第6話 悪酔いしそうだ
文字数 5,216文字
駅の近くにある大手居酒屋のチェーン店のカウンター席に、俺と真紀は並んで座った。18時過ぎだとうのに店内は閑散としていて、俺と真紀の他に2組ほどしか客がいなかった。
「先輩は何を飲みますか?」真紀は嬉しそうにメニュー表をペラペラと捲っている。
「いや、俺はあんまり酒は強くないから、飲めてもビールで中ジョッキだけだよ」
「そうなんですか?」真紀は意外そうに俺の顔を覗き込む。
「なんだよ?」
「いや、先輩ってわりと男っぽい感じがしていたから、結構飲むのかと思っていました」
「嬉しいんだか、悲しいんだか、残念ながら俺は下戸だよ」
よく言われていた。それしか飲めないの?意外だね?ゼミの飲み会でもお酌されそうになっては慌ててコップを手で隠して、「ごめんね」と愛想笑いをした。
よく酒を飲めない人は人生を損しているとか言う奴や、酒は百役の長とかぬかす奴がいる。それも煙草は百害あって一利なしのおまけつきで、だ。
自論を展開させてもらうなら、飲酒をするから事故がおきる。煙草は確かに有害だ。副流煙で周りの人にも迷惑をかける。でも人殺しのスピードで言ったら酒なんかのせいで飲酒事故が起きてしまう。そして罪もない命が失われ、当事者は「酒のせいで覚えていません」とまるで自分には責任がないかのように答える。俺はそれがたまらなく許せなかった。
ただ、こういう屁理屈を言うと面倒くさがられたり、嫌悪感を剥き出しにされるので極力言わないように我慢していた。
グビ、グビ、決して上手いとは思えない、茶色の苦い炭酸を喉に少しずつ流しこむ。ビールを上手いと思えないのは、成長していないのか、そもそもアルコール自体に興味がわからないが、俺はポケットから煙草を取り出して火を点ける。
「そういえば、なんで俺なんかに興味があるの?」
ストレートに聞けるのは本当に疑問で、その理由が何であれ、さして自分にダメージは受けないとわかっていたからだ。
先輩って本当によく煙草をすいますよね、と真紀は前置きして
「知らないと思いますけど、先輩ってそこそこ人気があるんですよ。顔は決して悪くないし、服装や髪形にも気を使っているし、それから優しいと思ったら急に冷たくなったり、そういうギャップがいいんじゃないですか?」真紀はいつの間にか、中ジョッキのビールを半分まで一気に飲んでいた。
「それって素直に喜んでいいことなの?」
服装に金をかけているのは本当のことだった。大学に入学したとき、キャンパスの男女比が男3、女7でビックリしたのをよく覚えている。
女子校が共学になったほどのハーレム感はないが、自分次第、もちろん外見に重きををおけば損はしない、そんなことばかり考え、バイトに明け暮れてはそのバイト代を交際費や服装に費やしていた。モテないと思う男がとる典型的なパターンだ。「モテるためには」とかいう教材にも載っていそうなことをあらかた試していた。
「もちろん、素直に喜んでください」ペースが早いのか俺が遅ぎするのか、真紀は次の酒を注文していた。
「そう、それならいいんだ」
「私は個人的に先輩に興味があったんです。どうですか?嬉しいですか?」
「ああ、そうだね、どうもありがとう」「なんですそれ?私も女の子なんですけど」俺は平然を装いながら心臓の音が聞こえないか心配だった。嬉しくないわけがない。それは彼女がいても同じことだ。
「ただ」そこまで言って真紀は店員が持ってきたばかりの枝豆を、リスのように顔を細めて齧っている。
「ただ、亜由未さんと付き合っているっていうことはかなり大きいと思います」
「そうなんだよなあ・・・」大きな溜め息を吐いた。
それはわかっていることだった。彼氏だから贔屓目にみているわけではなく、確かに亜由未は可愛いらしかった。人気があるのも知っていたし、俺と付き合ったことで、俺はファンから藁人形で打ち付けられてるのではないかと思うこともあった。
「それは人気があるのではなく悪目立ちだな」苦手なビールを我慢して少しずつ啜る。無理してビールなんかを頼まなければよかったと後悔するが、俺特有の歪曲した人生観が「とりあえずビール」という注文以外を許さなかった。
「まあまあ、そういうのも抜きにしたって、私みたいに先輩に興味を持つ子もいますから」
