第11話

文字数 7,712文字

「どういう……ことですか」
 投げかけた質問対象の、判断に迷う独り言のような声。
(やめてくれ……)
 何も知らずにいてくれた圭吾との時間が、今生きていく意味を恭介に齎してくれた。まるで普通の人間のように、朝起きて、ご飯を食べて、学校に行って――時には、真面目に仕事もして。
 緩やかで穏やかな空気に囲まれながら、密かな片想いだけを胸に抱いて。後何年と自分に言い聞かせながら生きていくことこそが、唯一許された自分の我儘だったのに。
〝なぁんにも知らされてねェのかよ色男! こりゃあお笑いだな。そこの土屋の長男坊はなぁ、あと三年したら九尾との盟約で死んじまうんだよ!〟
「犬神さん、どういうことですか」
 たっぷり時間をかけてから、今度は質問の相手を限定して問い掛けた。圭吾を包むようにして取り囲んでいた空気が、局所的に濃度を上げる。
 いかにも彼らしい。真面目な話をする時は、律儀に姿を現すことを徹底しているようだった。
〝……ほんとならな。俺らみてェな所謂低級霊なんぞが、いつでも形を保てれて、人間様と言葉を交わすなんてェのはおろか、悪霊退治の助っ人なんざ出来る訳がねェのよ〟
 観念したような力ない声で、犬神が静かに声を響かせた。
〝でも俺はこうして恭介の傍に居て、いつだってあいつの望むままに動いてやれてる。「出来ねェもん」が、「出来てる」ってのは――不自然な話じゃねェかと思うだろう。でも、お前は勘が鋭いからな。皆まで言わなくとも、見当くらいついてるんじゃねェのか〟
「条件が、何か必要なんですね」
 少しの間を空けるのも許さない素早さで、圭吾が先を促す。
 漸く全ての靄を回収して姿を現した犬神は、項垂れた頭を擡げることもせず、問いの答えを口にした――ただ、事実だけを簡単に。
〝ああ、そうさ。恭介が必要な時に俺を呼び、必要な時に俺の力を使う特権の代わりに、俺はアイツから目を奪ったんだ〟
「……、目」
 言葉の意味を受け取りかねて、圭吾はただ単語を繰り返す。
〝盟約を交わしたんだよ。そうすりゃあ体の一部を取り上げる代わりに、主の望むがままに動く特権を手にいれることが出来る。あいつの目、片方だけ綺麗な色をしてるだろ。ほんとは両目ともあの色だったんだがな、今じゃあもう片方は義眼だ。本物の左よりァ視力が弱ぇ。おそらく、半分も見えてねぇんじゃねえのか〟
「……それで」
 乾いた唇に、圭吾は漸く言葉を紡ぐ。唐突な話だったけれど、全く信憑性がない訳じゃない。恭介の目が左右同じ色でないことは、出会った時から知っていた。
 そして彼が――右側の反応だけ、やや鈍いのも。
 事実と思える事柄だけを照らし合わせて、事情を理解する。そんな恐ろしいことを、まさか、あの上司は――。
「それで……九尾との盟約に、あの人は何を支払ったんですか」
〝まだ払っちゃいねェ。九尾は強欲な反面、気が長ェからな……あいつなりのリップサービスのつもりかもしれねえが〟
 軽い口調に戻そうとして、どうしても無理が出る。
 小さく息をついて、犬神は一瞬言葉を止めた。
(頼む)
(やめてくれ)

