第10話

文字数 5,833文字

 閉じていた瞼を無理矢理こじ開けると、視界に飛び込んできたのは、今更見間違いようもない二個下の後輩。肩で息をしながら、髪を乱しても嫌味なくらい男前だ。何故か甘い匂いのする紙袋と、中身の分からない謎のビニール袋と、得体の知れないバケツを小脇に抱えていたって無駄にカッコいい。
「先輩、目を開けてください」
 開けているじゃないか。答えようとして、唇さえ動かないのを思い出す。
 声で伝えるのが無理なら、何か合図になるもの――そうだ、右手の一つでも動かせば、意識があることだけは伝わるかもしれない。
「起きてくださいったら!!」
 思い付きを行動に起こす前に、生温かいものが顔面を直撃した。どうやらバイトの彼が、自分にぶつけてくれたらしい。
 どろり、と中身を顔へ零しながら、件のものは床へとずり落ちる。顔に付いたそれを、恐る恐る舌でなぞってみた。仄かに甘い――。
(……何であんこ?)
 感動的とは言わないまでもそれなりにピンチな時に助けに来てくれた筈の想い人に、どうやら大判焼きを、しかもよりによって恭介の一番好きな粒餡を、顔面に向かって投げられるとはどういう了見か。生温い甘味を頬に滴らせながら恭介は、凶器にもならないそれをぶつけた張本人を力なく見遣った。
「ああ、気が付いたみたいですね。相変わらず人から与えられる食べ物に関しては、食い意地が張ってるんだから。あんたのそういうところだけは尊敬しています」
(っ、てめ)
「何ですその不満そうな顔は。用事を切り上げて、馬鹿の一つ覚えすら覚えてくれない上司のヘルプに来た平のバイトに、何の労いの言葉もないんですか」
 真綿で首を絞めるように、いやいっそロープで首を絞めるようにはっきり棘のある言葉で挨拶を寄越してくれた圭吾は、不機嫌な顔を一切取り繕うこともせず、冷えた視線を恭介に投げ遣った。
(やべ……マジ怖い)
「何か、反論出来るのならどうぞ?」
 整った容貌が、艶妖に微笑みかける。
 と言えば聞こえは良いが、要は黙っていたって充分存在感のある顔が、敢えて表情筋で笑顔を作ることを選択しつつも、全力で怒りのオーラを放ちまくっているということで。普段の比ではなかった。これがやつの全力か。背中を震わせる原因が、ここへ来て蛇霊ではなくなってしまった。
〝恭介、おめぇもしかして、喉やられちまッたのか?〟
(ナイス犬神!)
 普段ならここまで圭吾を怒らす前に何かしら自己弁護の言葉を放つ筈の恭介が唇を震わせるだけに留まる不自然さに見事気付いた相棒を、期待の気持ちを篭めて恭介は振り返った。圭吾が放つ怒りのオーラは欠片も減少されなかったけれど、増加するスピードが、とりあえず停止したことにほっとする。
 ギロ、ともう一度恭介を睨んだ後、圭吾は低い声で犬神に問いかけた。
「……どういうことですか」
〝多分蛇霊に、喉やられちまってしゃべれねぇんだよ。流石の大蛇も、九尾を呼ばれちゃ困るんだろうな〟
「……九尾? って狐の? あのヘタレそんな大物も操れるんですか」
(犬神!)
