第1話
文字数 3,371文字
正直、そこまで怒られるとは思ってもみなかった。
「話にならないですね」
穏やかなトーンで言い捨てられた。怒っているのだと気づくのに、どうしても一拍遅れる柔らかい声。反射的に顔をあげ、ゆっくりと言われた言葉を反芻した。会話を終了されたのだと、更に遅れて理解する。
どうしよう。これしきのことで怒らせたのなら、当初に白状するつもりだったことはもう話題にもできない。固まる恭介に構わず、室内の温度はみるみる下がっていた。温度計がもしここにあったなら、赤色のゲージは急下降していただろう。それ程目に見えて、いや体感で、自分たちを包む空気の、含む熱が変わるのがわかる。
手にしていた書類を、静かに座卓へと置かれた。どんなに怒っていたって、決して物には当たらない男。そんなところさえ好きだったけれど、今はときめいている場合ではなかった。
それなりに広い居間の片隅で、わざわざ横をすり抜けるように戸口へ向かう癖に、ちらりともこちらを見ようとしない。怒っている証拠。その事実を隠したり、取り繕う気もないようだ。
そんなに主張しなくたって、充分伝わっているのに。好きな人の喜怒哀楽に、鈍感でいられるほど馬鹿じゃない。恨みごとにもならないような文句を心の中で並べ立てたところで、勿論当の本人になんか届く訳ないけれど。悔しい程乱れない一定の速度で動く足は、とうとうぴたりと襖の前で止まった。振り向いて――くれないだろうか。
襖が開かれる。迷いはなかった。一人がやっと通れる程度の隙間から体を通し、すぐに閉められる音が続く。振り向いてもらえるどころか、声を掛ける猶予さえなかった。
圭吾は、怒りで我を忘れるタイプじゃない。それだけの不快感を与えてしまったという証拠。引き止める勇気はなかった。それにこっちだって、どうしても譲れないものがある。結局主張を曲げないのなら、許しを請うことに意味はない気がした。
遠ざかる足音をぼんやりと聞く。何故か、置いていかれたような、閉じ込められたような感覚がした。
望んで、拒絶されるまま、ここに残ると決めたのは自分なのに。
(しっかりしろ……)
間違うな。言い聞かせるように、心で呟く。守り抜くのだ。今度こそは絶対に。
そのために、必要なことをするだけだ。頭だけ使え。躊躇うな。
何度も言い聞かせる反面、視線は未練がましくも、圭吾の出て行った襖を辿ってしまう。
今日は、もう少し一緒にいられると思っていたのに。あの様子なら、二、三日は間隔をあけられるに違いない。ちらりと恨めしそうに戸棚を見遣り、溜息をつく。彼が居る時にでもと買ったちらし寿司の素は、今日も使われることなく眠らせるしかないようだ。
「……いや、ちらしは問題じゃねェよ」
思わず一人でつっこんで、恭介はゆるゆると卓袱台に突っ伏した。
「恭ちゃんって、結構馬鹿だよねえ」
しみじみとそう呟いてくるりと蓮華を持ち直したのは、恭介の二歳下で、圭吾と同い年の少年だ。城脇鳴海。テストの時に焦るほど画数が多いので、ひらがなかカタカナで名前を書くようにしていたが「せめてカタカナはやめろ。呪文のようだから」と担任の先生に懇願されて以降、なるべくひらがなで書くようにしている。そのせいというのはあまりにも責任転嫁だが、鳴海自身、自分がどんな漢字だったか見失うことが多い。
俺のごはんは大きめのどんぶりに普通くらいの量の米よそって、などと意味のわからない注文をするからとりあえずそのように出してやったら、小鉢に盛りつけたきんぴらを迷うことなく白飯の上でひっくり返された。成程、大きめの器に普通くらいの量じゃないと、成り立たない食事の取り方だ。
「冷静に考えてみてよ。圭吾って、そういう気を使うタイプだとは思えなくない?」
「そうかな……」
味噌汁を牛乳か何かのように一気に飲んで、そうだよーと軽く笑われた。どうでも良いけどお前今味噌汁の具を一体どういうふうに食べたんだと聞きたくもなったが、あまりに普通に椀を渡されたので、確かめることも出来ずのろのろと流しへ向かってしまう。おかわりいるか。一応確認してみたが、もう大丈夫、ご馳走様と柔らかく笑われた。何度見ても、花が一輪揺れているような可憐な笑顔だ。今の今味噌汁を丸のみした男だとは、とても思えない。
