第16話 軒醒め
文字数 4,818文字
夜が訪れて、それほど時間は経っていないが、すでに酔っ払いが千鳥足で歩いている。
そんな男達の間を、隼人はすり抜けていく。
すれ違う度に、男たちは振り返り、隼人を見つめていた。
隼人の容姿は、まだ幼さを残してはいるが端正である。そして、どこかしら妖艶な雰囲気がある。
その美貌に見惚れる者。
その美しさに息を飲む者。
だが、隼人の眼光は鋭い。
それは、まるで獲物を狙う獣のような目つきだ。
だが、この視線に晒されても、ほとんどの者は、ただ見とれるだけだった。
剣の世界において、美醜は関係ない。
強ければ良いのだ。
それは、力が全てを支配しているからだ。
強い者が勝ち、弱い者が負ける。
単純明快だ。
隼人は、そう思っていた。
ある酒場に足を止めた。
暖簾には、大きく『居酒屋・酒乱』と書いてあった。
隼人は、店の中へと入っていく。
店内は薄暗く、客の姿はなかった。
カウンターの奥で、主人らしき男が新聞を読んでいる。年齢にして50歳くらいだろうか。白髪混じりで、額には深い傷跡があった。
男は、気配に気づいて顔を上げた。
その表情に、驚きは無い。常連客を見た時と同じ反応だ。
隼人は言う。
店主に向かって。
「軒醒め」
それは、隼人にとっては、日常会話と同じ感覚だった。
いつもの調子で言う。
隼人は、店主の前に座る。
主人は、隼人を一睨みすると、何も言わず日本酒を取り出すと、銚子に酒と水を注ぐ。
「
無愛想な言い方だ。
だが、それが店主なりの歓迎の仕方だった。
酒は、性質や温度帯によってさまざまな味わいが楽しめる。少し手間をかけて丁寧に温めると、ふっくらとした味わいの燗酒ができるのだ。
ぬる燗: 40℃。熱くはない程度 香りがよく出る
飛びきり燗: 55℃。徳利を持つと熱いくらい シャープな香りで、より辛口になる
隼人は答える。
「人肌燗」
それを聞いて、主人は無言で銚子の酒を徳利に注ぎ、口をラップで塞ぎ、徳利を湯を張った鍋に入れる。
しばらく煮立たせた後、徳利を取り出す。
そして、徳利の酒を割り箸で混ぜ、割り箸に付いた酒を、店主は自分の肌に落として温度を確かめた。
温度計を使わなくても、自分の手で感じれば、おおよその温度が分かるのだ。
主人はそれを確認して、徳利と盃を、隼人に差し出す。
隼人は、目の前のに出された酒を手酌で飲んだ。
酒の持つ香りが、優しく鼻腔をくすぐる。
口当たりも良く、喉越しも良い。
思わず笑みがこぼれる。
それを見て、店主は言った。
「気に入ったか」
隼人は答える。
「ああ」
彼を知らない者からすれば無愛想に見える表情だったが、店主は隼人が満足げにしているのを理解していた。
それは、いつものことだ。
徳利を1本空にすると、2本目を注文した。
店主は、黙って、それに答えた。
酒の味は安物でも格別だ。
美味いと感じる内は、隼人は人間でいられる気がした。心が荒むと酒は不味くなると聞いた。
ドイツのユリウス・マクシミリアン大学の研究では、人の味覚は気持ちの影響を受けやすい。
という結果が出ている。