 掘り下げられては困る会話を目の前で繰り返され、恭介は動かすことしか出来ない唇を懸命に開いて心で叫んだ。
 そんな聞こえぬ声が届いたのか――おそらく届いた訳ではなく、彼本来の気遣いで判断してくれたのだろう犬神は、その質問に充分な返事を寄越さぬまま、姿を靄へと分散させた。
「犬神さん」
 その声に、追求をする意図はなかった。ただ視力では確認出来ない存在を、確かめる作業のような呼びかけ。
〝心配すんな。ちゃんといる〟
「ありがとうございます」
〝あとついでに、恭介のことも心配すんな。俺ら動物霊が仕掛けられる攻撃なんてェのは、そう幅が広くねえ。喋らせない為には、おおかた毒で痺れさせでもしたんだろ。即効性がある分、長くは持たねえさ。十分か二十分、凌げりゃあそれで充分だ――やれるか?〟
 右手に握りこんでいたバケツを、畳の上へ静かに下ろす。無礼にならないよう、圭吾は犬神の声にとりあえずの言葉を返した。
「それ、まさか質問じゃないですよね?」
〝何だ、てめぇはよ〟
 蛇霊がいやらしく笑いながら、突然の来訪者を歓迎した。蠢く巨体は少しずつとぐろを解き、伸ばされた尾に、力が篭められるのが分かる。蛇霊に敵意はなかった。同時にそれは、圭吾の無事を保障する事実ではない。あるのはただ、純粋な好奇心と悪意。
(しの!!)
 蛇が姿勢を崩しいつでも攻撃出来る態勢に変換した事実を、圭吾は把握できない。単純に〝視力の問題〟だ。いつもならそれを口頭で伝えることが出来る筈の恭介からは、毒によってその手段が取り上げられている。
 即効性と持続性は反比例する、としか教えて貰えなかった。具体的にいつ戻るのか、知らないままでは駄目元でただ叫ぶしかない。開いた口はそれでも、僅かな吐息の捻出さえ許さなかった。
 目線だけで圭吾を振り返る。いつでもぴんと伸ばしていた背筋が、少し前屈みになった。
 臨戦態勢のしるし。恭介へと向けられていた怒りは、彼自身の思惑によって簡単に矛先を変えたよう。
 残されたのは、恭介を拘束し、絞め殺そうとする対象への、単純な憎しみ。
 振りかざされた尾の前に、瞬間的に犬神が形を作る。インスタントなやり方ではあったが、圭吾の体には一つの傷もつかなかった。役目を果たした後犬神は、秒単位の速度でまた気体に戻る。壁を失った圭吾は、隠し持っていた武器を天井高くへと放り投げた。
(……、何)
「土屋先輩」
 真摯な声に、心臓が撥ねる。
 しのおか。声にならない名を口にする前に、頭に受けたなかなかの衝撃。べとべとした液体が、髪の毛を伝って顎に滴る。舌で舐めてみるまでもない。臭いだけで口の中に苦味を覚えるような、独特なヤニの香り。
「目、瞑ってた方がいいと思いますよ」
(おっせえええぇええ)
 大判焼きを顔面に投げつけられた次に、タバコの吸殻を含ませた汚濁の塊を頭上に投下され、これで嫌われていないことはないだろう。文字通り手も足も出ないようなこの状態で、一方的にぶつけられる供物の数々。眦に涙が浮かんだ。タールが滲みたのも一つの原因だが、それ以上にメンタルの問題だ。
 時給が安かったのか。控えめにしているつもりだったけれど、仕事で呼びつける回数が多かったのか。何か不満があるならぶつけて欲しかった。吸殻や大判焼きではなくて。
「またくだらないこと考えてますね」
 呆れ半分の口調で、うんざりしたように圭吾は吐き捨てる。
(誰のせいだよ)
 蛇霊の毒でこの通り喉がダメになったままけれど、舌打ちも出来なくなってしまったのだろうか。試しに、舌を動かしてみる。口内上部で、弾くように跳ねらせてみた。
「……舌打ちしたいのは、こっちの方なんですけど」
 あ、出来た。いや、やばい聞こえた。恭介はこくりと唾を飲んで、視線を右往左往させる。視界の端で蠢く蛇束に、何の変化も見られなかったけれど。ただ絶望の淵に居たついさっきと、今とではまるで心境が違う。我ながら、何て単細胞。
「先輩、返事はしなくて良いです。そのまま聞いてください」
 耳に響く、圭吾の柔らかいテノール。
「僕は先輩じゃありません。ですから、動物霊を視ることは、どう頑張っても出来ません。代わりにと言っては何ですが、僕は先輩より幾らか機転の利く方だと思います」
(……てめえ……)
「僕が知りうる蛇に関する対処法の知識を総動員して、貴方の喉が回復するまでのつなぎの役目を果たしてみせます。普段頼りにしていただけない分、こんな時くらいしかお役に立てないと思いますので?」
