、僅かな振動音が響く。着信音を何に設定したのかも忘れてしまう程マナーモードで放置しているそれは、最新機種から数えるとひと回りどころかふた回りは中古であろう小型の携帯であり、迷うまでもなく自分のものだ。
「……じ、地獄耳……」
 宛名を確認して固まる。元より友人の多い方ではなかったから、わざわざ連絡を寄越す輩には限りがあるけれど――まさか今の会話が、聞こえていた訳でもあるまいし。
 根拠のない恐怖に震える指で、恭介は通話ボタンを押した。
「もも、もしもし」
『はは、何ですかもしもしって。らしくない出方』
「……そっちこそ何だよ」
『ああ、すみません。僕、今出先なんですけど』
「それがどうした」
 言われるまでもなく、受話器越しにその雰囲気は伝わってきた。家の中とは思えない、特有の雑然とした騒がしさ。圭吾の声がまだ近いので、辛うじて会話が成り立つけれど。押し寄せる外野の波が、いつ掻き消してしまうとも知れない危うさだ。
『どうした、じゃないでしょう。今日はあんた一人ですけど、ちゃんと飯食ってんのかなって……』
 ――わざわざ電話をかけさせてまで、こんな科白を年下に言わせてしまうのだから。
 心底情けない気持ちになる。変な心配をするなよなんて。すぐさま反論出来る程、規則正しい生活を送っていないことは自覚している。
 いっそ閉口したい気分だったが、今それをやると、電話が電話にならないことは分かっているから。次に来る小言を承知の上で、恭介はお決まりの科白を切り返す。
「ばぁか。年下のくせに、余計な心配してんじゃねーよ。一人でも食ってるっつの」
『普段食ってないから、わざわざ電話するんでしょうが。まぁ、今晩だけでも食べたんなら良いですけど。明日は其方にお伺いしますので』
「……お前俺の何」
『何って、雇われてる一介のバイトですけど』
「じゃあ聞けバイト。一介のバイトがやらなきゃならねえエリア外のことまで手ェ出してんじゃねーよ」
『その理論を通したいなら、生活態度を改めてくださいよ。三食きちんと食べるなんて、今どき小学生だって出来ることですよ』
 馬鹿にしたような口調を崩してはいないけれど、少しだけ低い、圭吾の声。機嫌が悪い時の癖だ。語調は変わらないのに、少しだけトーンが落ちて、ビブラートが掛かる。
 こいつは、分かっていてやっているんだろうか。溜息をつきたい気持ちをぐっと堪えて、恭介は無意識に唇を噛んだ。こちとら、突き放されて、ないものと見做され幼少時代を過ごしてきたのだ。心配される経験もないから必然、怒られる経験もなかった。こんな風に窘められるだけで、どれ程心が、歓喜で震えてしまうのか――どれ程際限なく、惚れてしまうのか。
 分かる訳がない。それで良いと、こちらだって望んでいるのだから。
「……悪かった。お前がうちに来てくれるようになってから、これでも少しはマシになってんだよ。なかなかイメージ、湧かないかもだけど」
『それなら、良いんですけど……』
 納得のいっていないような声で、言葉尻が濁る。圭吾のそれを拾ってやらずに、恭介は明るめの口調で切り替えた。
「……つーか、そっちこそこんな時間まで何してんだお前。この未成年」 
『別に、誘われて断れなかっただけですから。でも先輩ももっと、遊びに出ればいいのに。仕事と学校以外は自宅の畳でゴロゴロ過ごすだなんて、不健康極まれりですよ』
「俺はいーんだよ」
 先がねぇから、という言葉は飲み込んでおく。何せ二十歳以降の年表を刻めない身だ。交友関係を無理に広げたところで、事情を説明出来ない人間の数が増えるだけだから。
 圭吾のことは充分信頼しているけれど、この事情は墓まで持っていくつもりだった。余計な心配はかけたくなかったし、彼と過ごすこの何気ない日常が、自分に許された最後の我儘だったから。
『何ですかその理屈……』
 呆れたように、喉で笑われる。耳を直に刺激する、吐息に近い笑い声。こんな簡単なことで、容易く恭介の心臓は跳ね上がってしまう。悔しいけれど、むきになって否定する段階はとうに終えていた。
 出会って半年も経っていないのに――ベタ惚れだ。
『圭吾くん、誰と電話してんの?』
『怪しい。もしかして彼女とか?』
 雑音が急に近くなって、途端白けた現実に戻る。ふわふわと浮かんでいた気分は、乱入者によって簡単に落ちてしまった。電話の向こう側で隣に座って居るのだろう彼女達と受話器の此方側にいる自分とでは、区切られる線の位置が決まっているようなものだった。
『ちょっとね。バイト先の上司と話してる』
 ――おい、友達ですらないのか。
 こんな時傷ついてしまうのは、勝手な話だと思う。普段から、やれ上司だ雇用主だ崇め奉れと豪語しているのに。いざそんな扱いをされると、まるで見えない境界線で牽制されているような気がするなんて。
「おい、紫野岡。もう良いだろう切るぞ」
 もやもやと生まれた嫉妬を、不機嫌な声で押し込める。誰かとどこかに出かけたいなんて、思ったことはないのに。今圭吾の隣に座って居る同級の女が、死ぬほど羨ましかった。
『ちょっと先輩……』
「余計な心配すんな、俺一人で何とかするから!」
 会話が終了したタイミングを見計らって自然な形で終わらせるつもりだったそれは、受信者の逆切れという形で強制終了になった。一方的に、電源ボタンを長押しする。画面を見れば、明るかった液晶画面が、二秒もかけずにフェードアウト。こんな単純作業で、あっという間に自分達の空間が切断される。
 いつだって我儘を言うのも、駄々を捏ねるのも――拗ねるのも。恭介ばかりだ。圭吾は、それを流すように許してくれる。そんな偏ったバランスで保たれている自分達の関係だけど、どちらの立場が有利かなんて考えるまでもない。
 一見、恭介が好きなように好きなことを選んでいるようでもあるけれど。主導権なんて結局、持つ気もない彼の手の内にあるのだから。
「……行くぞ、犬神」
 はっきりとした応えはなかったが、形を持っていた彼の姿がぐにゃりと歪む。まるで恭介を取り囲むような空気に変えて、付き従うというよりは、恭介を守るバリアのように変化した。盟約者の「行くぞ」は、簡易だが仕事開始の命令だ。すぐさま対応できるよう、スタンバイするにはそれだけで充分だった。
 祭壇の引き出しを開けて、朱赤の数珠を取り出した。左手首に潜らせて、頭を掻く。少し迷ったけれど、携帯は座布団の上へ放って本殿を後にした。
 電波が届かなくなった携帯は、役割の果たせない玩具でしかない。その名の通り携帯する必要も、単純に意味もなかった。
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