真紀は気を落とすなよ、とでも言いたげに俺の背を軽く叩いた。
やっぱりこいつも人気があるはずだ。以前、聞いてもいないのに千葉が真紀を口説こうとして、けんもほろろでとりつく島もなかったと言っていたのを思い出す。
まあ、千葉じゃ無理だよな、俺は真紀に聞こえないように独りごちた。
店内の時計を一瞥する。18時半を過ぎたところだ。亜由未たちはまだだろうか、気が逸る。「先輩、私といるのにそういうのって失礼ですよ」
視界が真紀の顔で遮られる。「お前って決して太っているわけじゃないのに、丸顔だよなあ」真紀は亜由未とは違うが可愛いと思う。本人はしたたかなので、そのことも自覚しているかもしれないが。
「それって酷くないですか!」
「ごめんごめん、悪気はないんだ」
ふふふ、ははは、狭い店内に俺たちの笑い声が響き渡る。咎めるほどの声量ではなかったし、嫌な顔をするほど人もいなかった。
「今日は誘ってくれてありがとうな、いい気分転換になったよ」
「お礼はいいですけど、私は亜由未さんの代わりじゃないですからね」
「わかっているって。でも、お礼に今日は奢るよ」
「本当ですか!やったあ!」真紀は木製の椅子から立ち上がり握り拳をつくっている。俺は一度立ち上がり、財布の中身を確認するため、上着にしまってあるはずの財布を取ろうとハンガーに掛けているミリタリージャケットのポケットの中の手を伸ばした。
チカチカチカ。蛍のような点滅が見える。そうだった、音を消してバイブレーションにしていた。財布よりも先にスマホに手を伸ばす。亜由未かもしれない。
スマホを取り出して画面を確認する。なんだこれ?知らない番号が3回連続で表示されている。
「先輩、どうかしましたか?」
「大丈夫、何でもない」「追加で注文してもいいですか?」うん、うん、振り返らずに首を縦に振る。
留守番電話に何か吹き込まれているかもしれない。亜由未と付き合うまで留守電サービスに加入していなかった俺は、よく使い方がわからなかったが「先輩、いつまでスマホとにらめっこをしているんですか?」と真紀に問い掛けられたとき、ようやく吹き込まれていたメッセージを再生することができた。
「もしもし、こちらは吉田博司さんの携帯でお間違えないですか?私は警察のものです。至急折り返し電話をください。所有者はあなた名義なんですが、あなたの車が事故を起こしました」
この光景を俺は200人は収容できるであろう映画館の座席にたった独りで腰掛け、まるで作り物の映画を見ているように眺めている。
映画ではない映像が更に続いていく。
俺は慌てて電話をかけている。繋がった。「すみません、電話に気が付かなくて」
「吉田さんですか?」年配の男の声が返ってくる。
「すいません、状況が理解できなくて一体何があったんですか?」
「留守番電話に吹き込みましたが、事故です。あなたの車ですが、搭乗者はあなたではないですよね?」
「はい、もちろん」
「横山さんと千葉さんはお知り合いですか?」
「ええ」
「お二人に車を貸しましたか?」
「ええ」オウム返しになってしまう。気だけが逸る。
「それで、一体何がどうなったんですか?」鼻息が荒くなるのがわかる
「落ち着いてください。お二人とご無事ですが、それなりの怪我を負ってしまったので救急搬送しました。ただ、車の損害が酷くて・・・すいませんがすぐにこちらへおこし頂けますか?単独ではなく相手もいますので」
「はい、すぐに行きます。場所は・・・あ、その前に病院に行ったほうがいいのか?あれ?どうすればいいんだ?」混乱して自問自答を繰り返している俺に
「とりあえず事故現場に来てください。詳しい話はそちらでします。事故は起きてしまいましたが、誰も亡くなっていません、大丈夫ですから」
落としてしまった家の鍵を無くしてしまい、どうしたらいいかわからないで困っている小さな子供をあやすように年配の警察官は優しく語りかけた。
「先輩、どうしたんですか?顔が真っ青ですよ」真紀は心配そうに俺の体を優しく揺する。「事故だって・・・」
「事故って千葉さんたちのことですか」
黙って頷く。「私のことはいいから早く行ってください」
飲酒をしてしまい、自分の車は貸してしまっている。現場にどうやっていけばいいんだ?