 流れるような言い回しに見え隠れする、拗ねた感情を読み取れないほど鈍感ではない。
 確かに、片意地を張らずに最初から圭吾を呼び出していれば――どの道大蛇に苦戦する状況は避けられなかったにしても、今ほど最悪な事態を招く羽目にはならなかった筈だ。
 落ち度は何て分かりやすい、自分の判断ミス。これで雇用主だなんて、片腹痛い話もあったもんじゃない。
「反省なら、後にして貰えますか」
(しかも、嫌なタイミングで鋭いし)
「ベストは尽くしますけど、僕に出来る限界は、やっぱりアシスタントの延長がせいぜいなので。喋れるようになったら教えてくださいね。強がったって、結局この状況では」
 不自然な所で言葉を切って、圭吾は宙を仰ぐ。
 ちら、ともう一度恭介を見遣ったが、すぐに視線は外された。緊張感のない穏やかな声で、続きと思われるその一言を口にする。
「僕には、先輩しか見えませんから」
(――ああ、ちくしょう!)
 そんな紛らわしい言い方をするな。人の気も知らないで。
 彼の本意なんてたかが知れている。自分の寄せる好意の半分も、きっと想っては貰えない。それは、分かっているのだけど――一緒にいる時、本当に時々。まるで、狙っているかのようなタイミングで。こんな風に簡単に、嬉しい言葉をぽんと投げて寄越してくるものだから。
(三年以上隣に居たいなんて、貪欲になっちまうんだろうが)
〝よお色男、綺麗な顔が見られねぇもんになる前に、尻尾丸めて帰りなァ……俺ァ遊んでやるのは好きだが、邪魔されンのは好きじゃないんでね〟
「煙草の臭いが、よっぽど鼻に付くみたいですね。今ゴメンナサイと頭を下げてくだされば、除霊だけで済ませてあげますけど?」
 目を細めて圭吾は、尻ポケットから、幾らか形状の潰れたマイルドセブンを取り出した。人差し指で、ボックスの底を突く。弾みで出た三本の内二本を収納し、残した一本を口に食む。そのまま内ポケットから取り出したのは、油が半分まで減っている百円ライター。綺麗なスカイブルーのスケルトンがきらきらと光っていて、まるで子供騙しの宝石のようだった。
 かち。黒いボタンを押し下げて、煙草の先に火を灯す。大き過ぎる火種を、付随するレバーに爪をひっかけ、サイドにずらしてマイナスに調整。
 先端が赤く光るそれを、下唇だけで動かす。僅かに開いた隙間から煙を逃がしながら、空気に副流煙を揺蕩わせる。
〝てめぇ……〟
「蛇はヤニが苦手って、本当みたいですね。何の根拠もないしネットで培った知識なので、当たれば八卦みたいな気持ちだったんですけど。まして、霊にまで有効打なのかはよくわからなかったし……顔に出やすい物の怪でよかった」
 人の悪そうな笑みを浮かべて、圭吾は白い煙を吐いた。唐突にぶつけてきたこの煙草の吸殻は、どうやら即席の結界のつもりらしい。
 それならそうと言え。未だに口の中に広がる独特の苦味を噛み締めながら、恭介は息にならないため息をつく。まあどちらにしろ、最初にぶつけられた大判焼きには何の意味もなかったみたいだが。
「それなら、これも効くのかな。試してみて良いですか?」
 くすくすと楽しそうに笑って、圭吾は提げてきたビニール袋の中から、退魔にしてはあまりにもお粗末なアイテムを取り出した。
 夏の風物詩としてよく見かける、渦をまいた〝緑色のあれ〟だ。
(虫除けスプレーのが幾らかマシだったんじゃねぇの……)
「そんな露骨に蚊取り線香ってお前、みたいな顔しないでもらえませんか」
 どこまで勘が良いのか恭介の気持ちを欠片も外さずに言い当てて圭吾は、先程のライターで渦の端へと着火する。部屋に充満していたヤニに混じって、白く細い煙が天井へと昇った。
 夜闇に混じってもはっきりそれと分かる、香の存在感。匂いだけで大別すれば確かに、線香に近いものはあるかもしれない。それなら、いっそ紛い物ではなく本物の線香を持ってきた方が、よっぽど効果的な気がするのだが。
「仮にも神社の管理を任されている身のくせして、線香切らしたまま放っておいたのはあんたの方でしょ。蚊取り線香だけ無駄に在庫があったので、少し拝借させていただきましたよ」
 人差し指と親指の腹で摘むようにして渦を巻いた線香を持ち上げながら、圭吾は唇に煙草を食んだまま器用に息を吐いた。
(あ、れ……?)
