第3話

文字数 2,355文字

「それじゃあ失礼します」
 日々の横暴な態度に反し、最低限の礼節はきっちり慮るのが紫野岡圭吾という男だ。そんな定例通りの挨拶を一言口にした後は、ぺこりと頭を下げてすたすたと玄関へ向かってしまう。台所で炊事をやっていた恭介は、お玉を片手に味見をしようとしていた姿勢のままかちんと固まった。
 振り向いた視線の先には、後ろ姿の残像さえ残らなかった。おいちょっと待て。わざわざ三合の飯を炊き、二人分の味噌を溶かしているオレの意向は無視か。
 慌てて火を止め、みじん切りを終えたネギを放り込んだ。薬味のついた手を、さっと水で洗い落とす。手拭い代わりに袴で手を拭きながら、恭介は靴を履いていた圭吾の背を追いかけた。
 足音に反応したのか、床に載せたままだった片足を軸にして彼が振りかえる。予想よりも、素に近い表情だった。無防備な顔はシニカルな笑みよりも慣れていなくて、簡単に心臓が跳ね上がる。
 固まっていると、首を小さく傾けられた。言葉を使わずに、引き止めた理由を促される。今更だが、つい持ってきてしまったお玉が恥ずかしい。ネギを入れる暇があるのなら、流しに投げてくれば良かった――まるで余裕がないのがバレバレじゃないか。
「飯くらい食ってけよ。まだ時間あるだろ」
 結果、怒ったような口調でのお誘い。我ながら本当に可愛げのない男だと思う。
「あ、すみません。それじゃご馳走になりますね」
「……おう」
 素直に食べて行きますと言われれば、それはそれで気恥ずかしい。何気なさを装って、恭介は無意識に時計を見遣った――六時五十五分。圭吾の学校は結構離れているので、ここからでは始業の一時間前に出なければならないが、今からなら、三十分を食事の時間にあてても余裕で間に合うだろう。
 そんな暗算を素早くやれるぐらいには、引き止める理由をいつも探していると言う訳で。浅ましいという思いが先走るのは、恐らくこの辺りの下心が原因だろう。
「別に、ご馳走じゃねぇし。普通に、ご飯と味噌汁。あとは昨日の残りで、きんぴらがあったと思うけど」
 居たたまれなくなって、軽口を叩く。自分の可愛げのなさは嫌という程自覚していたけれど、立て続けにこの態度は我ながら呆れてしまう。ないというよりは、いっそマイナスなんじゃないかという気さえしてきた。
「充分ですよ。ありがとうございます」
 対して、この後輩の礼儀正しさはどうだろう。皮肉屋だし、棘のある言い方もしょっちゅうだけれど。圭吾は決して、言葉を軽んじない。その場で必要だと思う挨拶や礼儀を、後回しにしない律儀さがある。
 そんなところも、好きだなと思う。整い過ぎた容貌より、うんと魅力的な彼の長所だ。
「……クロワッサンとか、ベーグルとかねぇぞ」
「僕、朝食はご飯派ですけど。先輩もでしょ?」
「そうだけど。何かお前は違うイメージがある……朝はフランスパンとヘーゼル・ナッツ・カフェで決めてますけど、みたいな」
 思いつく限りのお洒落な朝食メニューを口にしてみたら、呆れたように溜息をつかれる。
 優しくて仄かに甘い表情が、いつもの馬鹿にしたような笑い方に戻った。失礼な、とは思いながらも、こっちの方が落ちつくので有難かった。いつまでも、ご飯ひとつであんなに柔らかく笑われてしまっては、こっちの心臓が持たない。
「何ですかその勝手なイメージ。朝からそんな甘ったるい飲み物と、食べるのに時間が掛かりそうなパンなんかねだる訳ないでしょう」
「ぎりぎり、固めの食パンならあるけど。お前が望むなら」
「……それ、封を開けたまま放置され、賞味期限を迎えた最後の一枚ってだけですよね」
「何で分かった」
「そうなる前にすぐ冷凍保存してくださいって、もう何回も言ってると思うんですけど」
 頭を軽く小突かれる。雑だけれどセーブされたそれに、浮足立つ自分が情けない。頬が際限なく緩む前にと、圭吾に背を向けて先を歩く。
「……てゆうか、先輩普通に料理作れるんですから、僕が居ない時もちゃんと自分で作って食べてくださいよ」
 台所へと足を踏み入れる恭介に従いながら、ふいに圭吾が呟いた。どこか諦めたような口調なのは、何度言われても改善の傾向が見られないからだ。確かに、面倒なので普段改めて台所に立つことはないけれど。全く料理が出来ないという訳では、ない。
 ん、と生返事を返しながら、味噌汁を温め直す。勝手を知った仕草で、圭吾が食器棚を開く音が背後から聞こえた。
「……飯なんて」
「先輩?」
 呼ばれて、はっとした。
 息を飲む。危なかった。殆ど無意識で、唇が動いていた。言葉にしてしまったら最後、彼相手では誤魔化すのも難しいだろうに。
 ――気を抜くと、すぐにこれだから。
「……別に、何でもない」
 緩く笑って、圭吾からお椀を受け取った。食べても食べなくても一緒だ、なんて。思っていたって口にするべきじゃない。事情を深く問い質されて、困るのは自分なのだから。
 追求の視線を避けるようにして、椅子を引いてやる。自分は反対側に回って、彼と向かい合わせで腰を下ろした。いただきます、とバラバラに言いながら、各々で箸を利き手に掴む。味噌汁を一口飲んでから、そういえば漬物があったのに、なんて。どうでも良いことを恭介はぼんやり思った。
 先を知ることの出来る占い師でもないし、六星占術も満足に学んではいないけれど。一つだけ、恭介には分かっている未来があった。
 繰言のようにいちいち叱ってくれる圭吾の親切は有難かったけれど、素直に頷くことが出来ないのには、それなりに理由があって。その事実をまさか告げる訳にもいかない恭介は、いつも咎められる度、生返事を返す他にしてやれるリアクションが思いつかない。
 ――二十歳までしか生きられないと決まっているのに、几帳面に食事を取る気にはなれないのだ。
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