「逆ならあるかも、って思うけど」
「逆?」
「だから、えーと……全然本意のくせに、本意じゃないけど仕方ないですねって顔で、まんまとそれ口実に使っちゃうところはあるかなと」
「……」
鳴海の語る圭吾の方が、確かに違和感はない。言われて漸くそんな気もしてきたが、今更仲直りなど出来る筈もなかった。
それに、どっちが正しいかなんてわからないのだ。圭吾に本気で感情を隠されてしまったら、きっと気付けない自信はある。策略も戦略も、組み立てるのが歳不相応に上手い部下だ。勿論、敵に回したくないタイプだけれど。味方でいてもらえたところで、心身穏やかではいられないくらいには洗練されている。
(だけど、それなら)
それならばせめて、頭からないものと思わないで欲しい。本来なら当然、与えられる筈だった権利だ。予定の通りに、気兼ねなく選んで出掛けて欲しい。
「そんな親戚のおじさんみたいに、必死になって勧める必要もないと思うんだけどなあ……」
「どうでもいいけど、お前食べ方すげえな」
「そう?」
蓮華でごはんときんぴらをぐちゃぐちゃに掻き混ぜる鳴海を見遣って、恭介は呆れたように呟いた。某チェーン店のお洒落なドーナツを髪型にしたらこんな感じとでも表現出来そうなくるくる頭が、掻き混ぜる蓮華に合わせてふわふわと揺れている。その光景は、微笑ましいと言えば微笑ましいのだが、その右手はブルドーザーのような豪快さで茶碗の米を口に運んでいた。
「この方が、ちゃんと平等に味が混ざっておいしいじゃん」
わからないでもない言い分を、当然とばかりに主張される。肯定とも否定ともとれる曖昧な笑顔を浮かべ、恭介は放置したままだった目の前の食器を重ねた。小鉢のような器ばかりのため、三つを回収するのでギリギリのバランスだ。
「ねぇ、恭ちゃん」
「何だよ」
そのギリギリの上へ無理に箸を載せたは良いが、一気に均衡は危うくなった。持って運ぶのにどう扱えば倒さずにすむかということに奮闘していた恭介は、一瞬捉え損ねた鳴海の声に何とかおざなりな言葉を返す。
「……鳴海?」
呼びかけておいて、続きを言いあぐねるなんて。感覚や反射で人と話すのを常としている彼にしてはらしくないような気がして、とりあえず食器の塔は後回しにする。少し右に動かしただけで案の定倒壊した箸を一本ずつ片手に持つという間抜けなポーズで、恭介は小さく呼びかけた。
「俺はね、だって嫌だったもの」
何だかんだでよくご飯を食べに来てくれるこの友人には既に姪っ子か何かのような愛着がわいており、必要なら鳴海専用にスプーンでも買ってやるかなどと余所事を考えていた矢先のことだった。
「……え?」
困ったように笑いながら、鳴海はぽつんとした声で先を続ける。
「俺はその行事、一番嫌だったもの。だから多分、今回は俺も行かないよ」
「どうして」
意外過ぎる一言に、純粋な疑問が浮かぶ。
自分とは違い、愛され上手な可愛い鳴海。少女のような華やかさに加え、子供みたいに無邪気な一面もある。そのくせ場の空気を読む能力には、少なくとも自分と圭吾を含めた三人の中では一番長けている。どのようなジャンルの友達にさえ、違和感なく溶け込めるタイプの人間だ。そんな彼のことだから、学校の行事ではきっと引っ張りだこに違いない。
そして周りにちやほやされるからという理由以前に、彼はとても素直で正直だ。催し物を目の前にしたら、皮肉も揶揄もなく純粋に喜ぶものだと思っていた。前日の夜に眠れなくなる程、楽しみにするイメージしかなかったのに。
「んー……まぁ、お金勿体ないし。俺んち貧乏だから? そんな時間あるならバイトしたいかな」
のんびりと答えて、鳴海は恭介を覗き込む。丸くて大きな瞳を見つめ返すと、安心したように笑ってくれた。
「だから、俺には勧めたりしないでね。恭ちゃんにお願いされたら、ちょっと困るから」
そう言いながら本当に困った顔をするので、恭介の方こそ続けるべき言葉に困ってしまった。
