第25話 懐古

文字数 4,131文字

ふああ、欠伸が出る。それよりも一体今は何時なんだろう?と思い壁時計を目をやる。

朝の7時半、「嘘だろ?」思わず声に出してしまう。

20時半にウトウトして眠り、過去の出来事を映画のようになぞった。

しかし、12時間近く寝ていたとは思わなかった。




洗面所に行き顔を洗う。間違いない、おっさんの顔だ。前髪も薄い。

夢を見ていたとは思えない。夢にしては鮮明すぎたし、俺は内容をしっかり覚えている。




部屋で充電していたスマートフォンが鳴っている。ハンドタオルで乱暴に顔を拭きながら画面をタップする。発信者名は「亜由未」だった。

いちいち驚かない。この歳になるまで俺は3回スマホを買い替えた。2回目に買い直したときは、持っていたスマホが壊れ、そのときに番号が全く別のものになり、俺の新しい番号を知っている人も限られていた。

だから亜由未がこのスマホの番号を知るはずもない。だが、俺は至って普通に電話に出た。

「おはよう、でいいのかな?」間違いない、亜由未の声だ。

「亜由未で間違えないんだよね?」

「そうだけど、どうしたの、急に?」

「いや、別にいいんだ」

「それで、突然なんだけど、博司君の空いている時間でいいから会えないかな?」

「もちろん、俺も会いたいと思っていた」

「それは奇遇だね」と亜由未が笑い、「奇遇というより俺には使命に思えて仕方がない」と言うと「使命か・・・」と笑うのを止めた。




「できることなら、あの丘で会えないかな?」

「あの丘って、私が連れていった、あの丘公園?」

「そう、あそこ」

「いいよ、何時がいいの?」

「できれば夜がいいな。今日の夜でも平気?」

「平気だよ。じゃあ、20時に丘公園で。現地集合でいい?」

「うん、じゃあ20時に」

短い会話なのに、俺には大学生の亜由未という素敵な彼女がいると錯覚してしまう。

夢はもう終わった。今の俺はしがない38歳のおっさんだ。寝ぼけている場合ではない。




今の俺には自分の車がない。ろくに働いていないので買えるはずもなく、俺は例によってお袋から車を借りた。あのとき借りていた軽自動車は車検のときにステップワゴンに変わり、セダンに乗っていた親父が軽自動車の持ち主になった。

車内は勿論、禁煙だ。仕方がないので煙草代わりにガムを嚙んだ。

あの公園を訪れるのは久しぶり、というよりは俺には2回目だった。それでも道は覚えていたし、わからければカーナビにセットしようと思ったが、何の問題もなく到着した。




駐車場に車を停めると、俺はすぐに煙草に手を点けた。ニコチン依存症だよなあ、と独りごちる。

「本当にいつも煙草を吸っているんだから。変わらないね」

振り向くと、亜由未が立って呆れ顔で俺を見ていた。

夢の続きではないのに、つい抱きしめたくなりそうになる。

「あのさ」と声を絞り出した途端に、頬を涙が伝わっているのがわかった。

「ちょっとちょっと、どうしたの?」

「ごめん、なんだか今更で本当に申し訳ないんだけど、亜由未、ありがとう」

「ううん、それは私も同じ。本当にありがとう」亜由未は目に涙を浮かべ笑ってみせた。




ベンチに並んで腰を下ろす。何をどう聞くべきか、ある程度は考えていた。

「俺は、すごく長い夢をみていて、嫌なことばかりだと思って、ずっと忘れたふりをしていたら、いつのまにか本当に忘れていた」

「うん」

「でも、悪いことばかりじゃなかった。楽しかった。幸せだった、亜由未のおかげで」

「ありがとう、そう言ってくれると嬉しいよ」亜由未は少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「それで・・・」