 半信半疑だった恭介だが、体に纏わりついていた蛇の力が、感じ取れる程度には緩やかになっている状態に気付く。キリキリと締め上げていた蛇霊は半分近く力を失くし、ついには恭介の体重さえ支えきれなくなったよう。ずるずると壁を伝うように脱力し、ついには畳の上へと戻された。
 改善の見られる変化に驚いて、視線で無意識に圭吾を辿る。
 部屋に充満する霊気や腐臭に一切左右されない、綺麗なままの後輩がそこに居た。
〝ふっ……ふざけやがって……!!〟
 頭に血が上った蛇霊が、細長い舌を出す。蚊取り線香を舐め取ろうとするその一瞬で、また犬神が現れた。薄い膜のようなバリアは簡単に蛇霊の舌を弾き飛ばし、そして間をあけず、また気配の掴みにくい気体に戻る。
ぴったりと息の合った二人が、信じられないことに、これ程大掛かりな化け物相手に応戦していた。
(すっげぇ……)
 圭吾が蛇霊の力を抑え、突発的な攻撃を犬神が防ぐのであれば。確かに致命打は与えられなくとも、つなぎとしては充分すぎる程の働きだ。その致命打だって――自分の喉さえ復活すれば、九尾を呼び出してケリをつけることが出来るという、確実な保障もある。
 まるで活路の見出せなかったさっきまでとは打って変わり、この好転は、マイナス思考の恭介にも理解しやすい希望の光となった。
〝ふざけんじゃねえぞ……〟
 畳の部屋を底から揺さぶるような、蛇霊の低い声。含み笑いで話していた先程までとは一変し、怒りを露にした余裕のない一声だった。
 ぞくり、と首筋を舐めるような悪寒。こういった類の霊は、一般水準に達すだけの理性さえ持ち合わせていないのが大半だ。犬神なんて、珍しいタイプの部類に入る。怒りに逆上したこの物の怪が、どんな手段に出るか正直なところわからない。体を強張らせた恭介の不安を煽るかのように、殆どヤケのような口調で蛇霊が罵った。
〝てめェ、どんな主従関係でこの土屋の倅を庇ってンのか知らねェけどよォ、どうせあと三年でおっ死んじまう悲しい身だぜェ? 意味のねえことしてンじゃねぇよォォ!〟
「……っ!」
 声が発せられないこの身を、今の瞬間ほど歯がゆく思ったことはなかった。腹に力を篭めて叫んでも、望んだ音声は自分の耳にさえ届かない。覚束ない視線で圭吾を探せば、今日初めて――いや、出会って初めて見たとさえ思える、まるで表情のない顔。
「どういう……ことですか」
(――ああ)
 自分に想像できる範囲内で、最悪の事態だと恭介は思った。
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