この研究では、被験者に「楽しい動画」「悲しい動画」「退屈な動画」を視聴させ、食事をしてもらう実験を行う。その結果、楽しい動画を見た被験者は、苦味や脂っこさ、酸味などを正確に判断できないことが判明した。
要するに楽しい場にいれば、酒の苦味を緩和できるということだ。逆に楽しくない場にいると、味や香りを正確に判断してしまい、酒の苦味や香りが気になってしまう。
それが、軒醒めのような水で薄めた酒でもだ。
軒醒めとは、酒を飲んで帰る際、軒先で酔いが醒めてしまうような安っぽい酒、酔えない酒のことを言う。
江戸時代には水割りにする飲み方がメジャーだった。そのアルコール度数は10%以下だったとのこと。
現在の日本酒の原酒のアルコール度数はだいたい17~22度であることを考えると、江戸時代の日本酒は低アルコール飲料だったことが分かる。
江戸時代は、アルコール度数に関係なく酒の量に対して税金が課せられていた。税金を安く上げたい蔵元はなるべく濃い日本酒を造り、輸送し、仲買や酒屋が薄めてかさ増ししたものを販売していたのだ。
当時の酒の総量と消費量、酒税の記録を照らし合わせると、実に3~4倍は希釈して飲んでいた計算になると言われている。
もうひとつ、江戸時代の日本酒がアルコール度数が低いお酒だったと考えられる要因が「酒合戦」だ。
酒合戦とは、江戸の酒豪たちの間で行われた大酒大会のこと。
中でも、文化十二年(1815年)10月21日千住宿の中屋六右衛門が自らの還暦を祝った「千住酒合戦」は、酒量の多さが現在まで語り継がれています。
主な記録として残されているのが、
・新吉原の伊勢屋言慶「三升五合余」(約6.3L)
・下野小山の左兵衛「七升五合」(約13.5L)
・千住の松勘にいたっては、全ての酒を飲みほしたとか…。
現在で考えれば確実に体に異常をきたす量だ。
これらの酒合戦が度々行われていたことからも、江戸時代の日本酒はお酒で薄めたアルコール度数の低いものだったと考えることができる。
逆に、水で薄めが少ない酒は村はづれまで行つてから酔いが醒める「村醒め」、「県醒め」、「国醒め」と言う。
酔が回ってくると大海のような広い湯船に浸かっている気持ちになる。嫌なこと、辛いこと、苦しいことを忘れ、ささくれ立った気持ちも和ませてくれる。
そんな時に飲む一杯の酒は最高だ。
ふと、隼人は風花澄香という女を思い出す。
隼人に勝負を挑んで来た少女だ。
どこで隼人のことを知ったか知らぬが、確実の《なにがし》という名を知り、自分の名を知っていた少女だ。
あの少女は、今頃どうしているだろうかと考えた。
彼女のことを思い出しても、怒りや憎しみといった感情は湧いてこない。
ただ、興味はある。
彼女は一体何者なのか。
勝負を挑みながらも、隼人が刀を捨てると、斬りかかってもこなかった。
隼人の命を狙いながらも、明らかに殺し屋とは違う。この現代に剣士として生きながら、剣士としての名誉を持っていた。
隼人は剣士として生きてきて、命を賭けた戦いを繰り返して来た。
いや、繰り返さなければならなかった。
それは、自分が《なにがし》だから。
《なにがし》だから、剣を持ったのか。
それとも、剣を持ったから《なにがし》になったのか。
そもそも、なぜ自分は戦わなくてはならないのだろう。
(俺は……何をしたいんだ?)