まるで25メートルプールを行ったり来たりしているような感覚で、そのまま溺れてしまいそうだ。手足もふやけているようにさえ感じてしまう。
まだ、ビール一杯も飲み干していないのに悪酔いしているようで気分が悪い。
「先輩、タクシーを呼んでもらいましたから、下で待っていてください」
真紀がテキパキと動き、指示を出してくれる。
「酔っていませんよね?」真紀は俺の顔をじっと見据える。
「酔っていないし、酔っていたとしても完全に醒めるよ」
「そうですか、後で連絡をください。待っていますから」
ありがとう、俺は二階にある店を二段飛ばしで降りて、タクシーが到着するのを、ただ待つことしかできない。寒くはないのに体が小刻みに震えている。亜由未は生きている、問題はない、大丈夫だ、大丈夫。
「お待たせしました。吉田さまですか」初老の眼鏡をかけた男性が運転席の窓をあけ、明らかに挙動不審な俺におそるおそる声をかけてきた。
「は、はい」「どちらまでいかれますか」
「ええと」電話をかけてきた警察官から聞いた住所を答える。
「ああ、そんなに遠くないですけど、なんだかそのあたりで衝突事故あったらしいので少し時間がかかってしまうかもしれません」
「大丈夫・・・です」力なくタクシーの座席にもたれかかるかかり、両手を顔を隠している俺が映っている。
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こんなに混乱していたのか・・・いや混乱とかいうレベルじゃないな。映画館の座席に座る俺は前傾姿勢で目を前で両手を合わせる。タクシーは存在があやふやになりそうな俺を乗せて走り出す。自分の車が事故を起こした場所へ向かって。
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窓へ目を送ると、少しだが雨が降ってきた。行きかう車のネオンが取り調べ室のライトに見えてしまう。「お前がやったんだろう!」と暴力刑事にライトで顔を照らされている気分になる。悪いことはしていない、保険にも入っている。だが罪悪感が拭えない。車を貸さなければこんなことにはならなかった。俺が迎えに行けば良かった。ああ、気持ちが悪いな。吐きそうだ。
タクシーに酔っているせいではないが、ミラー越しに運転手が「大丈夫ですか?」と心配そうに声を掛けてくる。
大丈夫です、の言葉が出てこず、黙ってかぶりをふる。
帰宅時間のせいか車が多い土手沿いを走り、すっかり活気を失ったパチンコ屋を過ぎた辺りから、タクシーを動いては止まってを繰り返す。
ワイパーをかけるほどではないが、フロントガラスに水滴が落ちてくる。その向こうに赤色灯が3つ、いや4つだろうか、存在感をあらわすようにクルクル回っているのが見えた。
事故現場は、上部が列車区間になっているので円形の奥行きのない本当に小さなトンネルになっていた。その汚れた壁に赤いライトが周期ごとに重なり、決して美しいとは思えない万華鏡のように見えてしまう。
「ここで降ります」現場が近くなり喧騒が辺りを包み始める。
「ここでいいんですか?まだもうちょっとありますよ」そのもうちょっとは事故現場です、とは言えない。
「はい、お幾らですか」俺は示された金額を支払い、降り際に「すいませんでした、ご迷惑をおかけして」と頭をさげた。
「え?なんですか?」運転手はきょとんとしている。
「いえ、なんでもないです」
タクシーを下車しても吐き気がおさまらない。俺は深呼吸をして歩き出す。だが、50メートルほど進んだところで、たまらず吐いた。
酒にではなく、この状況に悪酔いしているようだ。
亜由未だけではなく千葉の怪我の具合、自分の車の損害、相手側の対応、相手側の車の被害状況、それとどれくらいの規模でどんな形で事故が発生してしまったのか?
電卓で足し算をしているので、毎回クリアボタンを押してしまい、答えに辿りつけない。
考えても仕方がない、行くしかない、行くしかないんだよ。頑張れ、頑張れ。気力を振り絞って歩き出す。一度歩みを止めてしまったら、もう二度と歩けなくなりそうだ。
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そうだ、行くしかいんだよ。座席に座る俺は、何度も強烈なパンチをくらい、ボロボロで今にもダウンしてしまいそうになりながら、スクリーンに映る俺を励まし、頑張れと祈るようにエールを送り続けた。