第20話 分岐点

文字数 4,734文字

真紀のアパートは一階の端にあり、俺は久しぶりに真紀の部屋を訪れた。
「おじゃまします」
「どうぞどうぞ、遠慮しないあがってください」
「遠慮はしないけどさ」スニーカーを脱いで整える。6畳のワンルームにロフト付き。この部屋を訪れるのはいつ以来だろうと思い返す。2年くらい前に4人くらいで来た気がするがはっきりとは思い出せない。ただ、そのメンバーに亜由未と新井、勿論、千葉も含まれていない。


「綺麗に片付いているもんだ」当たり前のことに感心してしまう。
「私、確か1度だけ先輩の部屋にお邪魔したような気がするんですけど、あれは酷かったですねえ」
「あれ、とか言うなよ。一応あそこで俺は寝起きしたり勉強したりしているんだから」
「先輩って生真面目なくせに

ですよね。不思議です」真紀は暖房をつけ、「ここに置いてください」とコンビニのレジ袋をベージユ色のカーペットに置くように指示した。


と多少は傷ついてしまうようなことも言われても、事実なので言い返せない。俺は真紀の言う通りレジ袋を下ろし、コリをほぐすように両腕をぐるぐる回した。
「やっぱり重かったなあ」
「お疲れさまでした」と言いながら、真紀はこちらを見ずに、ビニール袋からどんどん買ったものを取り出している。酒、つまみ、お菓子、酒、つまみ、お菓子、と見事にループしている。
「とりあえずはこれで良し」真紀は満足気に空になったレジ袋の口を開き、円形のテーブルの端に置いた。
「ゴミを入れるのに丁度いいでしょ?」尋ねてもいないのに真紀は自慢げに答えた。
小さなテーブルは4分の3を物で支配され、更に小さく見えた。
「早く座ってください」真紀に促され、真紀の正面に座る。
「どれでもどうぞ、お好きなものを選んでください」
「じゃあ、このオレンジジュースを」俺が手を伸ばすと、真紀は蚊を叩くように俺の手を弾いた。
「最初の1杯くらいはアルコールを飲んでください。あとは文句を言いませんから」
「うーん」
酒を選ぶだけで悩む。ビールは苦手だった。カクテルは美味しいと思ったが、アルコールの含まれているジュースみたいなものであることを忘れ、飲み過ぎてトイレで吐いた忌々しい記憶が残っていた。
「じゃあ、これで」仕方がないのでビールを選ぶと「乾杯です!」と真紀は手に持っていたビールを高々と持ち上げた。
「何に?」
「何でもいいんですよ。じゃあ、明けましておめでとうございます、で乾杯です」
「適当だなあ」と言うとテーブルの下で真紀は胡坐をかいている俺の膝を軽く蹴とばした。
「だから、なんでもいいんです。ほら乾杯しますよ!」
「わかった、乾杯」
パワフルな後輩だ。素直に従ったほうがいい。乾杯をしてビールを喉に流しこむと、ビール独特の苦みで俺は顔を歪めた。


「それで、最近何かありました?」
「ずいぶん唐突だなあ」新井のことは真紀には話せない。俺はビールが苦くて堪らないというようにわざと顔を顰め、真紀から視線を外した。
「バレバレなんですよねえ、本当にわかりやすい先輩です」真紀は手に持っていたビールをグビグビと音を立てて飲み干した。真紀は相当アルコールに好かれているようだ。酔って

になっている姿を俺は見たことがなかった。


逡巡する。話したい気もするが、それでは新井だけでなく亜由未も裏切る行為だ。
「うーん、真紀、お前ってさ死にたいって思うくらい悩んだことってある」
「なんですか、突然」
「一般論だよ」
「ふーん」真紀は俺の隠し事に感づいたのか、「まあ、そういうことなんですね」と勝手に納得し、少し考えた。
「そりゃありますよ。生きていれば当たり前なんじゃないですか?先輩はそうやって悩んだことがないんですか?」
「まあ・・・あるな」
「でしょ?」真紀は次の酒に手を付けた。
「ほとんどの人がそう思ったことが一度や二度はあると思いますよ。ただ・・・」
「ただ・・・なんだよ?」
「それを実行してしまうかどうかじゃないですか?」
真紀は本当に一般論を語っている。言われるまでもなかったが、やはりそうだよな、俺は改めて納得した。


