第7話 小説新潟湊のよあけ舞台裏3
文字数 701文字
富山町の茶問屋 茶木屋
主は、茶木屋(中田)清兵衛
召使300人 そのうち、200人ほどが年々、日本中をまわり、
100人が家内で用向き、300石積の小船(2隻)で異国貿易に出た。
積荷は、白布(上中下)・美濃紙半紙。都で半紙を買い積むと、
5月頃から、越中を発ち、隠岐や対馬との間を通り、薩州沖まで出かけた。
夜中には、200里ほど離れた沖を唐船が通る。
これを見て近づき、持参した品と唐薬種並び朱との交易を行う。
茶木屋は抜荷の摘発を免れている。
理由は、やむを得ず、争いに関わりあった時は、当人は中の家を辞めた
各月に自己責任で取り計らうようにとしていたから。
薩摩の島津重豪には、500万両の借金があった。
唐物を新潟海経由で、江戸・東北・北陸へ流すことにより収入を得ていた。
薩摩藩は、大量の昆布を琉球経由で清に献上していた。
昆布ロード
北前船にて、下関から瀬戸内海を通る西廻りで大阪へ運ばれた。
江戸・九州・琉球・清へとのびた。
蝦夷で取れた昆布が清まで届けられた。
蝦夷地開発
えりも岬を超えて東へ拡大
北前船が活躍
大阪から瀬戸内海、下関、日本海~松前・函館
ニシンや昆布が大量流通
天保9年
越中富山の長者丸 東岩瀬出発
大阪・新潟を廻送して、北へ向かった。
松前で昆布600石を積んで東廻りで進み、
三陸経由してかま石を出航。
幕府は、琉球経由で買い取った唐物の中で、
白糸や紗綾だけは、京の問屋で売りさばくことを許した。
残りは、薩摩藩内消費にあて、他領への持ち出しを禁止した。
ところが、8代藩主の重豪の時、
3女、茂姫が家斉公の正室となった縁にて、
斉宣と重豪両隠居の生活費を得るため、
文化7年、唐物8品の売買を長崎会所から許しをもらった。
主は、茶木屋(中田)清兵衛
召使300人 そのうち、200人ほどが年々、日本中をまわり、
100人が家内で用向き、300石積の小船(2隻)で異国貿易に出た。
積荷は、白布(上中下)・美濃紙半紙。都で半紙を買い積むと、
5月頃から、越中を発ち、隠岐や対馬との間を通り、薩州沖まで出かけた。
夜中には、200里ほど離れた沖を唐船が通る。
これを見て近づき、持参した品と唐薬種並び朱との交易を行う。
茶木屋は抜荷の摘発を免れている。
理由は、やむを得ず、争いに関わりあった時は、当人は中の家を辞めた
各月に自己責任で取り計らうようにとしていたから。
薩摩の島津重豪には、500万両の借金があった。
唐物を新潟海経由で、江戸・東北・北陸へ流すことにより収入を得ていた。
薩摩藩は、大量の昆布を琉球経由で清に献上していた。
昆布ロード
北前船にて、下関から瀬戸内海を通る西廻りで大阪へ運ばれた。
江戸・九州・琉球・清へとのびた。
蝦夷で取れた昆布が清まで届けられた。
蝦夷地開発
えりも岬を超えて東へ拡大
北前船が活躍
大阪から瀬戸内海、下関、日本海~松前・函館
ニシンや昆布が大量流通
天保9年
越中富山の長者丸 東岩瀬出発
大阪・新潟を廻送して、北へ向かった。
松前で昆布600石を積んで東廻りで進み、
三陸経由してかま石を出航。
幕府は、琉球経由で買い取った唐物の中で、
白糸や紗綾だけは、京の問屋で売りさばくことを許した。
残りは、薩摩藩内消費にあて、他領への持ち出しを禁止した。
ところが、8代藩主の重豪の時、
3女、茂姫が家斉公の正室となった縁にて、
斉宣と重豪両隠居の生活費を得るため、
文化7年、唐物8品の売買を長崎会所から許しをもらった。