第8話

文字数 3,886文字

 コンビニで買ったミネラルウォーターを口に含ませながら、圭吾は緩やかな坂を早足で登っていた。歩道もまともに設置されていない田舎道なので、申し訳程度に誂えられた路肩を歩くしかない。白いラインより右側に出なければ、車との衝突は余裕で避けられるけれど。トラックのような縦にも横にも大きい業者の乗り物が通る瞬間だけ、少し内輪差の怖い横幅だ。
 夜目にぼんやり浮かぶ白色の境界線を越さないよう注意を払いながら、圭吾はペットボトルを持っていない片手をポケットに突っ込んだ。指先に当たる、最新機種のスマートフォン。
 タップしてコールする作業は、もう諦めた。電源ごと遮断されたのでは、繰り返そうとも思わない。相手がオンになっていなければ、着信履歴も残らない不便さをもどかしく思う。リターンコールの確率は、ほぼないに等しいだろう。
 溜息を付いて、満天とは言い難いけれど、それなりには見栄えがする半端な星空を見上げる。視界が道路を捉えないせいで、途端緩くなるスピード。
 ぼんやりと反芻するのは、逆切れのような口調で叩き切られた電話の内容だった。勿論、受話器がそのままダイアルボタンを装着している携帯では、どんなに怒っていたって叩きつけて切るようなことは出来ないのだけど。それ相応の勢いはあった。よくわからないけれど、拗ねているのは確実である。
(ほんとに二歳も年上なのかな、あの人)
 操縦し易いようで、雲を掴むような存在だ。彼と関わって何カ月も経っていない今、抱くのはとりあえずそんな抽象的な感想。ご機嫌を取ることは、まだ簡単に思うのだけれど――基本的に、単純な性格だし。けれど、だからといって捕まえ易い人間かと聞かれれば、答えは否だ。
 いつも、自分には見えない壁がある。
 それを壊してくれない、彼の意図は知りようもなかったけれど。圭吾の気持ちを少しだけささくれ立たせるのは、その徹底された他人行儀な態度であった。
 信頼されていない、とは思っていない。自分でも、そこそこ優秀な除霊要員であると思う。バイトの数が今後増えるようなことがあっても――まぁ、自分を雇うのがせいぜいのあの上司に、そんな甲斐性があるとは思えないけれど――有能なアシスタント一位の座は、確保出来る自信がある。それなのに支えてあげたいと思う上司が、安心して全体重を自分に預けてくれる様子は、いつになっても見られなかった。
 一人であの大きな神社に暮らさねばならなくなった身の上事情を、何も話されていない現状が暗黙の了解のようなもの。
 二歳年上。高校の制服はブレザー。日崎高校という通学先の名前ですら、自分から意欲的に知ろうとしなければ分からないままだったに違いない。全てが全て、与えられたのは恭介に関わる外枠のデータだ。寝起きが悪い。寝付きが良い。自分の世話をすることに関しては腹が立つ程無頓着なのに、他人が関わるとそうでもない。それらの、少しだけ彼の内面に触れる断片的な情報だって勿論、自分の働きで漸く手に入れたもの。恭介によって、与えられたものはない。柔らかい拒絶だ。こうして、通い詰めることは許してくれるのに。それさえも、それ以上の侵入を暗に拒む牽制のように感じる。足を踏み入れて欲しくないエリアは、彼の中で決められているようだった。
 あの華奢な両腕で必死に抱えている荷物を、持ってあげたいと思う気持ちは偽善でもボランティアでもなく、圭吾の本心なのに。選択権を与えらない限りは、選択肢さえ拝むことも出来ない。
 携帯を取り出して、やはりタップするのは止めた。電源を軽く押して、省エネモードになっていたディスプレイを切り替える。表示された数字を確認すると、八時二十分を二分過ぎた所。うん――少し微妙かも。
 一瞬足を止めて、けれどまた歩き出す。人様の家を訪ねるには、ぎりぎり許される時間帯だろう。迷惑なら、早めに切り上げれば良いだけの話だ。ご機嫌取りという訳でもないけれど、駅前で買った大判焼きを左手に持ち直す。まだ充分暖かい温度を保っていることに、少しの安堵。ベーシックな粒餡が一番好みだと知っていて、計五個の内訳はクリームとチョコが二個ずつ。わざとなのは否定しないでおく。
 この上で一個しかない粒餡を取り上げたら、どんな顔をするだろうか――なんて。こんな浮ついた気持ちを知る四ヶ月前までは、自分にサディスティックな素質があるなんて思ったこともなかったのに。
「……?」
 境内に足を踏み入れて、不自然な程の暗さを訝しむ。最低限の部屋明かりでさえ、本殿はおろか拝殿からも伺い見ることは出来ない。灯篭の豆電球が、切れたまま放ってあることは知っていたけれど。外部ではなく屋内の生活感が、全く感じられないのはどういうことか。
 彼が出不精という言葉で片付けてしまうには足りないくらいのインドア派であるという事実を知らなければ、外出を疑う程の不自然な暗闇と静けさだった。
(もう、寝たのかな)
 そう思うには、やや早すぎる時間帯だけれど。睡眠欲に関しては、半分を食欲に回して欲しいと思うくらい貪欲な恭介だ。突発的な外出を想定するよりは、有力な説だと思う。
 今晩訪ねるのは、やはりやめておこうか。
 電話でのやりとりが気になって、早めに用事を切り上げただなんて――素直に報告するのも、少し悔しい気がするし。一日置いたくらいじゃ、この大判焼きだって悪くなることもないだろう。春とは言え、まだ冬越しの空気も感じられないような寒さだ。
 ざり、と舗装された歩道の上で踵を返しかけて、ふと嫌な予感が胸を過ぎった。
(――待てよ)
 周りの喧騒で、はっきり聞き取れた科白ではなかった筈なのに。電話の切り際、恭介が怒鳴った一言が。突然脳内に、一語一句何の不備もなく蘇る。
 まるで煽るような、重たい境内の僅かなオーラ。小さな予兆が、少し遅れて圭吾の胸を騒がせた。
 あの時、確か――あの人。