隼人は、自分の中に渦巻く疑問を、心の中で呟いた。
しかし、答えは出ない。
そして、その答えは自分で見つけなければならないものだ。
もし世の中が戦国時代や、幕末の動乱の世界ならば、一毫の迷いもなく剣を振れたのかもしれない。
だが、今の時代は違う。
剣が必要とされなくなった時代。
それでも、隼人は剣を必要とした。
剣を無くして生きることができないから。
隼人は、自分で頬を打つ。
その音に店主は驚いた表情を見せた。
「どうしたい?」
店主の問いに隼人は答える。
少し強い口調で。まるで自分に言い聞かせるように。
「なんでもねえ。もう一本くれ」
それは、いつもの言葉。
そして、いつもと同じ返事。
店主は徳利を差し出す。
隼人はそれを受け取り、手酌で酒を注ぐ。
口に含む。
迷いを打ち消すように。
飲み干した盃を覗く。濡れた盃が店内の照明を受けて、光っている。
その光りを見て、澄香の眼を思い出した。
女を斬りたくない。
そう言ったのは、隼人の本心だ。
フェミニストを気取る気はない。
ただ、斬る必要のない相手なら、傷つける必要はないと思っただけだ。
思わず自分で自分を嘲笑ってしまった。
(女なら、もう殺していたな)
殺しておいて、斬らないなどとは、なんと虫の良い話か。
矛盾している。
だが、殺したことがあるからこそ、もう二度と殺したくはなかった。
もし、あの時、澄香を斬っていたら、こんな気持ちにはなってはいなかったはずだ。
すると、隼人の手が止まった。
隼人が見つめている先には、空になった盃がある。
その中の光が、澄香の眼と重なる。
眼の奥が炯っていた。暗闇の中であっても、その双眸が見えるのではないかと思う程の鋭いそれだ。
烙とした蒼い光を宿した瞳。
現実として、火さえも灯してしまいそうなほどに美しい瞳だった。
だが、隼人はその美しさよりも、強さを感じた。
あの瞬間の澄香の瞳は、ただ綺麗なだけのものではなかった。
その奥にあるのは、覚悟。
自分の中にある信念を貫き通すという、強固な意志の現れ。
(あれは、怨みだ)
隼人は、それを感じた。
澄香は、刀を捨てた自分を斬らなかった。恨みを持ちながらも、剣士としての実力で討とうとしている。
彼女は、剣士として、誇りを持って生きていたのだ。
だからこそ、隼人が剣士であることに拘った。
あの女は諦めないだろう。
また、どこかで挑んで来ることは、あの眼を見れば分かる。
その時は、迷うことなく剣を振るわなければならない。
それは、彼女を殺すことになっても……。
隼人は目を閉じた。
脳裏に澄香が立っている。
蒼い光を宿した瞳。
その眼が、隼人を見据えていた。
殺気を帯びる。
その瞬間、隼人の手から盃が落ちた。床に落ちる前に、隼人は目を開くが間に合わない。
カシャン
乾いた音が響く。
店主が、その音に気が付き、こちらを見る。
隼人は、慌てている自分に気づく。
(なにをしているんだ……俺は……?)
自分の行動が理解できなかった。
今まで、どんな状況でも動揺することはなかった。
だが、今は違う。
一瞬とはいえ、戦いを忘れてしまった。
「どうした隼人? お前、笑っているぞ」
隼人は、自分の顔に手を当てる。
確かに、口元が緩んでいた。
自分が、そんな表情をしていたなんて信じられなかった。
「……そうか。俺、笑っているのか……」
隼人は、無意識に呟いていた。自分の言葉に驚きながら。
しかし、なぜか嫌な気分ではなかった。
それは、まるで憑き物が落ちたような感覚は、どこか心地よかったからかもしれない。
隼人は割れた盃を拾う。
「すまない。勘定にしてくれ」
店主への隼人の声は、いつもより声が弾んでいるように感じた。
その隼人の態度の変化を、不思議そうに見つめる店主だったが、それ以上は何も言わずに、会計を済ませる。
「おい。多いぞ」
出された金額は、明らかに請求金額よりも多く出されていた。店主は釣り銭にして渡そうとしたが、隼人は、その釣り銭を受け取らなかった。
「取っといてくれ。盃を割った弁償だ」
そして、隼人は店を出ると暖簾をくぐる。
夜の冷たい風が吹き込んできた。
軒醒めの酒だけあって、それだけで酔が醒めてしまった。
隼人は、店の前に立つと、夜空を見上げる。
雲ひとつない夜空。星が見える。
その星の輝きに、隼人は少しだけ微笑む。
澄香の顔を思い出す。
「あの女、また挑んでくるな」
そして、隼人は歩き出した。
今回は自分の意を貫き通した。次も自分の意を貫き通せるかは分からない。澄香の意図は分からないが、隼人も大人しく斬られてやるほど女に優しい訳では無い。
「相対した時、俺は斬れるだろうか……」
真剣勝負で迷いは死に繋がる。
隼人は頭を振った。
迷いを振り切るように。
(第17話 『鬼面』に続く)