「話にならないですね」
穏やかなトーンで言い捨てられた。怒っているのだと気づくのに、どうしても一拍遅れる柔らかい声。反射的に顔をあげ、ゆっくりと言われた言葉を反芻した。会話を終了されたのだと、更に遅れて理解する。
どうしよう。これしきのことで怒らせたのなら、当初に白状するつもりだったことはもう話題にもできない。固まる恭介に構わず、室内の温度はみるみる下がっていた。温度計がもしここにあったなら、赤色のゲージは急下降していただろう。それ程目に見えて、いや体感で、自分たちを包む空気の、含む熱が変わるのがわかる。
手にしていた書類を、静かに座卓へと置かれた。どんなに怒っていたって、決して物には当たらない男。そんなところさえ好きだったけれど、今はときめいている場合ではなかった。
それなりに広い居間の片隅で、わざわざ横をすり抜けるように戸口へ向かう癖に、ちらりともこちらを見ようとしない。怒っている証拠。その事実を隠したり、取り繕う気もないようだ。
そんなに主張しなくたって、充分伝わっているのに。好きな人の喜怒哀楽に、鈍感でいられるほど馬鹿じゃない。恨みごとにもならないような文句を心の中で並べ立てたところで、勿論当の本人になんか届く訳ないけれど。悔しい程乱れない一定の速度で動く足は、とうとうぴたりと襖の前で止まった。振り向いて――くれないだろうか。
襖が開かれる。迷いはなかった。一人がやっと通れる程度の隙間から体を通し、すぐに閉められる音が続く。振り向いてもらえるどころか、声を掛ける猶予さえなかった。
圭吾は、怒りで我を忘れるタイプじゃない。それだけの不快感を与えてしまったという証拠。引き止める勇気はなかった。それにこっちだって、どうしても譲れないものがある。結局主張を曲げないのなら、許しを請うことに意味はない気がした。
遠ざかる足音をぼんやりと聞く。何故か、置いていかれたような、閉じ込められたような感覚がした。
望んで、拒絶されるまま、ここに残ると決めたのは自分なのに。
(しっかりしろ……)
間違うな。言い聞かせるように、心で呟く。守り抜くのだ。今度こそは絶対に。
そのために、必要なことをするだけだ。頭だけ使え。躊躇うな。
何度も言い聞かせる反面、視線は未練がましくも、圭吾の出て行った襖を辿ってしまう。
今日は、もう少し一緒にいられると思っていたのに。あの様子なら、二、三日は間隔をあけられるに違いない。ちらりと恨めしそうに戸棚を見遣り、溜息をつく。彼が居る時にでもと買ったちらし寿司の素は、今日も使われることなく眠らせるしかないようだ。
「……いや、ちらしは問題じゃねェよ」
思わず一人でつっこんで、恭介はゆるゆると卓袱台に突っ伏した。
「恭ちゃんって、結構馬鹿だよねえ」
しみじみとそう呟いてくるりと蓮華を持ち直したのは、恭介の二歳下で、圭吾と同い年の少年だ。城脇鳴海。テストの時に焦るほど画数が多いので、ひらがなかカタカナで名前を書くようにしていたが「せめてカタカナはやめろ。呪文のようだから」と担任の先生に懇願されて以降、なるべくひらがなで書くようにしている。そのせいというのはあまりにも責任転嫁だが、鳴海自身、自分がどんな漢字だったか見失うことが多い。
俺のごはんは大きめのどんぶりに普通くらいの量の米よそって、などと意味のわからない注文をするからとりあえずそのように出してやったら、小鉢に盛りつけたきんぴらを迷うことなく白飯の上でひっくり返された。成程、大きめの器に普通くらいの量じゃないと、成り立たない食事の取り方だ。
「冷静に考えてみてよ。圭吾って、そういう気を使うタイプだとは思えなくない?」
「そうかな……」
味噌汁を牛乳か何かのように一気に飲んで、そうだよーと軽く笑われた。どうでも良いけどお前今味噌汁の具を一体どういうふうに食べたんだと聞きたくもなったが、あまりに普通に椀を渡されたので、確かめることも出来ずのろのろと流しへ向かってしまう。おかわりいるか。一応確認してみたが、もう大丈夫、ご馳走様と柔らかく笑われた。何度見ても、花が一輪揺れているような可憐な笑顔だ。今の今味噌汁を丸のみした男だとは、とても思えない。