〝丁度二十を迎える誕生日に、心臓丸ごと差し出すのが恭介に課せられた条件だ〟

「……解約する方法が、何かある筈ですよね」
 たっぷり間をあけてから、最初に圭吾が口にしたのはそんな言葉だった。
 色を失っていた双眼が、力を帯びる。犬神は何も答えなかった。圭吾の指先が、静かに拳を作る。
 震えるそれは空を切り、力の限り壁へと叩きつけられた。
「あるんでしょう!? 結べるものが解けない訳がない! だったら、どうして試そうとしないんですか!?」
 怒鳴られたその声は、犬神への怒りじゃない。視線はまるで真逆に相棒を見ていたけれど、向けられる意志は完全に恭介へのものだった。
 圭吾は怒っていた。腹の底から、溢れる怒りに肩を震わせて。今までだって何度も、それこそ本当に何度も自分を怒鳴ったり叱ったりした圭吾を見たことがあるけれど、こんな悲しさか怒りか判別出来ない程濁った感情を、真っ直ぐ向けられたのは初めてだった。
 悲しんでいる。そうだ。圭吾は怒りの感情よりも、うんと大きな悲しみを今抱えている。
 そんな重たいものを、彼に持たせてしまったのは自分だ――ああ、だから。
 だから、厭だったのに。
〝……ある、と聞いたことはあるさ。話に少しだけな。けどそんな、あるかないかも分かんねェもんを、限りある年月をかけてまで探す気にはなんねえって……言って聞かねんだよ、あの馬鹿〟
 今まで音を上げたふりをしていた犬神だったけれど、本心では納得していたことではなかったらしい。恨み言を呟いているかのような重たい声で、そんな一言を付け足された。
 すう、と小さく息を飲んでみる。駄目だ。肺に入らない。
 まだ、この場を取り繕うだけの、声を出すことはできない。
「――わかりました」
 続いた圭吾の声は、淡々としていた。怒鳴った彼が、まるで別の誰かだったみたいに。
「それなら僕でも、盟約を交わすことが出来ますよね」