 ――余計な心配すんな、俺一人で何とかするから!

「まさか……!」
〝圭吾ォォッ!!〟
 鼓膜を破るような勢いで、知った声が耳を貫いた。
 何かがいることは感じ取れるけれど、はっきり姿を捉えることは出来ない。声の響いた方を反射で振り向いて、圭吾は逸る気持ちを抑えながら怒鳴り返した。
「何か依頼があったんですか!?」
 自分の忠告にいつだって耳を貸さない二つ年上の友人に、これ程腹が立ったことはなかった。境内に響いた声の主が誰かなんて、確認するまでもない。小さく泣き声を上げているのは、いつも自分の上司の傍らで、お祓いの片棒を担っている動物霊だった。
〝すまねェ、すまねェ圭吾ォ……〟
「事情は後でお伺いします。犬神さん、いいですか。落ち着いて、僕の質問に簡潔に答えてください」
 今その片棒の彼が、主と共に居ないという事実が、何よりもことの重大さを物語っていた。落ち着けだなんて口にしながら、誰の気持ちを宥めようとしているのか分からない。この場で誰よりも取り乱してしまいたかったのは、きっと他ならぬ自分自身だからだ。
 本当なら、今すぐにでも言葉を選ばずに犬神を責めて、問い質して。状況を、一から説明することを強要したいぐらいだった。
 ――けれど。
 恭介の安否を、ここで確認するのは時間の無駄だ。それなら自ら赴いて、この目で惨状を捉えた方が、余程正確だし手っ取り早い。
「先輩を助ける為には、現状把握が最優先です。何か依頼があって……あの人は、僕に相談せずに了承した――この推測に、間違いはありませんか?」
〝ねえよ、すまねェ……その通りだ〟
 瞬間的に、込み上げる怒りを力技で抑える。決定的だ。根本であの上司は、自分に心を許していない。
 けれど、ここで怒鳴って何になる。窮地でも手を伸ばされないのなら、自分が気付いて、手を伸ばせば良いだけのこと。
 それでも繋いで貰えないのなら、此方から奪い取りにゆけば良いだけのことだ。
「依頼の元凶は、どんな霊だったんですか」
〝……おめぇにゃ視えねえよ……動物霊だ〟
「動物霊? それなら先輩の専売特許でしょ。犬神さんも一緒だったのに、それがどうして、こんな状況に?」
 解せないとばかりに、声が尖る。犬神の有能さをそれなりに知っている圭吾にとって、その一言はまるで予想外の返答だった。
〝ありゃあ、殆ど化け物だ。今まで祓ってきたもんなんか、比較にもならねェさ――霊力が、ケタ違いだ〟
「……成程。大体状況は把握しました。最後に一つ。おおよそで構いませんので、その化け物が何の霊だったか教えていただけませんか」
〝でっけえ……でっけえ蛇だった〟
「そうですか」
 短く、了承の応答。我ながら冷静な声だと思った。
 どんなに目を凝らしても、今の圭吾には恭介の相棒であるこの動物霊を判別することは出来ない。能力の分野で言えば、それが限界だ。恐らく彼の言う通り、今現場に向かった所で、蛇の姿を視界に捉えることは百パーセント不可能だろう。けれど。
 自分の力がどこまでしかないのか、分かっていれば逆に戦略は立て易いものだ。
 一度目を伏せて、拝殿の奥を睨めつける。普段通りの手順でお祓いを行っているのなら、その場所がどこなのか既に見当はついていた。
 拝殿の奥、長い渡り廊下を歩いて、その先にあるのは――たった一つの部屋だ。
 一文字に結んでいた唇から、ゆっくり力を抜く。柔らかな圭吾の髪を捲るような勢いで、一陣の風が彼を煽った。
「視えなくとも、それだけの情報があれば充分ですよ」
 充分、と答えたその言葉の通り、力強い確信と、少しの怒り。
 犬神はむせび泣いてから、小さな声でもう一度すまねェと呟いた。
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