「逆ならあるかも、って思うけど」
「逆?」
「だから、えーと……全然本意のくせに、本意じゃないけど仕方ないですねって顔で、まんまとそれ口実に使っちゃうところはあるかなと」
「……」
鳴海の語る圭吾の方が、確かに違和感はない。言われて漸くそんな気もしてきたが、今更仲直りなど出来る筈もなかった。
それに、どっちが正しいかなんてわからないのだ。圭吾に本気で感情を隠されてしまったら、きっと気付けない自信はある。策略も戦略も、組み立てるのが歳不相応に上手い部下だ。勿論、敵に回したくないタイプだけれど。味方でいてもらえたところで、心身穏やかではいられないくらいには洗練されている。
(だけど、それなら)
それならばせめて、頭からないものと思わないで欲しい。本来なら当然、与えられる筈だった権利だ。予定の通りに、気兼ねなく選んで出掛けて欲しい。
「そんな親戚のおじさんみたいに、必死になって勧める必要もないと思うんだけどなあ……」
「どうでもいいけど、お前食べ方すげえな」
「そう?」
蓮華でごはんときんぴらをぐちゃぐちゃに掻き混ぜる鳴海を見遣って、恭介は呆れたように呟いた。某チェーン店のお洒落なドーナツを髪型にしたらこんな感じとでも表現出来そうなくるくる頭が、掻き混ぜる蓮華に合わせてふわふわと揺れている。その光景は、微笑ましいと言えば微笑ましいのだが、その右手はブルドーザーのような豪快さで茶碗の米を口に運んでいた。
「この方が、ちゃんと平等に味が混ざっておいしいじゃん」
わからないでもない言い分を、当然とばかりに主張される。肯定とも否定ともとれる曖昧な笑顔を浮かべ、恭介は放置したままだった目の前の食器を重ねた。小鉢のような器ばかりのため、三つを回収するのでギリギリのバランスだ。
「ねぇ、恭ちゃん」
「何だよ」
そのギリギリの上へ無理に箸を載せたは良いが、一気に均衡は危うくなった。持って運ぶのにどう扱えば倒さずにすむかということに奮闘していた恭介は、一瞬捉え損ねた鳴海の声に何とかおざなりな言葉を返す。
「……鳴海?」
呼びかけておいて、続きを言いあぐねるなんて。感覚や反射で人と話すのを常としている彼にしてはらしくないような気がして、とりあえず食器の塔は後回しにする。少し右に動かしただけで案の定倒壊した箸を一本ずつ片手に持つという間抜けなポーズで、恭介は小さく呼びかけた。
「俺はね、だって嫌だったもの」
何だかんだでよくご飯を食べに来てくれるこの友人には既に姪っ子か何かのような愛着がわいており、必要なら鳴海専用にスプーンでも買ってやるかなどと余所事を考えていた矢先のことだった。
「……え?」
困ったように笑いながら、鳴海はぽつんとした声で先を続ける。
「俺はその行事、一番嫌だったもの。だから多分、今回は俺も行かないよ」
「どうして」
意外過ぎる一言に、純粋な疑問が浮かぶ。
自分とは違い、愛され上手な可愛い鳴海。少女のような華やかさに加え、子供みたいに無邪気な一面もある。そのくせ場の空気を読む能力には、少なくとも自分と圭吾を含めた三人の中では一番長けている。どのようなジャンルの友達にさえ、違和感なく溶け込めるタイプの人間だ。そんな彼のことだから、学校の行事ではきっと引っ張りだこに違いない。
そして周りにちやほやされるからという理由以前に、彼はとても素直で正直だ。催し物を目の前にしたら、皮肉も揶揄もなく純粋に喜ぶものだと思っていた。前日の夜に眠れなくなる程、楽しみにするイメージしかなかったのに。
「んー……まぁ、お金勿体ないし。俺んち貧乏だから? そんな時間あるならバイトしたいかな」
のんびりと答えて、鳴海は恭介を覗き込む。丸くて大きな瞳を見つめ返すと、安心したように笑ってくれた。
「だから、俺には勧めたりしないでね。恭ちゃんにお願いされたら、ちょっと困るから」
そう言いながら本当に困った顔をするので、恭介の方こそ続けるべき言葉に困ってしまった。