 ――何だって。

 喉が許すなら、そう叫んでいたと思う。
 実際はひりひりする食道を、吐息にもならない二酸化炭素が僅かに零れただけだったけれど。とんでもない彼の飛躍に、犬神も充分意表を突かれたようだった。
〝……馬鹿なこと、言うんじゃねェよ。自殺者みてェな、もともと気付いてほしい人間の霊を視るのと、位の高い霊を視るのとじゃあ、能力も勝手も違うさ〟
「でも、出来るんですよね」
 すぐに駄目だと言わない犬神の煮え切らなさは、圭吾の言質を取り上げるだけの力を持たなかったよう。ささやかな押し問答は、平行線のようで簡単に天秤が揺らいでしまう。迷いのない圭吾の方に重心は傾いて、結局のところそこで止まった。
 珍しく聞き分けの悪い圭吾に戸惑いながら、犬神は嗄れた声で言い捨てた。
〝霊感が一般より強いってだけじゃあ、何の「足し」にもならねぇよ。いいか、お前の言う通り、確かに一般人にも盟約は可能さ。手ごろな動物霊を呼び出して、その動物霊に直接人間様が相互の承諾をお互い取り合うか、直接結ぶにはレベルの高すぎる動物霊相手の場合には九尾に橋渡しを頼むっつういう方法が、数で言やァ一応二択ある。けどな、お前にゃ動物霊なんて、一切視れねェんだろう。現に今だって、俺と言葉を交わすのがせいぜいじゃねえか。第一、九尾は血にうるせえんだ。一般人の応答になんて、まず答えねぇよ〟
「……だからつまり、出来るんですよね」
 短く言い捨てて、圭吾はぴんと背筋を伸ばす。
 どんな時でも――今ですら、目を奪われる真っすぐなライン。
 いつだって、彼の姿勢は綺麗だった。隠しておきたいものを幾つも両手に抱えて、更に自分の身を隠せる場所を探していた猫背気味の自分とは、まるで雲泥の差だ。
 いつも、そんな彼を眩しいと思っていた。まるで生まれたその時点で、死ぬまでの幸せが約束されているかのような、至高の存在。生を受けて最初に周囲を裏切った自分には、きっと一生かかったってなることの出来ない、美しく強かな魂を持った少年。好きだと思った。愛しいと思った。
 そしてこんなことを考えるのは分不相応な気もしたけど――守りたい、と思った。
(なのに。どうして。どうしてこんなことになるんだ)
〝ばっかじゃねえの、お前! 九尾はなぁ、ブランドの血族が大好きなんだよ。土屋の血縁者でもねえおめぇみてえな半端もんが、どうやって狐の神様に会いまみえるってんだ!〟
 蛇霊が声高に叫んだ。
 部屋に充満したタールと、少しの線香の香りが、彼から充分な力を奪ってしまったようで。忌々しそうに毒づく声は、どこか追い詰められている。神経を逆撫でするような声には変わらず腹が立ったけれど、その瞬間、恭介は少しだけその言葉に感謝した。
 そうだ。土屋の血に穢れていない圭吾は、ごく普通の一般人。
 体内に流れているその血が彼の血である以上、呼び出すことを可能にはしないだろう。
「先輩」
 短い呼びかけが自分に向けられているものだと気付くには、やや時間が必要だった。顔を上げると、綺麗な両目が素早く恭介を捕らえる。
 ああ、二つともちゃんと同じ色。
 当たり前だけれど、このどちらか一つなんて、どんな動物霊にも奪わせはしない。 
「前、僕に言いましたよね。この世界の神は寛容だって。やっぱり尊敬は……あんまりしてないんですけど。先輩に永遠の忠誠を誓ったら、狐の神様も、僕のことを無条件で愛してくれるのかな」
(ばーか。そんなわけねぇだろ。あいつの鼻は、血の臭いを絶対間違えたりしない。お前じゃあ無理だ。九尾は呼べねえよ)
 畳の上を、圭吾が大股で進む。そう広くもないこの室内では、簡単に恭介のところまで辿り着いてしまった。
 ああ、吐き気がする。ずっと締め上げられていたせいかな。
 そんなことをぼんやり考えるので精一杯だった恭介の思考には、次に彼がどんな行動に出るのかなんて、想像するだけのキャパシティはなく。だから右手を捕まれた時は心臓が撥ねた。瞬間的に、視線がかち合う。
 後輩の目には、もう怒りの色も悲しみの色も、何も残ってはいなかった。けれど意志が何もないという訳ではない。そこにあるのはただ、僅かな熱。
 ――覚悟を決めた者の、潔さとしなやかさ。
 まるで紳士のように優雅な仕草で、恭介の前に片膝をつく。目を伏せて頭を傾げ、絡め取った恭介の右手に――小さな音を立てて落とされたのは、事故とは思えない意図的なキス。
 ぎゃあ、と思う間もなく歯を立てられた。
 刹那走った痛みは、すぐに治まったけれど。代わりに生温かい液体がどろりと溢れ出す。
 ああ、気持ち悪い。土屋の血だ。
 まるでたった今噛みついてその傷をつけた張本人とは思えない他人事のような目でその様を確認した圭吾は、恭介と目が合うなり、穏やかに頬笑んだ。自分の血で汚れた彼の唇が、綺麗なアーチを作る。
 ふいに圭吾が、空を仰いだ。小汚い部屋の天井を見ているはずなのに、抜ける空を信じているような、曇りのない瞳。
 穢れなんて欠片も感じさせない透き通った声で、圭吾は小さな誓いを立てた。
「僕はこの人を敬愛し、永遠なる忠誠を誓います。九尾、いらっしゃるのならどうか、会いまみえることをお許しください」
(しの……)
 パフォーマンスじみた、小さな儀式。
 けれどこんな飯事なんかで、何かが生み出される筈もない。出来損ないだけど一応血統性付きである自分が、一番その因果関係を知っている。
(そんなことしたって意味ねぇよ。九尾は、土屋の血が流れてるものの声にしか――)

(……待てよ)

 そう遠くもない記憶が、一瞬のうちに脳内にフラッシュ・バックする。
 そうだ。あの時。
 圭吾を怒らせて、左肘に消毒液をぶっかけられる、その一瞬前。

 ――先輩の血って、何か変。水みたい。

 ぐらり、と視界が揺れた。
 一瞬、誰かに殴られたのかと思うくらいの衝撃。ぞくり、と背中を撫でられる。覚えてはいるけれど、記憶には遠い感触。
 まさか。息を飲む。
 俺が呼んだ訳じゃない。そんなことある訳がない。必要な条件二つの内一つしか満たされていないのに、ほんの少し、あの舐めとった瞬間に供給された血が、彼の体に流れているって――それだけの理屈で。
 そう願いたいのに、どうしても騙しきれない。残酷にも脳内にリフレインされるのは、まるで恭介の杞憂を後押しするような、犬神の一言。