「その話って亜由未さんと関係あるんですか?」
「いや、直接的には関係ない」言葉を発した後に後悔をした。誘導尋問に引っ掛かってしまったようだ。
「だったら先輩はあんまり悩まないほうがいいですよ」真紀に他意はなかったようだ。つまみの袋を開けて次々と口に放りこんでいる。
「まあ、そうなんだけどさ。なんていうか、もどかしさだとか後悔とか焦りだけが常に纏わりついているようで、ときどき気が重くなる」俺は真紀に本音を打ち明けた。真紀はサバサバした性格で、俺にとっては話しやすい大切な後輩だった。


「それなら、亜由未さんとHすればいいんじゃないですか?例えその場凌ぎだとしても、それが一番手っ取り早いとは思いますけど」真紀は平然と答え、俺は飲み込むの苦労していたビールを吐き出しそうになったた。
「お、おま、まあ・・・そうかもしれないんだけどなあ」
否定しきれない。俺もそう思っていた節がある。だけど亜由未はその方法に明確な拒否反応を示した。「お願いだから待っていてね」とだけ言い残して。


「その反応だとできませんでしたね、違いますか?」いつの間には真紀は俺の隣に座っていた。
「亜由未さんって可愛いし、良い人なんですけど、優等生みたいなところが私は苦手です」
「お前、飲み過ぎだって」
「言っておきますけど、私はこれくらいじゃ酔いませんよ」テーブルの上には空になったビールが5本綺麗に並んでいた。





悪魔の囁きだった。真紀はビールを掴んだまま胡坐を掻く俺の膝の上に上半身を摺り寄せていた。
「そういうわけには・・・」否定しながらも、真紀の体を押し返すことができない。
「大丈夫ですよ、別に亜由未さんと別れて私と付き合ってくれって言っているわけじゃありません」真紀の吐息とかで心臓が高鳴る。
「言っておきますけど、私が亜由未さんの身代わりになるとかそういうことじゃないですかね」黙って硬直してしまった俺を尻目に真紀は続けた。
「まあ、先輩のことだからそういっても私と亜由未さんを混合しちゃうと思いますけど。それでも私は良いんです。こんなこと誰かに言うわけでもありません。言いませんよ、こういうことは」
「でもさ」
「先輩、勘違いしないでもらいたいのは、こんなことをするのが別に先輩が初めてじゃありませんから。私は単純に自分が好きだと思う人と体を重ねたいだけです。今までずっとそうしてきました」
我慢できずに真紀の口元に顔を近づけ、そして止める
「やっぱりダメだよ。俺はゴムなんか持ち歩いていない」


真紀はジャンプするように俺から離れると、まだ手をつけていないコンビニのレジ袋に手を突っ込んだ。何かを探すように搔きまわしている。
「あったあった」
真紀が俺に見せたのは、さっきのコンビニで買ったのであろうコンドームだった。
「これなら問題ありませんよね」真紀が笑った瞬間、俺は真紀は抱きしめていた。
「用意がいいなあ、真紀には敵いそうににないよ」
「素直なのが一番です」
無言でキスを繰り返し、「あっちで」と真紀が指差したロフトへ向かい、またキスをした。


裏切り、最も似合う表現だと思う、だが理性を本能が上回り、頭を空っぽにしたい思いだけが駆け巡る。
「強引なのはかまいませんけど、ちょっと待ってください」真紀の顔は高揚していた。真紀はゆっくりと服を脱ぎ始める。待っている時間が真綿で首を絞められるような感覚を呼び覚ます。
「先輩は脱がないんですか?」言われるがままに俺は服を脱ぐ。もう何が何だかわからずにいたが、興奮していることだけはわかる。
裸の真紀に貪りつく。頭の芯が麻痺をしているようだ。
「先輩、気持ちいいですか?」
「ああ、気持ちいい」溶けそうな快楽に包みこみ、真紀と溶け合って一つになりたい衝動に強く駆られる。
「ふふ、私もです。思っていた以上に気持ちがよくて・・・」
黙らせるように真紀の口を自分の口で塞ぐ。
「もう大丈夫です、というより欲しいです」
「わかった」真紀が買ってきたゴムを付け、ゆっくりと腰を動かす。