「それで?」

「君が亜由未なのは間違えないと思った。ただ、どうして今なのかなって?」

「正直に言うと・・・」俺は固唾をのんで亜由未の次の言葉を待った。

「私にもわからないんだ」

「え、でも、今の亜由未はあのときの亜由未のままだよ」

「うん、それを含めてわからないの」

「ただ」

「ただ?」

「博司君、あなたに会いたいと強く願った。一度でいいから、本当に一度でいいからあなたに会いたいって。できればあのときの私のままでって」




「嘘じゃないみたいだね」

「もちろん」

「俺は・・・正直会いたいという感情をなくしていた。亜由未のことは、はっきりと覚えているよ。でもあれから」

「あれから、16年ってところかな?」

「そうか、どうりで俺も老けるわけだ」つい髪の毛を触りそうになる。ああ、そうか昔とは違うんだと伸ばした手をそのまま戻した。

「そもそもなんだけど、私たちが別れちゃった理由って覚えている?」

「ああ、そのことね」




新井の死を知って俺は酷く落ち込んだ。俺に何かできたはずだ、と常に自問自答して、そのうちに体が重くなり、考えることに疲れた。

ただ、亜由未のおかげで乗り越えることができた。二人だから一人では抱えきれない荷物を持ち上げることができた。

できることならば、ずっとずっと、それこそ人生が終わるまで亜由未と一緒にいたいと思うようになっていた。




しかし、大学生と言うぬるま湯に浸かっていたせいか、社会人になった途端、熱湯に放り込まれたようで痛くて苦しくて辛かった。

「私もいきなり移動になったからね」

「まさか1年目で関西に行っちゃうとは思ってもみなかったよ」

「私もだよ」

「でもね、今だから言えるんだけど、俺は亜由未と一緒になりたかった」

「結婚って・・・そういうことかな?」

「本当に今更なんだけどね」おっさんが大学生の可愛い女の子に愛の告白をしているようで恥ずかしくなる。

「もっと早く言って欲しかったなあ、プロポーズしてくれたら、私は大学生のときでも喜んでうけたのに」

「それは無理だよ」半人前にもなれない男がプロポーズなんて百年早いと今でも思っている。もしも、それで子供でもできてしまったら無責任極まりない。




亜由未を幸せにしたいと思えば思うほど空回りした。亜由未と結婚したいと思えば思うほど仕事にプレッシャーを感じた。元々なんとなくで選んだ会社だ。俺が働くということを舐めすぎていた。

会いたくても亜由未はいない。電話で声を聞くことはできても肌には触れられない。

亜由未が頑張っていることを聞くと自分も頑張ろうと思いながら、また空回りした。

そのうちに、俺は亜由未と連絡を取るのが難しくなっていた。




今のままで亜由未に何を話せばいいのか?亜由未と幸せになることが絵に描いた餅になると焦り、不安ばかりが募っていった。

そのうちに亜由未と幸せになる姿が思い浮かべられなくなった。いくら想像力を働かせても亜由未の横で一緒に笑う自分の顔が思い浮かばず、思い浮かんだとしてもそれは俺ではない別の誰かだった。

結果的にいえば、俺が亜由未から離れようとした。俺では亜由未を幸せにできないと、都合のよい理由で。




「私は別れたとは思っていないんだ」

「え?」

「博司君に振られたと思っている」亜由未は不満そうだったが、悪戯っ子のように笑った。

「そんなわけがない、あるはずないじゃん」

「だって電話をしても出てくれないし、メッセージも返してくれない。挙句の果てには電話番号でも変わっちゃってるし」

「それはさ・・・」何を言っても言い訳になる。疎遠になったのではなく、俺が疎遠にしたのだから。

「意地悪な言い方をしてごめんね。でも博司君が頑張っているのは知っていたし、それと仕事がうまくいっていないのも知っていた。そういうとき、近くにいられたらってずっと思っていたの」

「距離とか仕事のせいにしたくないんだ、俺が甘く考えすぎていただけだよ」

「それがマイナス思考なの。私がいないとすぐに呑み込まれちゃうんだから」

「手厳しいね」

「でも、本当のことでしょ?」

「うん。そうだね」やはり亜由未だ。何もかもお見通しだ。




「でも、私がいなくても、博司君の近くには真紀ちゃんがいたでしょ?」

「それは言わないでよ」俺は亜由未から視線を外して、こうべを垂れた。

真紀は後輩なので確かに近くにはいた。でも4年生になった真紀は、就職活動やら卒論のことでいつも忙しなく動いていた。

そもそも、この丘で俺は二度と亜由未を裏切らないと誓った。俺には勿体なさすぎるこの女性を泣かせたり、悲しませたりしないと自分自身と約束を交わした

「そういえば・・・真紀と最後に話したときかな、千葉のことを聞いたんだ」

「なんか、その名前を聞くのが懐かしい」

「俺は今でも嫌だけどね」唾を吐き捨てるように言い放つ。そして真実を伝えるために更に続けた。

「千葉って、あの事故のあと、いつの間にか学校を辞めていたらしいんだ」

「4年生のあの時期に?だってもう卒業まで僅かでしょ?」

「いや、千葉は単位が足りなくて留年するしかなかった。だからもう一度4年生をやり直さきゃならなかった。卒論とか言っていたけど、あれは亜由未と一緒に行動するための嘘だったんだよ。それで亜由未は入院して俺は車を無くした」

「そうだったんだ」今の亜由未にも知らないことはあるようだ。じゃあ、どこまで、何を知っているのだろうと首を傾げた。




「博司君は聞きたくないと思うんだけど」亜由未はそう前置きした。

「私が千葉君と付き合っていたのは知っているよね?」

「ああ、亜由未の汚点だ」

「そういうことを言わないで。とりあえず最後まで聞いて」

「わかった」

「私も千葉君が初めてできた彼氏じゃなかったんだけどね、なんていうのか、千葉君が求めている愛情が違うように思えて仕方がなかったの」

「うん。続けて」

「彼は私に母性を求めている、甘え方とかそういうのかな?はっきりとは言い切れないんだけど、そんな気がしてね。だから私は千葉君とはもう付き合えないと思って断ったの」

俺の頭に思い浮かんだのは、大金を持参し、申し訳なさそうに肩を竦めている千葉の母親の姿だった。

「亜由未は母親じゃないし、母親にはなれない」俺たちにはわからない事情があるのだろう。でも、千葉、それは違う、同級生に母性を求めるのは違うと思う。




「俺は亜由未と十数年ぶりに会えて凄く嬉しいんだけど、何か知っているはずだよ。ただ思い出話をするために会えたとは思えない」

核心をついたと思った。聞くのが怖かったが、聞くまでこの中途半端な状況は改善しないとも思っていた




「うん、じゃあはっきり言うけど、博司君はどうして病院に行かないの?何で行くのをやめちゃったの?」
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