〝九尾は鼻が利くからな。土屋の血が流れる者は絶対に間違えねぇ〟

(そんなこと、有り得る訳がねぇよ!)
 言い聞かせながら、本当はどこかで確信している。頭ではなく、何よりもこの体が覚えていた。撓んだ畳の隙間から、現れたのは白い煙。十の頃の記憶が自動的にリプレイされ、目の前の景色と重なって消える。
 白い煙は、一匹一匹が恐ろしい速さで自らの形を作っていた。虚ろな眼差しに入るその現象は、妹を救出した時に見た現象と、残酷な程酷似していて。数も数え切らない内に、数多の狐は僅かな亀裂に飲み込まれる。ごうごうと耳鳴りのような音が、三半規管を厭と言うほど揺さぶった。ああ、唯でさえ気持ちが悪いのに。
 一瞬だけ、希薄になる霊気。まるで、狐がみんな消えてしまったかのよう。
 けれど、この後に起こること。唯一、自分だけが知っている。
 部屋ごと洗濯機にでも突っ込んだかのような、ぐるぐるとした感覚。飲まれそうな意識の中、必死で右隣を確認する。座り込んだままの姿勢だったけど、臨戦態勢は決して崩さない圭吾。形を持ってはいないけれど、どこかに身を分散させ、沈めている犬神の気配。舌を噛み切って自害したい気持ちになったけれど、何とか堪えた。
 そしてゆっくり、恭介は目の前へと視線を戻す。
 ほんとはそんなことをしなくたって、〝あれ〟が〝そこ〟#に居ることはわかっていた。

〝――俺を呼んだのは、貴様か〟

「はい」
 立ち上がって、圭吾が答える。
 やめてくれ、とはもう思わなかった。
 諦めではなく、茫然自失。目の前に君臨した動物霊の総帥と――そしてその現実を。
 ただ否定しようとするだけで、既に恭介は手一杯だった。
「ご足労感謝致します。紫野岡圭吾と申します。この度動物霊と盟約を交わせていただきたく、貴方様をお呼びした次第で御座います」
〝ふうん、幽かに土屋の血が匂うが、血縁者ではないな。普通の人間相手の盟約は、貴様に選択権を与えてやれんぞ〟
「構いません」
 応じる声は、簡単な一言。血液が煮えくり返るような眩暈が、遅れて恭介を襲う。
 構わないって、何だそれ。
「眼球だろうが心臓だろうが、お好きなところをくれてやります」
(駄目だ!)
 震える喉は、変わらずに空気を媒体にして、言葉への変換作業をしてくれない。未だ毒の癒えない喉を、無意識に左手で引っ掻く。爪を立てたって、痛みさえ伴わない。まだ患部の神経が、麻痺している証拠。絶望的だった。
 まだ――まだ使えないのか。
 今この瞬間に一言も喋れないこんな喉なら、後になってから幾ら回復したって、まるで存在価値なんてないのに。
〝望みは何だ〟
 静かに問いかける、どこまでも冷徹な九尾の声。堪らない気持ちで爪を立て、恭介は畳を掻き毟る。深爪だった指先から、血が流れてもなお足らなかった。
 頼む。何を失っても良い。俺は良いんだ。だからもう、これ以上。
(紫野岡を巻き込まないでくれ!)