「ああ、ううん、あ・・・」
真紀は口に手をあてがい、必死で声をあげないようにしていた。アパートでこんなことをしていたら丸わかりだろう。やはり真紀がこういう形で男に身を委ねるの初めてではない。
醜い嫉妬と裏切りの熱を冷ます安堵感が同時にこみあげてきた。


頭の中が快感だけで埋め尽くされる。嫌なことを考える隙間も与えない。
亜由未への裏切り、新井を心配する偽善のような心配、ここ数か月で起きた様々な出来事が浮かびあがりそうになる度に俺は腰をふった。
求め、求められが続き、結局、俺は真紀と3回もセックスをしていた。


「私はこのままでもいいんですよ」
二人でアパートの狭い湯船に浸かっていると、前に座る真紀が振り返り、俺にキスをしてきた。
「このままって」俺は後ろから真紀をぎゅと抱きしめる。気持ちがいい。それ以外の言葉がみつからない。
「だから、亜由未さんと付き合っていても、たまには私とセックスしても・・・です」
「セフレってこと?」
「まあ、平たくいえばそういうことです」
「そうは言っても、真紀はモテるだろう?」
「一度Hしたからですか?私、先輩からそんなことを言われた覚えがないんですけど」真紀がわざと頬を膨らませ、(たが)が外れた俺はもう一度真紀を抱きしめてキスをした。
「前々から思っていたけど口に出さなかっただけだよ」
「恥ずかしがらなくても良かったのに」
「いや、恥ずかしいよ」そう俺が言葉に出すと、真紀は顔だけ動かして、後ろから優しく抱きしめていた俺を見た。
「これって亜由未さんにバレたら大変ですね」真紀はまるで他人事のように言う。
「もしかしてバラす気か?」急に不安になる。バラされたら亜由未との関係は確実に終わる。
「まさか。そんなことをしたら修羅場ですよ。私はそういうのお断りです」


真紀の性格は多少なりとも知っているつもりだった。確かに真紀は争いを嫌う。それは友達同士でも男女関係でも同様に。
真紀は生き方が上手に見えた。仮に問題の焦点が真紀に当たりそうになると、うまくずらして別の人間にフォーカスを与えるような技術を持っているのではないかと疑ってしまうほど真紀の処世術は長けていた。


「さあ、出ましょう」真紀が促しタオルで体を拭きながら「もう一回くらいしますか?」と意地悪く笑った。
「もう無理だな」
「でも、だいぶお久しぶりだったみたいですね。私がいうのも変ですけど、物凄く興奮していて、先輩の別の顔を見た気がします」
「ああ」と言い、まだタオルで拭いてる真紀に自分の裸体をくっつける。
「やっぱり、もう1回したい・・・かな」
「先輩、すっかり夢中になっているみたいで私は嬉しいですけど、それじゃあ、亜由未さんにバレちゃいますよ」
「大丈夫・・・だと思う」


               ✦


ここが分岐点だった。誰も責められない。責を負うのは俺だけだ。
真紀が悪いとは思えない。好意をもっている後輩と知りながら、ノコノコついていった俺が悪い。
勿論、亜由未に非があるわけもない。真紀は亜由未を優等生と例えたが、その亜由未に付き合って欲しいとお願いしたのは誰でもない、俺自身だ。
シアターのデジタル時計は22と表示している。あれは時間ではない。浪人して大学に入学したので、あの数字はきっと場面に沿った年齢をさしているのだろう。
だとすると、この長い長い夢はもうすぐ終わりをむかえようとしている。
38歳の俺がもし人生をやり直したら別の行動をとったのだろうか?
考えても無駄だろうが、そう考えずにはいられない。
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