「この人を――土屋恭介を、今すぐに傷一つなく助けてやれることが可能な動物霊との、盟約を!」

 凛とした声が、恭介の耳を貫く。全身に渡っていた震えが、ぴたりと止んだ。
 怖くなくなった訳じゃない。思い描いていた最悪の事態が現実になろうとしたその瞬間に、深い絶望が恐怖を凌駕しただけのこと。
 やめてくれ、もう一度だけ呟いた。勿論それは、声になんてならなかったけれど。
〝――よかろう〟
 その一言を合図に、小さな竜巻が九尾の頭上に渦を作った。ぎちぎち、と何かを狭い所へ、無理に押し込むような音が聞こえて、刹那光を孕む。小さいけれど強力なそれに、視界をやられて目を瞑った。直後に現れたのは、九尾と同じ、白い体を持つ虎霊だった。
 体に刻み込まれた刻印のような模様は、全体を占める白の明暗を少しだけ落としたような、薄い灰色。犬神より一回りは大きいだろう体から、漲る力には際限がない。対峙したものを全て、有無を言わせずに地面へ叩きつけるかのような圧があった。けれどそれは粗野なものではなく、どこか高尚な、孤独な王を思わせる気高さに満ち溢れていて――恭介が今まで見たことのあるどの動物霊よりも誇り高く、まるで――皮肉にも、圭吾のような清廉さがあった。
 撓る背中をうんと伸ばして、長い尻尾を後ろへと放る。まるで、霊体とは思えないような質感だった。
 ――こんな大きなものを、手に入れる為に。
(どこまで、払わなけりゃあならないんだ……)
 恐らく、片目では足りない。両目を払っても、半分だって贖えないに違いない。
(両手? 両足? 臓器まで奪われんの? それは、俺のじゃ駄目なのか?)
「……どうも。初めましてって言った方がいいのかな」
 混乱する自分を余所に、暢気な圭吾の声が聞こえる。もう、声が聞こえているだけだとは思えなかった。盟約が確定した直後から、きっと圭吾の目に、四体の物の怪がはっきりと映っているのだろう。
〝代償として貴様の、心臓を頂くぞ〟
 そして終に、下された生命への宣告。
(――ああ)
「はい。わかりました」
 何でもない連絡事項を聞いたかのような、あっさりした許可の意思表示。お陰でこんなにも絶望している恭介の方が、この空間ではどこか浮いていたに違いない。ひりひりとした喉が痛かった。
 紫野岡。紫野岡。ほんとにごめん。
 俺なんてやっぱり生まれてこなきゃ良かった。
〝期日は、五年後の今日だ。まぁ、霊力は多少あるようだが……お前の血筋には価値がないからな。土屋の倅より期限が半分短いぞ〟
「構いませんよ。この人の後を追って、死ねるのであれば本望だ」

(馬鹿じゃねえの。馬鹿だよ、お前ほんと馬鹿。頭良いのになんでこんなこともわかんねぇんだ。お前が死んじゃう世界なんて意味ない。俺の後だろうが何だろうが、そんな世界は意味がないんだ。ちゃんと天寿を全うして欲しかったのに。綺麗なお前には、それだけ綺麗な未来が約束されていて当然だったのに。死ねば良かった。やっぱり俺すぐに死んだら良かった。死ぬ自由があったのに、ほんとはそんな自由なんていらなかった。俺どうしても、何とかして生きていたかったんだ。馬鹿だ。馬鹿は俺だ。妹を助けたことが俺の生まれた意味そのものだったんなら、十を寿命にしてりゃあお前まで巻き込むことはなかったのに。ごめん。ほんとにごめんな。謝って許されるようなことじゃないけど……なぁ、俺の声ほんとに聞こえない? 紫野岡、紫野岡、紫野岡――)

「しのおか……っ」
 切り裂くような痛みの後、掠れた声が部屋に響いた。
 もう遅い。分かっている。塞き止めたかった未来は、既に確定した後だった。
 白虎が部屋に充満している空気という空気を破るかのような勢いで、爪を尖らせた前足を振り上げる。それと同時に、ただ巨体を鎮座ましていた蛇霊が跡形もなく消え去った。
 残されたのは僅かな死臭と、タール。意識のない依頼人。そして仄かに香る、蚊取り線香の匂い。
 鼻を鳴らして、百虎も後を追うように姿を消した。役目を、終えたのだ。
 命を下された対象を排除した後は、使役雇用主が何か追加事項を足さない限り、その場に残らなければならない義務はない。
 大きな尻尾を翻して、九尾も後を追った。盟約の橋渡しと、初仕事までの一部始終を見届けるのが彼の仕事なら、確かにその全ては完了している。視るものを圧倒させるような神々しい狐の神は、夜闇の中へゆっくりと気配を溶かして行った。
 まるで、ほんの二、三秒もかからずに訪れる静寂。手に余るような、深い虚脱と倦怠感。
 恭介は上がる息をそのままに、苦々しい思いを噛み殺す。ああ、こんなに役立たずの自分なんて。
(今すぐに殺してしまいたい)
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